2019年12月7 日(土)から、KAAT神奈川芸術劇場で『常陸坊海尊』が開幕した。

KAATの芸術参与就任後に初めて長塚圭史が手掛ける作品は、戦後を代表する劇作家・秋元松代の最高傑作と名高い戯曲で、1997年に蜷川幸雄演出で上演されて以来、22年ぶりの上演となる。

常陸坊海尊は、奥州平泉での衣川の戦いを目前に主君・源義経を見捨てて逃走し、その後不老不死となって何百年にも渡り源平合戦の話を人々に語り聞かせたと言われる伝説の人物だ。戯曲ではこの東北の仙人伝説を背景に、戦中から戦後へと急速に移り変わる社会の様相や、人間の生、性、差別、格差の問題などが描かれている。秋元は柳田國男の民俗学に関心を持ち、東北の風土や伝承、津軽弁を入念に学びリサーチして書き上げた。

同作が書かれた1964年は、高度経済成長が始まり、日本中が東京オリンピックに沸く時代だった。長塚は55年前に書かれたこの戯曲を「現在の私たちの社会に痛烈に響く現代劇」と称している。今の私たちの目を通して想起させられる社会の形、常陸坊海尊の物語とは……。12月6日(金)に行われたゲネプロの様子をレポートする。

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

本作は三幕で構成され、約3時間10分に及ぶ長めの公演となっているが、あっという間に終わってしまったという印象だった。セリフは全て東北弁なので、慣れない人間にとってはしばらく聞き取りづらいかもしれない。しかし慣れてくると笑いを誘うような場面も自然に楽しめるようになり、方言に慣れた頃には聴き心地の良いものになっているから不思議だ。会話を通じて、その時代、その地域に生きる彼らの生活や背景までが透けて見えるようで、戯曲の奥行きが実感できる。

物語は、敗戦直後に東京から学童疎開をしてきた小学生の啓太(山崎雄大)と豊(白石昂太郎)が東北の山の中で迷うシーンから始まる。啓太と豊は山中で、美しい少女と出会う。その少女は常陸坊海尊の妻だと称するイタコのおばば(白石加代子)の孫娘・雪乃(中村ゆり)で、2人に海尊のミイラを見せる。そして何か困ったことが起きると海尊の名を呼ぶようにと教えるのだった。

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

海尊のミイラを守り継ぐイタコのおばばは、訪れる男をミイラにしようと男を惑わすのだが、おばばに付きまとう山伏・登仙坊玄卓(大石継太)を流し目で見る姿にはゾクゾクとさせられる。22年前にもおばば役を演じた白石の存在感は本作でも際立っていた。

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

第2幕は、東京空襲で戦災孤児となった啓太と豊が身を寄せる宿舎のシーンとなる。2人は他の家に引き取られることになるのだが、美しい雪乃に惹かれ、亡くした母親の姿をおばばに重ねた啓太は、そのまま行方知れずとなる。

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

第3幕は2幕から16年の時が進み、描かれる時代は日本が戦後の復興期を迎えた1964年。魔性の女として覚醒した雪乃が、男たちを惑わせる。骨抜きにされた啓太(平埜生成)をはじめとして、雪乃の呪縛から逃れられない宮司の秀光(深澤嵐)や、啓太の前で雪乃が誘惑する豊(尾上寛之)らが苦しむ姿は圧巻だ。また中村の妖艶な表情や、すがる男を足蹴にする鬼気迫る演技にも注目してほしい。

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

さて作中では、自分の罪を悔いて百年という時間を彷徨う法師・常陸坊海尊は、懺悔をして救いを求める人間の救済者となっている。輪廻転生を経て4人の海尊が登場するのだが、1人目の海尊はおばばの回想シーンに、2人目の海尊は疎開児童たちがいる宿舎に、3人目の海尊は魔性の女・雪乃に翻弄され、倒れて気を失う啓太の前に姿を現す。4人目の海尊となるのは……。

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

『常陸坊海尊』ゲネプロより

現代の視点で観る生や性、格差社会、貧困の問題は、秋元の時代とはまた違った感性で受け取れるだろう。効率と生産性を追う目まぐるしい社会の中で生きる私たちが失ったものも思い出させてくれる。東北の伝承をもとにしたファンタジックで官能的な戯曲の魔力に取り憑かれる感覚を、劇場で味わってほしい。
 

プレビュー初日を終えてのコメント

■長塚圭史
白石加代子さんの演劇の経験値の高さ、女優としての魅力はお客さんが入った時にこそ大きく結実します。
プレビュー公演を終えて今改めて思うのは、この作品の演劇としての特別な構造です。おばば、おばばの次の世代を引き継いでいく雪乃、そして新たな海尊として生きていく啓太と、時代を継承していく多彩な登場人物が存在する伸びやかさ、豊かさもこの作品の魅力です。中堅の私がこの作品を演出させてもらっているということもそうですし、継承されていくということを感じます。ベテランの白石さんから中村ゆりさん、そして若い平埜生成さんへと伝播していく演劇を見るようで興奮を覚えます。国家や経済の都合など大きなものの力によって社会の隅に弾き飛ばされる弱き者が生まれるという社会の構図は、悲しいですが現在形です。救いを求める弱者の前に海尊が現れ、救いの象徴となる場面にはいつも心打たれます。
FPM田中知之さんのテクノ的な現代音楽を取り入れ、800年以上の長い時間を内包するこの作品同様、悠久の音色の琵琶から19世紀のポップミュージックとも言えるリストの“愛の夢”、そして現代音楽まで盛り込み、私たち自身の中に流れる大きな時間の流れを感じてもらえたらと思います。観たことのないものに遭遇したという感覚、この作品のスケールの大きさを感じ取ってもらえたら嬉しいです。

■白石加代子
おばばは、海尊を理解し、愛し、尊んで、後の代まで守っていくという特殊な存在ですね。イタコをやっていたことは職業ともいえますけれど、海尊と出会って目覚めて以来、海尊への思いは宗教のようなものではないかと、自分が出演しない3幕を見て思いました。そして、海尊・おばば・孫娘の雪乃の関係をずっと考えているうちに、どうもおばばと雪乃は違うところがあるようで、雪乃の行く末を心配する気持ちになりました。「どうにもならねえのは、われとわが罪深え心のありようじゃ」という海尊のセリフがありますが、とてもはっとさせられました。追い詰められた時、何とか自分だけは助かりたいと思わない人がいるだろうか、それは罪深いことだと言えるのだろうか。お客様もそのように感じて下さるのではないかと思います。でも、そのことを罪深いと考える人がいるのです。啓太の罪は何でしょう?おばばの言うなりに行動しただけ、雪乃に魅せられただけではないか。でも啓太は、それを罪深いと感じる清い心を
持っている。清い人間でなければ海尊にはなれないのだと思います。

■中村ゆり
お客様がとても充実した顔をされているのを見て嬉しかったです。口々に「とても美しい舞台」と言うのを聞き、自分が見ることができないのが残念です。雪乃は“魔性の女”という立ち位置で稽古を始めましたが、演劇作品に“魔性の女”というキャラクターは多いですが、雪乃の場合は、とてつもない魔性に大人になってからなぜなったのか、その裏にあるものが最初のうちはよくわからず、作品に描かれていない16年間をどうやって埋めようかと考えてきましたが、雪乃は疎開してきた少年同様、いたこの家に生まれ、選択肢のない中で圧倒的な孤独感を味わってきたのではないかということに思いが至りました。それからは、雪乃の魔性や壊れてしまった部分を理解することができ、魔性を形ではなく、心から演じることができるようになりました。戦中・戦後時代というのは、それほど遠い昔のことではないですが、失われてしまった文化などたくさんあります。日本の演劇には 耐え忍ぶ女性像が多いですが、この作品では女性が強いのも魅力ですね。『常陸坊海尊』は演劇でしか体験できない作品だと思うので、ぜひ体験していただきたいです。

■平埜生成
開演前にスタンバイをしているとき、カンパニーの温かい空気や、俳優同士で芝居を繋いでいく感覚を感じて幸せな現場に立ち会えているんだなと思いました。長い期間、一緒に稽古をしてきてようやくお客様の前でご覧いただく喜びを感じました。
啓太という役については、言葉で説明するのは難しいのですが、雪乃や豊を頼りにずっと探しながら演じています。毎日芝居も少しずつ変わっていく中で、初日は豊役のヒロくん(尾上寛之)に引っ張ってもらった公演でした。それぞれの俳優同士が作る見えない糸がそこにあるような気がしています。
啓太が第4の海尊になり、自分の胸に琵琶があらわれその音を聞いたとき、鳥肌が立ちました。それが嬉しいことか悲しいことかはわかりませんが、救いを求める人間が救う立場に変わったことを自覚する瞬間でした。
長塚さんがおっしゃった「この国に生まれ育って、この大地に生きていく中で、眠っている本能を呼び覚ます芝居」という言葉に背中を押され、自分の中の眠っているものをどう呼び覚まそうかと考えながら演じています。

■尾上寛之
今日初めてお客さんの前で演じて、とても緊張しましたが、お客さんも緊張しているのが感じられました。これからもっとお客さんと共有して、お客さんをこの舞台に引き込めるように演じたいと思います。僕が演じる豊は、社会にもまれながらちゃんとした大人になっている。でも、それは戦災孤児という環境から、自分がしっかりしなければ、またどこかにやられてしまうと、いつも気を張って、頑張ってきた、とても責任感が強い人なのだと思います。そして、そんな生活の中で何かを失くしてしまい、少年時代を過ごした地に来て魔にとりつかれてしまう。今まで築いてきたものが一瞬で崩れる脆さはとても人間的だと思います。誰しも皆何かを抱えて生きている。それを昇華させることができたのは啓太だけかもしれません。終幕のムーブメントのシーンのように、観終わって少しだけ前を向ける、すっと背筋が伸びるような気持ちになってもらえたら嬉しいですし、少しでも観た人の救いになることができればこの舞台は成功なのではないかと思っています。

取材・文・撮影=石水典子 

『常陸坊海尊』ゲネプロより