片渕須直監督の最新作「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の公開が、今月2019年12月20日に迫っている。そんな片渕監督が今から10年前に撮った劇場用アニメが「マイマイ新子と千年の魔法」だ。

昭和30年山口県防府市に、母を失った孤独な少女・貴伊子(きいこ)が転校してくる。空想好きでフランクな性格の新子は、千年前の防府をめぐるイメージを貴伊子と共有しながら、彼女と仲よくなっていく。

この映画のユニークな点は、千年前の平安時代に防府に暮らしていた少女(諾子:なぎこ)が友だちをつくろうとするストーリーが、昭和30年のシーンと並行して描かれるところだ。

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「現代」で起きたことが「過去」に影響をおよぼす


さらに言うなら、必ずしも平安時代を「昔のシーン」、昭和30年を「現代のシーン」と扱っていないところが、ほかの映画にない面白さだ。例を2つあげよう。

昭和:新子が千年前から現代まで残っている道に「牛車が通る」と貴伊子に告げ、避けるマネをする。貴伊子も目に見えない牛車を避けて、2人は笑いながら走っていく。
平安:2人の走っていった方向を、牛車を引いている男が不思議そうに振り返る。

昭和:新子と貴伊子が、楽しそうに地面を跳ねる。
平安:乳母に連れられた諾子が、地面に伝わる振動を感じて、トントンと足踏みする。

すなわち、「現代で起きたこと」に「千年前」の人々がリアクションしているのだ。
この作品では「過去から未来へ」といった当たり前の時間の流れにとらわれることなく、昭和に暮らす新子たちと平安時代に暮らす諾子たちが、平行世界に同時に存在しているかのように描かれている。

だから、諾子の存在を知った新子と貴伊子は、「その子にも、友だちができるといいな」と、まるで知り合いかのように諾子のことを話す(しかも過去形ではなく現在進行形で)。
そして、ついに貴伊子は諾子と会う……いや、そうではなく貴伊子が諾子自身になって、諾子が友だちをつくる過程を生身で体験する。まるで、バーチャル・リアリティのように。どうすれば、そんな奇想天外なシチュエーションを視覚化できるのだろう? 実は、鏡という身近な小道具を使うことで、あっさりと当たり前のように奇跡を起こしている。
自宅のベッドで寝ていた貴伊子が目覚めると、そこは平安時代のお屋敷の中。驚いた貴伊子が鏡をのぞきこむと、鏡の中には諾子の顔が映るのだ。


映画の冒頭、「ふたりの新子」が画面に映る理由


その後、「顔は諾子だが、声は貴伊子」という段階を経て、諾子が友だちを得るまでのストーリーが当たり前のように展開する。いわば、「貴伊子がのぞきこんだ鏡の中の世界」が、勝手に動き出す。先述したように「平行世界のように」並存していた2つの世界が、鏡を介することで完全にシームレスになる。

そう考えると、この映画の冒頭が気になってくる。冒頭カットは、「鏡の中をのぞきこむ新子」なのだ。カメラは新子の頭の上あたりから、鏡をのぞく生身の新子の後ろ姿と、鏡の中の新子、2人の新子をとらえる。
その直後、新子は祖父と話すいっぽう、モノローグで去年の夏の出来事を思い出したり、彼女にしか見えない空想のキャラクター“緑のコジロー”などを目にしたりする。いわば、世界は(昭和と平安だけでなく)最初から、2つ以上が並存しているのではないだろうか? われわれの生きている世界は決して1枚の紙ぺラではなく、もともと二層、三層になっているのではないだろうか?

新子は直角に曲がった川の不思議さを祖父に教えられ、友人たちと桑畑の中に大きなダム池をつくる。それらの水面には、必ず大きな青空と白い雲が映っている。時には、池に集まった友だちの姿も映っている。新子たちの足元に、もうひとつの世界が悠々と広がっているのだ。
何重にも堆積した広大な世界の一部が、映画の全編にわたって、チラリチラリと垣間見える。川や池が鏡の役割を果たしているように思うのだが、いかがだろうか?


(文/廣田恵介)


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「マイマイ新子と千年の魔法」は、積み重なった世界を“鏡”で指し示す【懐かしアニメ回顧録第61回】