鎮まる気配を見せない香港の民主化運動が様々なところに飛び火し、アジアの政治体制を揺るがしている。

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 すぐに思いつくのは、来年1月の台湾総統選だろう。

 香港の現状を台湾に“等身大”で映し出す危機感を背景に、当初、反中体制による中国投資激減などの影響で経済が低迷し苦戦を強いられていた蔡英文氏が、このままいけば再選されることはほぼ間違いない。

 そして、思わぬところにも飛び火した。

 香港同様、旧宗主国が英国で、国民の過半数が華人系、しかもアジアの金融センターの主導権争いなど長年、何かとライバル関係にあるアジアの富の象徴、シンガポールだ。

 実は、シンガポールにとって香港の争乱は経済的にプラスに働いた。

 米国で最大の投資銀行、ゴールドマンサックスによる分析では、「香港のデモ激化で最大40億ドル(約4300億円)の資金がシンガポールに流出した」(10月公表)という。

 香港の経済的損失がシンガポールのキャピタルゲインにつながり、ライバルのシンガポール漁夫の利を得ている実態が浮き彫りになった。

 シンガポール通貨庁(中央銀行に相当)によると、現地や外国銀行の外貨建預金は、過去最高の128憶シンガポールドル(約1兆250億円、8月現在)を記録したという。

 しかし、話がここで終わればハッピーエンドだが、そうは問屋は卸さない。

 1人当たりGDP(国内総生産)で日本を超えたシンガポールの屋台骨を支えている政治体制に動揺が走っているのだ。

 建国以来54年、事実上、一党独裁体制を敷いてきたシンガポール政府は、香港の動向に危機感を募らせている。

 反政府活動や野党の締め付けを強化しているだけではなく、今秋見込まれていた総選挙も来年に延期した(2021年1月期限)。

 そもそも、シンガポールは国際的に報道・言論・表現の自由度で極めて低くランキングされているが、10月、自由度をさらに引き下げる新たな規制法を施行した。

 政府が虚偽と判断した記事や情報の削除や訂正を命じ、最大10年の禁錮刑を科すことが可能な「フェイクニュース情報操作対策法」の適用を始めたのだ。

 早速11月に、野党政治家のフェイスブックへの投稿が虚偽だとして、フェイクニュース対策法に基づく訂正命令を出した。

 10月には、人気ユーチューバーで東京や大阪にも店を構える香港の飲食店主のアレックス・ヤン氏が、シンガポール香港デモをテーマとした政治集会を無届で開催したとして、国外退去処分になっている。

 仮に、彼が届けを出していたとしても、実際には許可されず、国外処分となっていただろう。

 シンガポールでは、抗議活動に関する規制に違反すれば、最長6カ月間の禁錮刑に科される可能性もあるのだ。

 ちなみに、多くの企業が混在する金融先進国シンガポールでは、政府公認の組合が唯一スト権を保有し、いわゆる労働組合は事実上存在せず、活動していない。

 さらに、大学入学希望者は「危険思想家でない」という証明書の交付をシンガポール政府から発行してもらう必要がある。反政府や反社会的な学生運動などは存在しないのが実情だ。

 国際的に有力な大学が地元大学と共同事業を展開するなど、教育分野でも魅力があるとされるシンガポールだが、こと言論に関しては自由とはほど遠い。

 筆者の取材によると、今年9月、米エール大とシンガポール国立大学NUS)の共同設置の「エールNUSカレッジ」で、反政府活動を扱うカリュキュラムコース「シンガポールでの反対意見と抵抗」の開講の中止が決まった。

 このカリキュラムは、シンガポールの唯一与党、人民行動党(PAP)を非難する政治的作品で知られる劇作家、アルフィアン・サアット氏が担当することになっていた。

 欧米政府の後押しで香港の民主化運動の象徴でもある黄之鋒氏に関するドキュメンタリー映画なども内容に含まれていたという。

 これに対しオン・イェクン教育相は、「学問の自由が政治的な目的で乱用されるべきではない」として、政府非難のカリキュラムコース開講を中止させた決定を評価した。

 クリーンで開かれたイメージのあるシンガポールだが、報道メディアや反政府活動の自由さや民主主義の度合いにおいて、現在の香港に比べてもえげつなく劣悪な状態にあると言ってもいいだろう。

 選挙で野党候補者が当選した選挙区には、政府による“懲罰”が科され、公共投資や徴税面で冷遇されることでも知られている。

 形の上では公正な選挙で選ばれたように見えて、その実、選挙区割をはじめ選挙システムなど与党による独裁が守られる「仕かけ」が施されているのだ。

 また、政府批判勢力には、国内治安法により逮捕令状なしに逮捕が可能で、当局は無期限に拘留することも許される。

 そして、新聞、テレビなどの主要メディアは政府系持株会社の支配下にあり、独裁国家のプロパガンダを国民に刷り込むことに一役買っている。

 来年に見込まれる総選挙で政権打倒を目指す野党「ピープル・ヴォイス(人民の声)」の党首で人気ユーチューバーの弁護士、リム・ティーン氏は、「国民の知る権利を剥奪する御用メディアは深刻な問題だ」と現政権を非難する。

ビデオ参照:https://www.youtube.com/watch?v=E49rYSHGWsc&feature=youtu.behttps://youtu.be/qFbLMJZgdrohttps://youtu.be/AAXdMfeVeN8https://youtu.be/Xttz6YO5G8Q

 このようにシンガポールでは一党独裁制を崩さない仕組みがきっちり組まれているのだが、一向に収拾に向かわない香港の民主化運動に危機感を抱き、さらなる対策に打って出ようとしている。

 筆者の取材にシンガポール政府安全危機管理関係者は、「香港の民主化に感化され国内に混乱が発生した場合の『危機管理スキーム』を作成し、暴動クライシスへの対策を取りまとめた」という。

 来年見込まれる総選挙を控え、シンガポールの“香港化”を防ぐ準備を行っていることを明らかにした。

 これまでシンガポール政府は、困難に直面する香港への配慮から、民主化運動への公の言及を避けてきた。しかし、総選挙を延期決定した10月以降、シンガポールの香港化への危惧を公に露わにするようになってきた。

 リー・シェンロン首相は、10月中旬に開催された一連の会議で「(我々が注意警戒していなければ)香港で起っていることが、シンガポールでも起こり得るだろう」と初めて公式に憂慮を示した。

 そのうえで、「香港の民主化勢力は妥協を拒み、自由や民主主義を主張するが、真の狙いは香港政府打倒だ!」と声を荒げて民主化勢力を非難。

「香港とシンガポールの状況は違うが、シンガポールで社会的混乱が起きれば、シンガポールの国際的信用は破壊され、シンガポールは壊滅し『終わる』だろう」と危機意識を露わにした。

(参考:https://youtu.be/g2PTK5pVHXk

 なぜシンガポール政府が静観から一転して強い懸念を示すようになったのか――。

 一つには、あえて国民の危機感をあおり、香港のような民主化運動が起こるのを未然に防ぐ狙いがあったと言える。

 そしてもう一つの大事な点が、国民の自由を剥奪してきた政策が至る所で綻びを見せ始めているという現実だ。

 国政メディアは決して伝えないものの、経済発展を果たしたいま、自由を求めて国民の不満が高まり、じりじりマグマ化してきている実態が明らかになってきた。

 以前、「金持ちなのに 老化と貧困に悩むシンガポール」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57180)で書いたように、シンガポールは日本を上回る超少子高齢化格差社会の課題を突きつけられている。

 一方で、ホームレスの増加、若者や高齢者の貧困や自殺、インドや中国からの移民急増による国民の雇用不安や失業、CPFという年金を核にした社会保障制度の不備が社会不安をあおっている。

 11月、そんなシンガポールで興味深い全国調査の結果が公表された。「シンガポール初の全国規模のホームレス調査」(シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院)だ。

 人口約570万人のうちホームレスの数が約1000人だったことが明らかになった。

 シンガポールにもホームレスがいるのは国民も知ってはいたが、その数がここまで多いとは誰も思わなかったのだろう。衝撃的なニュースとして伝わった。

https://www.channelnewsasia.com/news/singapore/1000-homeless-people-singapore-study-12076076

https://www.nst.com.my/world/world/2019/11/537501/super-wealthy-singapore-over-1000-homeless-people-sleep-streets

 ホームレスの大多数が、路上生活を余儀なくされているという。内訳は、全体の80%が男性で、6年以上ホームレス状態の人が約30%、1年から5年の人が半数にも及んだ。

 彼らの多くが、人口の約20%にも達している貧困層で、守衛や清掃員、宅配サービスのGrabなどの低賃金の仕事で生計を立てている。

 さらに特筆すべきは日本との比較。

 日本の首都・東京では、人口約1350万人でホームレスは毎年減少傾向で、1126人(今年1月現在)ほど。

 これに対し、人口約570万人と東京の半分にも満たないシンガポールホームレス数が東京並みで、かつ増え続けているのだ。

 1人当たりGDPでは日本を超えたが、国民が幸せに暮らせているかというと、そうでもない。

 シンガポールの一党独裁の歪は、政治的統制、様々な規制、能力至上主義社会を反映し、米調査会社ギャラップの日常生活の「幸福度」調査では、シンガポール148カ国中、最下位だったこともある。

 経済発展がある程度進むと、人々の欲求は人間らしさに向かうのだろう。長年、シンガポールを取材してきて痛感する点である。

 シンガポール建国の父、リー・クアンユー元首相の長男、シェンロン氏は現首相、次男のリー・シェンヤン氏はかつてはシンガポール最大の通信企業シングテルの最高経営責任者、さらには大手銀行のDBS銀行やシンガポール航空を傘下に収めるテマセク・ホールディングス最高経営責任者は、現首相シェンロン氏の妻、ホー・チン氏だ。

 シンガポールは一党独裁でありながら経済成長を果たした背景から、「明るい北朝鮮」とも呼ばれる。リー・ファミリーが政治権力だけでなく、富も独占的に保有してきたからだ。

 香港の民主化運動は、シンガポールのこうした政治体制をも揺るがしかねないパワーを秘めている。

 政府が必死に飛び火を食い止めようとするのも分かる。しかし、国民の間にマグマのようにたまった不満を強硬な政策で抑え続けることは難しくなりつつある。

 2015年3月に建国の父、リー・クアンユー氏が亡くなった時、旧知の間柄だった台湾の李登輝元総統はこう言い放った。

「我々、台湾は自由と民主主義を優先させたが、シンガポールは経済発展を優先させた」

 この時すでに李登輝氏はシンガポールの現在の悩みを予知していたのかもしれない。

 そして、それは改革開放以来、鄧小平国家主席(当時)の理想理念のもと、シンガポールを“先生”に選んだ中国の行く末でもある。

 香港の民主化運動が本格的にシンガポールに飛び火するかどうかは、中国の一党独裁を永続させることができるのかという問いでもある。

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