「信玄VS謙信」前の川中島

 戦国時代の信濃国(長野県)では、諏訪郡の上原城主諏訪頼重、筑摩郡・安曇郡の林城主小笠原長時、更級・埴科郡の葛尾城主村上義清といった国人領主が割拠しているにすぎなかった。

JBpressですべての写真や図表を見る

 強大な戦国大名権力が生まれなかったこの信濃を虎視眈々と狙っていたのが、隣国甲斐国(山梨県)の武田信玄である。

 信玄は謀略を用いて諏訪頼重を滅ぼすと、小笠原長時や村上義清を徐々に圧迫していった。天文19年(1550)、本拠である林城を攻略された小笠原長時は、村上義清を頼って落ちのびたが、この村上義清も葛尾城を奪われてしまう。越後国(新潟県)に逃れた村上義清は、上杉謙信を頼ることで所領を回復しようとした。

 天文22年(1553)、上杉謙信の支援を得て信濃への侵入を図った村上義清は、川中島で武田勢に阻まれ、領土を回復することはできなかった。

 天文24年(1555)、謙信はついに自ら川中島に兵を進め、出陣してきた武田軍と衝突するが、戦いらしい戦いはなかったという。

 弘治3年(1557)には、信玄が先に兵をおこし、川中島周辺にある上杉方の城を攻略し始めたが、小競り合いはあっても決戦には至らなかったとされる。

 ちなみに、川中島という地名は、厳密にいえば千曲川と犀川に挟まれた比較的狭い地域を指すが、戦いのあった地域としては、川中島を含む善光寺平の一帯に広がっていた。高井・水内・更級・埴科の四郡は俗に「川中島四郡」ともよばれており、この「川中島四郡」の帰属をめぐる争いが、川中島合戦であったといえる。

謙信にとって「川中島」が大事だった理由

 謙信は、村上義清だけでなく、鴨ヶ嶽城主の高梨政頼、井上城主の井上清政、須田城主の須田満親、長沼城主の島津規久といった「川中島四郡」の国衆らを広く支援していた。

 その理由は、「義」を重んじたためともいわれるが、しかし、謙信の戦略であったことも確かである。

 川中島から謙信が居城とする春日山城までは直線距離でわずか50キロほどしかない。ただ、越後国と信濃国の境に位置する川中島は、謙信にとっても押さえておきたい場所であった。

 謙信が重臣に宛てた書状には、「信州の味方中滅亡の上は、当国の備え安からず候」とある。

「信州の味方」というのは、村上義清ら「川中島四郡」の国衆である。川中島が武田方に押さえられてしまえば、謙信の居城である春日山城すらも危うくなってしまう。

 永禄4年(1561)閏3月、謙信が上杉憲政から関東管領の職を譲られてからは特に、関東出兵の背後を固めるためにも、武田氏の勢力を川中島から排除し、信玄による越後侵入を防ぐ必要があったのである。

 そうして永禄4年の8月、謙信は1万8000余の大軍を率いて春日山城を出陣し、川中島に向かった。これに対し、信玄も2万余の軍勢を率いて川中島に出兵し、武田方の拠点となっていた海津城(松代城)に入ったことから、川中島の戦いがおこることになったのである。

 厳密にいえば、川中島ではすでに3度の戦いが行われていたため、この戦いを第四次川中島の戦いと呼ぶこともある。

 このときの戦いでは、9月9日の夜、信玄が別働隊に妻女山の謙信の本陣を急襲させ、驚いて山を下りた上杉勢を待ち伏せして挟み打ちをしようとしたところ、この作戦を見抜いた謙信によって、武田の本隊が不意に襲われたという。

 ただし、戦いの経過については同時代の史料がほとんど残されていないため、詳しいことはわかっていない。

 武田方の史料である『甲陽軍鑑』には、信玄が一騎打ちしたことが記されている。すなわち、「萌黄緞子の胴肩衣きたる武者、白手拭にてつふりをつゝみ、月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜持て、信玄公床几の上に御座候所へ一文字に乗よせ、きつさきをはづしに三刀伐奉る」とある。

 頭を白い手拭で包み、萌黄色の胴肩衣を着た武者が信玄に太刀で3度斬りつけ、信玄は軍配で受け止めたというわけである。そして、「後聞けば、其の武者、輝虎也と申候」と書かれている。

「輝虎」というのは、謙信のことを指す。このときは、まだ謙信と号しておらず、将軍足利義輝の「輝」の字を拝領して輝虎と名乗っていた。つまり、後になって、信玄に斬りつけた武者が謙信であったらしいことが判明したというわけである。

両者が記した「自軍の勝利」

 この戦い後、近衛前久から謙信に宛てられた書状には「自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」とあり、謙信が近衛前久に対し、太刀打ちに及んだことを伝えていたのは確かである。

 しかし、だからといって、信玄と一騎打ちをしたと述べているわけではない。江戸時代に上杉家が編纂した『上杉家御年譜』では、信玄に斬りつけたのは、荒川伊豆守という謙信の家臣であったとしている。

甲陽軍鑑』は、史料的価値が低いといわれることもあるが、年次の齟齬はあっても、内容の誤りが多いわけではない。それに、「輝虎也と申候」とあるように、謙信だと断言しているわけではなく、そのように伝わっているという書き方をしている。

 武田方では、実際に信玄に斬りつけた武者を謙信だと断定したわけではないのである。

 もし、実際に謙信が信玄に斬りつけていたら、謙信もそのように吹聴したのではなかろうか。謙信が、信玄と一騎打ちしたことは何も語っていないことからすると、信玄に斬りつけたのは、やはり、謙信の家臣であったとみたほうがよさそうである。

 この川中島の戦いの結果は、引き分けとされることが多い。信玄が京都の清水寺成就院に宛てた書状には、「今度、越後衆、信州に至って出張候のところ、乗り向かひ一戦を遂げ勝利を得、敵三千余人討ち捕り候」とあり、上杉方3000余人を討ち取って勝利したとする。

 これに対し、下総国古河に滞在していた関白近衛前久から謙信に宛てられた書状に「今度、信州表において、晴信(信玄)に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余人討ち取られ候こと、珍重の大慶に候」とあるように、謙信も勝利したと喧伝していたことは疑いない。

 ただ、感状の有無からすると、戦いそのものは謙信が勝ったとみるべきなのだろう。感状とは、主君が家臣の軍功を認めるために与えた書状である。上杉方の感状では、色部勝長・安田長秀・中条藤資らに宛てたものが残る一方、武田方の感状は、本物とみられるものは現存していない。

 戦闘では上杉方が勝ったとしても、その後、川中島を占拠し続けたのは信玄のほうである。

 結局、謙信を頼った村上義清をはじめとする国衆は旧領を回復できなかった。その後、永禄7年(1564)におきた第五次川中島の戦いでは決戦に至らず、以後、川中島での対戦は行われていない。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  本能寺の変、死を覚悟した信長がとった最期の行動

[関連記事]

武田信玄はなぜ息子を「殺した」のか?

本能寺の変後、「清須会議」は本当にあった?

長野県に建てられた一騎討ちの銅像。著者撮影。