韓国の12月は寒い。体調を崩す時期で、韓国の経済記者に会うと「あの人が危ない」という話が出る時期になった。

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 そんな中で2019年12月9日、かつて韓国を代表す財閥だった大宇(デウ)の創業者である金宇中(キム・ウジュン=1936年12月17日生まれ)氏が死去した。波乱万丈の人生だった。

 韓国企業の成功のキーワードは「スピード」だ。

 サムスンもLGも、現代も日本企業をはるかに上回るスピードで成長をした。しかし、大宇ほど猛スピードで成功と転落を駆け抜けた例もないかもしれない。

猛スピードで成功と破綻を駆け抜ける

 金宇中氏が、韓国随一の名門高校だった京幾(キョンギ)高校から延世大学経済学科に進み会社員生活を経て「起業」したのは満30歳だった1967年。社名は、大宇実業だった。

 資本金500ウォン(現在のレートは1円=11ウォン)、従業員5人で事務所は10坪(約33.33平方メートル)だった。

 衣料品を東南アジアに輸出して成功し、設立5年目には韓国を代表する輸出商社になっていた。

 貿易で稼いだ資金で1970年代に事業多角化に乗り出す。韓国の財閥の典型的な拡大パターンだが、現代やサムスンに比べて「後発」だった大宇は活発なM&Aで一気に事業を拡大させた。

 1973年に建設会社を買収して大宇建設としたほか、家電、造船、機械関連企業を次々と買収または設立した。1978年にはセハン自動車を買収して自動車事業にも進出した。

 1970年代にこうした多角化で大宇は韓国の5大財閥の仲間入りをした。

「後発」財閥、M&Aで拡大

 こうした快進撃は、金宇中氏の先見性と行動力を示したと言えるが、それだけではなかったとの見方もある。

 1970年代の韓国で事業を成功させるためには、政権と良い関係を築くことも重要だった。

 事業支援、特に資金面で銀行の協力を得るためには、政権の何らかの「支援」が不可欠だった。

 金宇中氏の父親は、済州知事を務めた人物だったが、その前に大邱(テグ)師範学校の教師だった。

 この時の教え子が朴正熙パク・チョンヒ)元大統領だった。こうした縁で、金宇中氏は、社会人になる前から朴正熙氏のことを知っていた。

 金宇中氏の弔問に訪れた朴正熙氏の長男は、韓国記者に対して「父(朴正熙氏)は金宇中氏と実の息子のように親しく接していた」と振り返っている。

 事業地盤を固めた金宇中氏は、1980年代に入ると「世界経営」を掲げる。

 ここでも、日本企業に比べて「後発」だった点を逆手に取って、新市場の開拓に全力投球した。

 まず力を入れたのは、東欧、中央アジア、さらにベトナムだった。

 チェコルーマニアにいち早く進出して自動車工場を設立したほか、1995年ポーランドの国営自動車会社、FSOを買収して世界の自動車業界を驚かせた。

 さらに、ウズベキスタンカザフスタンなど「未知の市場」に積極的に打って出た。ベトナムでは、ハノイに巨大な「大宇ホテル」を建設した。

カダフィ大佐に接近

 勢いに乗って打って出たのがアフリカだった。

 金宇中氏は、日米企業などが積極的な進出をためらっていたリビアに目を付けた。当時の最高権力者だったカダフィ大佐に接近して建設工事などを数々受注した。

「世界は広くやるべきことは多い」

 金宇中氏は韓国でこんなタイトルの本を出版してベストセラーになった。

 1988年ソウル五輪開催を機に韓国人の目は海外に向いた。そんな時に、「世界経営」を掲げて、徒手空拳で挑戦する姿が多くの国民の共感を得た。

 金宇中氏は、酒を飲まずゴルフもしない経営者として知られた。趣味は仕事。1年に280日間、海外出張した。

 韓国から、中国、中央アジア、東欧へと事業を拡げ、「ジンギスカン経営」とも呼ばれた。

 自らをジンギスカンに重ね合わせ、ユーラシア大陸を縦横無尽に駆け回った。

 金宇中経営は、グローバル化とM&Aが核心だった。M&Aについては、経営が悪化した企業を買収する例が多かったが、その後、多くの企業が再生し成長した。

 造船事業も典型例だ。一時は経営悪化と労使紛争で倒産危機に陥ったが、陣頭指揮でこれを立て直した。造船は大宇の重要な戦略事業に育った。

 成長の源泉は人材だった。自由な社風で知られ、また金宇中氏の個人的な魅力もあって、多くの優秀な人材が集まった。

 大宇グループが解体された後も、こうした人材が韓国の産業界のあちこちで活躍した。

 金宇中氏は、1970年代80年代まで韓国で吹き荒れた民主化運動の「闘士」たちも積極的にスカウトした。

 熱い心を持って行動した「運動家」を「経験がなくて視野が狭いだけだ。経験を積ませれば戦力になる」とみて起用した。

商人精神でサムスン抜き去る

 だから、今の政権与党の有力者の中にも大宇出身者がいる。

 韓国を代表する財閥である現代やサムスンは、創業者が「独自技術」にこだわった。

 現代は、独自開発のエンジンを売り物にして自動車事業を拡大させた。サムスンは、半導体で世界を制した。

 これに対して金宇中氏は、あくまでも「ビジネスマン」だった。大宇グループでの勤務経験がある大企業幹部は「金宇中氏は、商人だった」と評している。

 大宇グループ1990年代になっても成長が止まらなかった。

 1999年に韓国公正取引委員会が発表した大企業グループ資産ランキングでは、大宇グループは現代グループに次ぐ2位だった。サムスングループ(3位)さえ追い抜いてしまったのだ。

 従業員数は国内10万人、海外25万人。フォーチュン誌の売上高ランキング18位。金宇中氏は全国経済人連合会(全経連)会長に就任するなど絶頂期を迎えていた。

 だが、その転落もあまりに速かった。

 1997年に韓国を襲った未曽有の通貨経済危機「IMF危機」。金利が急騰し、ウォンは暴落した。事業拡張を続けて借入金が膨らんでいた大宇グループも資金繰りが急速に悪化した。

 1998年2月に発足した金大中(キム・デジュン)政権は、IMF(国際通貨基金)との約束に基づいて緊縮型の構造改革を進めていた。不良債権を抱えていた銀行の整理も進み、大宇グループも危機に陥った。

実刑判決、追徴金17兆ウォン

 1999年夏、大宇グループは結局破綻してしまう。

 金宇中氏は、「政権によってつぶされた」と死の直前まで「もう少し時間があれば必ず立ち直った」と繰り返し主張していた。

 だが、破綻後に金宇中氏の評価は一変してしまう。

 グループは破綻によって、多くの従業員が職を失った。連鎖倒産も避けられなかった。

 それどころか、のちに粉飾会計が明らかになり、金宇中氏は、2006年に懲役8年6月の実刑判決を受ける。

 追徴金は17兆9253億ウォンも課せられることになった。

 2008年に特赦を受けたが、追徴金はそのまま残り、ついにそのほとんどを支払うことができなかった。

 造船事業の大宇造船海洋はリーマンショック以後の造船不況の直撃を受け、巨額の公的資金が投入された。米GM(ゼネラルモータース)に売却された大宇自動車は、20年にわたって苦しい経営が続いている。

 金宇中氏が育成したグループ企業のうち、グループ解体となった後も、あちこちに「大宇」の名前で残っている企業は多い。

「未来アセット大宇証券」のように、売却後、再び成長軌道に乗った企業もあるが、いまだ後遺症が残る企業も少なくない。

「大宇」は、成功と挫折の両方のシンボルだ。

 金宇中氏は大宇設立以来、前だけを見ながら全力でアクセルを踏み続けた。

 大宇はだから、韓国の成長を示す「圧縮成長」と「漢江(ハンガン)の奇跡」の代表銘柄だった。

 一方で、拡大ばかりに集中して、透明性やリスク管理面では致命的な欠陥を抱えていたことも否定できない。

 金宇中氏の死去に際しても、多くのメディアが、賞賛と批判の両面を合わせて報じた。

 産業界や政界など幅広い分野では、いまでも大宇出身者が活躍中だ。

 金宇中氏は、ここ数年はベトナムに滞在することを多く、大宇出身者がベトナムに設立した若者を対象にした「起業学校」で時に直接教えることもあった。

 グロ-バルヤングビジネスマネージャー(GYBM)と名付けられたコースは「金宇中哲学」の継承の場でもあった。ここで「世界経営」を学んだ若者は、すでに600人近くに達するという。

「大宇」は様々な記憶を残しながら、いまなお、生き続けている。

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亡くなった大宇グループの創業者・金宇中氏(2005年撮影、写真:AP/アフロ)