少し前、何気なく朝のニュース番組を見ていたときのこと。その日の特集は「ゴミ屋敷問題」で、地域に迷惑をかけているゴミ屋敷の住人を直撃インタビューするという内容のものでした。

 ワイドショーゴミ屋敷を取り上げるのはめずらしいことではありません。少なくとも、この日の放送を見て私は「またか」と辟易しましたし、みなさんも一度は目にしたことがあるのではないかと思います。

◆「近所迷惑」だと、正義ヅラするリポーター

 結論から書くと、この「ゴミ屋敷問題」の特集には大きな違和感を感じざるを得ませんでした。ゴミ屋敷インターホンを何度も鳴らし、住人の男性が取材を拒否しているにもかかわらず、リポーターがしつこく追いかけ、わざと怒らせる。耐えかねた住人がリポーターに怒鳴り、バケツに入った水を浴びせ、その様子を番組中に何度も流しては、コメンテーターたちの嫌悪感溢れる表情が映し出される。

 これが、公共の電波を用いた「嫌がらせ」や「吊るし上げ」でなければ何だと言うのでしょう。どんな人権意識を持っていたらそんなことができるのか、「ご自身の行動が近隣の方の迷惑になっているって分かってるんですか」なんてどういう立場から言っているのか、とても理解ができません。

 確かに、ゴミを放置していることで悪臭が発生するなど、近隣住民の方に直接的な被害が出ているのは明白ではあります。彼らがゴミ屋敷の主に対して、何度となく対話を試みたであろうことも分かりますし、相当な不満が溜まっているのも想像にかたくありません。

 この場合、通常は行政があいだに入って、強制執行や強制撤去などの「行政代執行」の対処を取るなど、自治体からの解決策が用意されています。

ゴミ屋敷の裏に、精神的な病や孤立の可能性が

 ゴミ屋敷の住人は社会から孤立していることが多く、重大な問題を抱えていて、精神的な治療や支援が必要な状態であることも考えられます。本人が症状に自覚的でない場合、周囲の人が異変に気づくことで早期治療につながりますが、一人暮らしで地域との交流もなければ、重症化するリスクは高いでしょう。人と関わることを極度に恐れていたり、物を捨てることに強い不安を感じていれば、ゴミが溜まり、近隣住民との関係が悪化し、ますます誰にも頼れなくなる悪循環を形成するかもしれません。

 そんな中で、突然テレビカメラを抱えたスタッフたちから大勢で追いかけ回され、悪者だと責められ、好奇の目にさらされてしまうことは、一体ゴミ屋敷の住人にとってどれほどの仕打ちとなるでしょう。ともすれば、一生立ち直ることができないほどの深い傷を与え、今以上に人間不信に陥らせてしまうことも十分に考えられます。

 行政の介入による問題解決が可能であるにもかかわらず、はたして、テレビ局側が、取材を拒否している住人にしつこく詰め寄り、「ニュース番組」内でその映像を流してコメンテーターたちに批判をさせることに、一体何の意味があるのでしょうか。「報道の自由」の名の下では、いち個人の人権は軽んじても問題がないのでしょうか。

◆「怒り」を煽れば視聴率やシェア数につながる

 業界の知人に聞くところによれば、ゴミ屋敷問題の特集は視聴率が良いため、番組側が依存しがちな側面もあるようです。そうなれば、テレビ制作会社だけではなく、情報の受け取り手である私たち大衆を含めた社会全体のリテラシーや、人権意識の底上げが必要になってくるように思います。

 テレビ番組がゴミ屋敷の住人を「悪者」だと扱い、過激なシーンをくり返し放送すれば、視聴者の「怒り」の感情を簡単に扇動することが可能です。「怒り」は原始的な感情であり、激しい力やストレスを生み出す性質があるため、怒りを感じると自然に「この怒りをどこかにぶつけたい」という欲求が生まれます。視聴者は、ゴミ屋敷の住人が怒鳴ったり、リポーターに水を浴びせる姿を見て感じた怒りや、ストレス発散の場所を無意識に探す、というわけです。

 この欲求が極限まで上がりきったところで、今度は番組のコメンテーターたちが自分の怒りを代弁し、言語化してくれる。すなわち、一瞬にして作られた怒りの感情を発散させることで、視聴者スッキリした気持ちになり、手軽に「快楽」を味わうことができるのです。

 同じ仕組みですが、ネットの記事などにおいても、わざと怒りを誘うようなタイトルを付けて閲覧数やシェア数を稼ごうとする媒体は、少なからず存在しています。大衆の怒りを刺激することは簡単で、かつ効果が高いことをメディア側が知っているからです。私たちが日々、膨大な情報が目に飛び込んでくる社会に生きるうえで、「怒り」の感情に流されやすいことを知っておくのは、非常に重要なことではないでしょうか。

ニュース番組は芸能人や政治家不祥事ばかりに

 では、このようなメディアとどのように付き合っていけばいいのでしょう。私たちは知らないうちに、メディアが作り出す「快楽」に依存してしまいがちです。この状況が続くと、私たちの生活に直接関わるような重要なニュースであっても、メディア側によって「人々の興味を引かないだろう」と判断された情報は、どんどん私たちに届きにくくなっていきます。

 不名誉なことに私たちは、メディアから環境問題についてのニュースよりも、医療研究費の国からの支援打ち切りよりも、ゴミ屋敷問題や政治家の不倫、芸能人の不祥事に関心がある、と思われているのです。

 さらに、情報番組がトランスジェンダーの女性を「珍・女性のような男性」と無断で性別を晒したことなどからも分かるように、「国民の人権意識はいわゆる先進国の水準に達しておらず、数十年前のままだ」と甘く見られている部分もあるでしょう。

 発信者側の意識が低いのはもちろんですが、誰かの容姿をバカにした笑いや差別的なニュアンス、個人のプライバシーが侵害される内容を含んだコンテンツが「世間でウケる」という風潮は、前時代に作られてしまった負の遺産です。

◆与えられた情報を、まずは疑うこと

 しかしながら、私たち受け取り手が「与えられた情報の意図」を読み解く力を養い、人道に反する姿勢や偏向的な報道に対して地道に「NO」を突きつけることで、個人の人権を侵害するようなメディアのあり方を変える余地はあります。

 マスメディアが大衆に与える影響は、良くも悪くも絶大なものです。知らず知らずのうち、自分の中の思想や信条が発信者の意図する方向へ曲げられてしまうことも、差別的感情を煽られることもあります。私たちが知らないうちに誰かを傷つけたり、あるいは傷つけられたりしない社会を作るためには、情報を100%鵜呑みにするのではなく、まずは「疑うこと」が不可欠なのではないでしょうか。

<文/吉川ばんび>

【吉川ばんび】
1991年生まれ。フリーライターコラムニスト。貧困や機能不全家族、ブラック企業社会問題などについて、自らの体験をもとに取材・執筆。文春オンライン、東洋経済オンラインなどで連載中 twitter:@bambi_yoshikawa

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