危険なシケインにも唯一立ち入れた
モナコを中心にF1グランプリを40年以上撮影してきた、英国人カメラマンのミハエル・ヒューイット。「モナコは、景色だけでも素晴らしい。何日も掛けて裏通りを歩き回って、撮影ポイントを探しました。歩かなかった場所がないほど。写真を取るというより、シーンを探していた感じです」
1週間半ほど歩き回って撮影した写真は、他のカメラマンでは決して収めることができないアングル。背景の隅々まで注意が行き届いていることがわかる。信じられないほどに、特定のクルマがベストポジションに収まっている。
警備員が目をそらした瞬間に、ガードレールにつま先を引っ掛けてバランスを取り身を乗り出した。リフトゲートをよじ登り、屋根の高さにまで上がった。肘の皮膚が窓枠で削られたこともあった。しかしすべては写真の素晴らしさに表れている。
ヒューイットのモナコでの交友関係のおかげで、他のカメラマンでは立ち入りが難しいところへも入れたが、命が危険にさらされる場所でもあった。1967年、レーサーのロレンツォ・バンディーニはシケインでの大クラッシュで命を落としている。
「モナコのシケインの、港側への立ち入りは誰も許されていませんでした。190km/h以上で突っ込んでくる、恐ろしく危険な場所です。しかし報道部のチーフは友人でした。わたし以外、彼に写真を送ったことのある人はいないでしょうし、口うるさい彼にお礼をいった人もいないと思います」
ロレンツォ・バンディーニのクラッシュ
「シケインに入るために、どこへでも侵入が許される許可書をもらいました。彼はかなり危険だと話していましたが、(シケインの内側に)10人もカメラマンがいればね、と答えました。1人だけ、シケインにある街路灯の後ろ側に立っていれば安全だと思ったんです」
「警察官も来て、シケインの内側にいるのは5周だけと決めたのですが、結局何年もそこに立ちました。1966年の映画、グランプリでは実際の映像も用いられています。わたしがそこに立っていたんですよ」
「1周目でブラバムがオイルでスリップし、セメントの粉がコースに落ちました。最初にそこを通るマシンがセメントの粉を巻き上げて、雲を作ると予測したんです。デニス・ハルム、ロレンツォ・バンディーニ、ジャッキー・スチュワートが競い合い、スチュワートとバンディーニとの争いを見守りました」
「撮影してからシケインを出てトンネルへ入ると、大きな衝撃音を聞いたのです。彼は内側の壁に接触し、麦わらのバリアを押し倒しながら、シケインに立つ、例の1本の街路灯にクラッシュしたのです。クルマは燃え上がり、バンディーニは3日後に亡くなりました」
ジャッキー・スチュワートが、レースでの安全性を求める活動を始める以前のことだった。ヒューイットの会話からは、「彼は死んだ」 「彼は殺された」 という発言が何度も出てくる。カメラマンも常に危険と隣り合わせだったが、コーナーのエイペックスは相当危なかった。
グラハム・ヒルとの交流
「ブランズ・ハッチ・サーキットの第1コーナーは死ぬほど危険でしたね。ジム・クラークはそのコーナーにいるわたしをみて、何歳か聞いてきたんです。自分は照れながら19歳だと答えると、そこにいたら20歳の誕生日は祝えないぞ、と忠告してくれましたよ」
ヒューイットはグラハム・ヒルとも親交があり、ヒルお気に入りの写真も撮影している。トンネルの出口側から、街路灯が弧を描くようにカーブしているシーンなど。これはジョン・サーティースの好きなアングルでもある。強い雨の中、旅行カバンを持って1人ピットレーンを歩くヒルも良い写真だ。
「ピットレーンの写真を撮影したあと、脇に隠れて彼と話をしました。自身の本にその写真を使いたかったらしいのです。発売日の前日に自宅にも本が届いたのですが、表紙の内側には彼のメモが残されていました」
「ミハエルへ、グラハムより。ミハエル・ヒューイットではなく、グラハム・ヒルでもありません。友人以外でこうは書きませんよね?素晴らしい人で、これまで何度も助けてもらいました」 1963年、BRM P57をドライブしたグラハム・ヒルは、モナコ・グランプリで初優勝を果たす。その後モナコでは5回も表彰台のトップに立っている。
ヒューイット自身は、ニュージーランドへ住む母へ写真を送りたいという、ブルース・マクラーレンに協力していたという。
魂を込めて撮影してきた
「彼のお嬢さんと、数年前にグッドウッドで会いました。ブルースがなくなった時、彼女は3歳で、わたしが送った写真にとても感謝していました。すべてを保管してくれていたんです」
「彼女はわたしと会えたことを喜んでくれて、オリジナルのマクラーレンのバッジを1ついただきました。お金では買えない代物です」
「ブルースは一度、モナコ・グランプリで、自分のシネ・カメラ(動画フィルムカメラ)でレースシーンを撮影して欲しいと話してきたこともありました。わたしは忙しくて、仲間にカメラの使用方法を教えて欲しいと伝えたのでした」
「自分はとても幸運でした。写真のためなら何でもしてきました。でも、英国では誰もわたしのことは知らないでしょう。モナコでは何年も掛けて、名前を知ってもらえるようになりました。モナコの人と交流を持つのが好きだったんです」
ある年、ヒューイットはブランズ・ハッチで撮影許可証を発行できなかった時があったらしい。そこでプレスセンターの外にいた、BBCでコメンテーターも務めるジャーナリスト、バリー・ギルを訪ねた。
「彼はプレスセンターの担当者へ手紙を書いてくれました。ミハエル・ヒューイットへパスを渡してください。彼はサーキットでなくてはならない写真家です。と封筒の後ろに書いてくれたんです」
「写真には魂を込めてきましたからね。1枚1枚に良い魂を込めてきたんです」
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