年明けより放送されてきたNHKの大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」がいよいよきょう、最終回を迎える。先週12月8日に放送された第46話では、ついにオリンピックイヤーの1964年に入り、開幕ぎりぎりまで人々が準備に追われる様子が描かれた。さすがに終盤とあって、クライマックスに次ぐクライマックスと言っても過言ではない。長くなるが、あらましを追ってみたい。

原爆投下の日に生まれた青年が聖火最終走者の候補に
田畑政治(阿部サダヲ)が大会組織委員会の事務総長を解任されたのにともない、記録映画を手がける予定だった黒澤明(増子直純)も監督を辞退していた。それに代わって、1964年1月、市川崑が起用される。市川を演じるのは、脚本家・演出家の三谷幸喜。三谷の大河ドラマ出演は「功名が辻」(2006年)の足利義昭役以来だが、さすが市川ファンを公言するだけに(市川の最後の監督作品「犬神家の一族」にも出演している)、くわえタバコで小首をかしげてポーズをとり、すっかり名監督になりきっていた。名前のテロップも、「犬神家の一族」などでおなじみ(のちにアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」でもオマージュされた)の極太明朝体を直角に配置する凝りよう。

4月10日には、聖火ランナーの写真を使ったオリンピックポスター第4号が完成する。田畑が事務総長をやめて1年半が経っていた。一時は大会関係者が夜な夜な集まり「裏組織委員会」の様相を呈した田畑宅だが、さすがに開催が近づき、みんな多忙をきわめているせいか、ぱったり客足は途絶えていた。そこへ久々に渉外部長の岩田幸彰(松坂桃李)と選手強化本部長の大島鎌吉(平原テツ)が訪ねてくる。聖火リレーの最終走者候補を、1945年8月6日、原爆投下当日に広島で生まれた早大生・坂井義則(井之脇海)に決めたと報告に来たのだ。岩田は「できすぎでしょうか」と言うが、田畑は諸手をあげて賛成する。

このあと二人を家に上げて組織委員会内での話を聞けば、聖火の国内リレーのスタート地点となる沖縄では、まだアメリカから国旗掲揚の許可が下りていないという。当時まだアメリカの施政権下にあった沖縄では、日の丸の旗を掲げるのは祝日のみと制限されていた。岩田たちは日本政府にアメリカと交渉するよう働きかけていると言うのだが……。

後日、田畑が久々に日紡貝塚の女子バレーボールチームの練習をのぞきに行くと、主将の河西昌枝(安藤サクラ)がいない。監督の大松博文(徳井義実)に訊けば、父親が危篤となり山梨の実家に帰ったという。だが、そこへ帰郷したはずの河西が現れ、練習に加わる。大松は彼女に「お父さんのそばにおれ!」などと怒りながら何度もボールを投げつけるのだが、河西は黙々と打ち返す。「オリンピックのせいや! オリンピックのせいや!」。大松は、選手たちに引退を思いとどまらせ、東京オリンピックに出場するよう仕向けた田畑に聞かせるかのごとく叫んだ。しかし当の河西は「やめたくなったら、オリンピックの前日にやめます!」と、あくまで自分で選んだ道だと反論する。これに応じてほかの選手たちも「私もやめたくなったらやめます!」と口々に言うのだった。このあと、河西の父親はこの4日後に亡くなったとの語り(森山未來)が入る。

五りんが失踪した理由とは?
2年前、高座に復帰した古今亭志ん生ビートたけし)は、すっかり回復して寄席に出演していた。噺のマクラで志ん生が、東京オリンピックの女子体操で金メダルを獲ることになる選手の名である「チャスラフスカ!」と連呼していたのは、もちろんビートたけしの持ちネタ「コマネチ!」のセルフパロディである。もっとも、同じ体操選手でもコマネチ1964年当時まだ3歳、彼女がオリンピック史上初めて10点満点を獲得して世界を驚かせるまでには12年後のモントリオールオリンピックまで待たねばならない。宮藤官九郎の「週刊文春」の連載コラム(2019年12月19日号掲載)によれば、この場面の収録時、たけしは「その12年後にはコマネチ! という選手が現れまして」とアドリブをかましてエキストラの観客を沸かせたとか。

志ん生の復活にあたり、弟子の五りん(神木隆之介)は師匠と自分による二人会を提案しておきながら、開催当日に失踪していた。志ん生の長女・美津子(小泉今日子)はようやく彼をつかまえて、どうして逃げたのか問いただす。五りんいわく、恩返しのつもりで二人会を提案したものの、いざ会が近づくと、師匠がもししくじれば自分の責任になるのではないかと不安になり、さらに本人もうまくいかなければ引退すると口にしたので怖くなった。そこで若い頃の師匠だったらどうするか考えた結果、羽織を質に入れて、逃げてしまったという。その後、歌手の三波春夫の弟子となり、紅白に出場していたのを美津子が発見したわけだが、それも結局しくじってしまったらしい。

美津子があきれながら、これからどうするのかと訊けば、五りんは「マラソンかな」と、亡き祖母や父の果たせなかったオリンピックの夢を踏まえ「バトンを渡された以上、走らなきゃ。俺、韋駄天になります」と答える。あくまで前向きなのがよくも悪くも彼らしいというべきか。しかしトイレからガールフレンドの知恵(川栄李奈)が大きなお腹を抱えて出てきたのを見て、美津子は驚く。「走るのも結構だけどさ、その前に言うことあるよね」。予定日は10月10日オリンピックの開会式当日だという。なお、知恵を演じる川栄李奈は、現実でも11月に出産を報告したばかりだが、収録時期を考えると、あのお腹はつくりものではない本物だったのではないか。出演者にとかく色々あった「いだてん」だが、こういうめでたい現実とのシンクロもあったのが救いである。

その後、総勢10万人におよぶ聖火リレーの走者を集めるべく、組織委員会は全国の教育委員会やスポーツ団体など広く呼びかけ、なぜか落語協会にも打診がある。このとき、志ん生がふいに五りんの名をあげ、次男の古今亭志ん朝森山未來)も「俺もあいつが適任だと思うよ」と同意する。行方をくらましながら、志ん生ばかりか、ほとんどつきあいのないはずの兄弟子(志ん朝)までが気にしていたあたり、五りんの愛されキャラぶりがうかがえる。

田畑、組織委員会に乗り込む!
聖火リレーはスタート直前になっても、最終ランナーは決定にいたらず、沖縄の国旗掲揚問題も解決していなかった。最終ランナーに原爆投下の日に生まれた青年を起用することには、組織委員会側が、アメリカの心証を悪くすると政府が横槍を入れてくるのではないかとの懸念から、決定を躊躇していた。組織委員会が政府の顔色をうかがい、政府はアメリカの顔色をうかがうという忖度の二重構造だ。沖縄についてもまた、政府がアメリカへの忖度から交渉を避けた。岩田たちからそう報告を受けて、田畑はいても立ってもいられず、キュウリをほおばると(河童のまーちゃん!)、事務総長辞任以来初めて組織委員会に乗り込む。

ちょうど開閉会式の実施要項の発表会が行なわれ、壇上には東京都知事の東龍太郎、田畑の後任の事務総長の与謝野秀(中丸新将)、新たにオリンピック担当大臣となった河野一郎(桐谷健太)らお歴々がそろっていた。田畑は彼らを前にまず、「日章旗をいますぐ用意しろ。俺が沖縄まで持っていく」と啖呵を切り、「沖縄で日の丸を振って聖火を迎える。これは島民の願い! 最重要事項! 政府が何と言おうと、やれ!」と命ずる。続いて「それから聖火リレーの最終ランナーは、早稲田の坂井義則君を走らせるべきだ!」と坂井の履歴書をテーブルに叩きつけ、「いいか、よく聞け、小役人ども。アメリカにおもねって原爆への憎しみを口にしえない者は、世界平和に背を向ける卑怯者だ!」と言い放った。

組織委員会に乗り込んで言うだけ言って、お偉方を圧倒する田畑の姿は、放送時期が年末だけに、身を隠しながら仲間と策を練り続け、ついに主君の仇である吉良邸に討ち入った大石内蔵助のようでもあった。もっとも、田畑の相手は敵ではない。一緒にオリンピックを成功させようと力を合わせるべき仲間である。その証拠に、東は「まーちゃん!」と呼び止めると、「またいつでもいらしてください。席はご用意します」と彼が再び活躍する場を与えていた。

ちなみに田畑の「アメリカにおもねって〜」というセリフは、このレビューでもたびたび引用してきた、彼がオリンピック閉幕後に「朝日新聞」に寄稿した文章がもとになっている。当該箇所では、アメリカとソ連の二大大国に加え、オリンピック会期中に初の原爆実験を行なった中国(東京オリンピックには参加しなかった)を念頭に、次のように書かれていた。

《坂井君が最終ランナーであることがアメリカに悪感情を与えるとの批判も一部にあったようだが、われわれがにくむのはアメリカではなく、原爆そのものである。アメリカでもソ連でも中国でも原爆をやめてもらわなければならない。日本はアメリカの属国ではない、アメリカにおもねるために、原爆に対する憎しみを口にしえない者は世界平和に背を向ける卑怯(ひきょう)者である》(「朝日新聞1964年10月25日付朝刊)

ただ、選ばれた当の坂井義則からすれば、プレッシャーはそうとうなものだったろう。それは劇中、いよいよ開会式を翌日に控えたリハーサル中の「8月6日じゃありません! アトミックボーイでもありません! 僕は坂井義則です。オリンピック選考会で負けた坂井義則です!」というセリフに集約されていた。内定の段階からマスコミに引っ張り出されたうえ、選手としてではなく、原爆投下の日に生まれたことだけで注目され(そもそも彼が生まれたのは広島市ではなく、同じ広島県でも三次市である)、象徴的に扱われる。自分のイメージだけが独り歩きして、マスコミやオリンピック関係者は生身の人間として接してくれない。19歳の青年なら傷つくのは当然である。

ただ、実際の坂井は、最終ランナーに選ばれてまもなくして気持ちを切り替えたらしい。みんなが敗戦からの復興の象徴としてオリンピックを待ち望んでおり、だからこそ自分が原爆投下の日に生まれたことも注目されるのだろう。《それなら自分が醒めていちゃいけない。原爆ボーイとみられるのなら、それも甘んじて受け入れよう》と思い直したというのである(佐藤次郎『東京五輪1964』文春新書)。当時の19歳というか、坂井は思って以上に大人だったのだと感服する。

テレビの力で沖縄に日の丸が掲げられる
8月21日、聖火がアテネで採火され、アジア各地を経由する聖火リレーが始まる。9月に聖火が沖縄に着くまでには、国旗掲揚の問題を何とか解決せねばならない。そこで田畑は、代々木のワシントンハイツの返還を画策したときと同様、元外交官の平沢和重(星野源)に相談する。

平沢は許可を取らないまま実施して、事後承諾で乗り切るしかないという。これに田畑は、事後承諾でジャカルタでのアジア大会ではえらい目にあったと苦笑する。が、平沢はいつものように「考えがあります」と切り出し、聖火の到着をテレビ中継することを提案する。アメリカもわざわざカメラの前で国旗を引きずり降ろしたり、人々から取り上げたりはしないだろうというのだ。

果たして9月7日、沖縄に聖火が到着すると(台風のため予定より1日遅れた)、地元の人々は田畑たちからあらかじめ配られた日の丸の小旗を振って出迎えた。聖火リレーが始まってからも、沿道にはあふれんばかりの旗、旗、また旗。米兵もこれには手出しできず、静観するしかなかった。NHKテレビで解説委員を務める平沢だけに、さすがテレビの力を心得ていたというわけである。その日のニュース解説で彼が「日の丸の掲揚を容認した、自由の国アメリカの寛大さ、賞賛に値しますね」としれっと言ってのけたのは心憎いほどだった。

このあと聖火は本土に渡り、4コースに分かれてリレーされた。各地で大勢の若者が聖火を持って、あるいは取り囲んで走った。その様子に、市川崑の記録映画「東京オリンピック」の冒頭シーンで日本各地を聖火ランナーが駆け抜けるシーンをふと思い出した(もっとも、あの映画では実際には聖火リレーのコースにならなかった場所も出てくるのだが)。各コースを経て東京に着いた聖火は10月9日、皇居前で一つに集められ、いよいよ翌日、開会式の行なわれる国立競技場へ運ばれようとしていた。

坂井をはじめ若者たちが聖火リレーの主役なるなか、この年73歳となっていた金栗四三中村勘九郎)は、1940年の幻に終わった東京オリンピック嘉納治五郎から最終走者の役を任されながら、果たせなかったことを嘉納の記念碑の前にひれ伏して謝る。ここ何回かの中村勘九郎の老いた四三のなりきりぶりには、ちょっと驚くものがある。

コンゴの2選手と四三・弥彦の姿が重なる
この間、8月20日になってようやくコンゴが参加を表明する。参加国には国歌の楽譜がない国も結構あり、組織委員会の職員が電話で聞き取りながら採譜したというのがすごい。

このころには田畑も組織委員会に再び出入りするようになっていた。コンパニオン34名も選考を経て決まり、田畑の次女・あつ子吉川愛)も選ばれた。娘から頼まれ、ボランティアの通訳の大河原やす子川島海荷)を代々木の選手村まで車で送った田畑は、到着すると、大河原のことも忘れて駆け出す。何しろ、自分が国立競技場にも近いこの地に建設するべく奔走した選手村を、彼はこのとき初めて目の当たりにしたのだ。あとから来た岩田に、「これから何度も言うだろうけどね」と前置きしたうえ、「嘉納さんにも見せたかったなー」と感激をあらわにする。

そこへ、ほったらかしにされた大河原が走ってくる。彼女を追うように二人の黒人男性が現れる。それはヨンベ(アリオン)とウランダ(マックス)というコンゴの選手だった。エントリーは遅かったが、日本にはほかの国に先んじてやって来た彼らを、田畑たちは選手村の食堂に連れていく。料理長の村上信夫(黒田大輔)が、「初めてつくるのがアフリカ料理だとは思いませんでしたよ」と持ってきた料理を、二人はフォークとナイフを断ったかと思うと、箸で食べ始めると言って驚かせる。来日前にあらかじめ練習してきたのだろう、その手つきはなかなかのもの。それを見ながら、自分もかつて、ストックホルムに行く前にテーブルマナーを特訓したものだと懐かしそうに語る老人が一人。初期の体協のメンバーだった可児徳(古舘寛治)だ。大森兵蔵のアメリカ人の妻・安仁子から厳しく教えられながらも、彼は結局、ストックホルムには行けなかったわけだが。ずっと見てきた視聴者にも遠い過去のようで、もはや懐かしい。1874年生まれの可児はこのとき90歳を間近にしていた。

ヨンベとウランダは翌日、組織委員会に招かれ、コンゴ国歌の演奏で迎えられる。電話で採譜した式典課の森西栄一(角田晃広)は、曲が正しく演奏されているか不安だったが、二人がすぐに曲に合わせて歌い出したので安堵する。その姿は、ストックホルムオリンピックを前に、金栗四三と三島弥彦(生田斗真)が現地の人たちに日本の歌をリクエストされて、「君が代」を歌ったのと重なる。

マリーの占いの結果は本当に雨だったのか?
選手村の入村式は9月26日に行なわれた。翌27日には、羽田空港東京都心を結ぶ東京モノレールが、10月1日には東海道新幹線首都高速道路の一部が開通、すべてオリンピックに合わせるべく工事が進められ、ぎりぎりで間に合った。

そしていよいよ開会式を翌日に控えた10月9日。田畑が国立競技場で、先述のとおり坂井と聖火点火のリハーサルを行なっていると、雨が降り出す。本降りとなって、日本橋のバー「ローズ」に駆け込むと、おなじみの東龍太郎や松澤一鶴(皆川猿時)のほか、なぜか、松下治英(駿河太郎)ら航空自衛隊ブルーインパルスのパイロットたちも来ていた。ブルーインパルスは開会式で空に五輪を描く予定であったが、明日は雨で中止だろうと残念会を開いているという。

東が田畑に、インドネシア北朝鮮の不参加が最終的に決まったと伝え、「国と国との交渉をやっていると、オリンピックは平和の祭典だなんて言わないほうがいいんじゃないかという気がしてくるよ」と弱音を吐く。田畑も、「坂井君がナーバスになっている。彼は……走れんかもしれん」と早く気づいてやれなかったことを悔やんだ

店内に重苦しい雰囲気が漂うなか、ママのマリー薬師丸ひろ子)が「明日の天気、占ってあげようか」と言ってくる。毎度のことで懲りている田畑は「あんたの占いが当たらないってことは、もうみんな知ってる」と断るのだが、マリーはテレビの天気予報でも明日は雨だと伝えられるのを見て何を思ったのか、「当たったら、カラーテレビを買って」と頼んで、田畑もやっと同意した。タロットカードを引いて東京の絵地図の上に並べ、並んだカードを見た彼女が、「雨! 豪雨と出ているわ」と言うと、田畑・東・松澤の顔色が変わる。畳みかけるように「世界中の雨雲を全部東京に持ってきちゃったような曇天よ」と言われ、松澤はあわててブルーインパルスの面々に帰るよううながした。田畑の顔に希望が浮かび、マリーに「ありがとう」と感謝を述べる。そこで孝蔵「えー、明日は一番面白いことが起こるはずです」の語りが入ったところで、いよいよ最終回へつづく! てか、本当にあと1回で終わるのか。あと3回くらい必要なのでは……。

それにしても、新聞社に入ったばかりの田畑に30歳で死ぬと占って以来、占ってはずっと外し続け、がっかりさせてきたマリーが、ここへ来て希望を与える役割を果たそうとは。「当たらない占い」にもちゃんと物語上、意味があったことに驚かされる。

ちなみに、マリーが並べたカードには、太陽の描かれたものがあったが、ひょっとするとあれは雨ではなく、晴れという占いだったのではないか? ツイッターでもそんな指摘を見たので、タロット占いにくわしい米光一成さんに訊いてみたところ、画面に映ったカードは、タワーのカードが1枚あった以外は、すべてよいカードらしい。タワーもさかさまに置かれ、過去の位置ともとれるので、悪いことがあったけれど未来は好転すると読める。したがって、苦労が報われて、晴れるという解釈でいいとの答えであった。

となると、マリーは田畑たちにウソをついたことになる。いや、ひょっとすると彼女は、たとえどんな結果が出ようとも、自分の占いは当たらないと思っている相手のため、明日は雨だと言うつもりでいたのかもしれない。いずれにせよ、田畑がマリーに「ありがとう」とお礼を述べたのは、彼女の気持ちに感づいたからだろう。占いは結果的に外れることになるが、ぜひ田畑には彼女のためカラーテレビを買ってもらいたい。(近藤正高)

※「いだてん」第46回「炎のランナー
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:西村武五郎
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)

イラスト/まつもとりえこ