日本初の高層ビル火災 一流デパート・白木屋の大火は「女性の下着史」を変えたのか から続く

「船長が船の沈没するまで降りられるか!」と怒鳴った山田専務

 白木屋の専務・山田忍三という人物はキーパーソンになるだろう。「婦女界」1933年2月号の特集にも「失火事件と私の対応」という文章を寄稿しているが、筆者紹介には「予備陸軍少佐で、昭和2年、前専務西野恵之助氏に懇請されて悲境の白木屋に入り、果断と積極政策によって不景気の真っ最中に大建築を決行し、昨年11月、あの東洋一を誇るモダン建築が完成し、今は内容の充実へと努力の途上でありました」とある。社長が関西駐在だったため、日本橋白木屋の全責任を負っていた。口八丁手八丁のやり手というか、「ハッタリ屋」の一面があったのではないか。エピソードに事欠かない。

 火事が発生すると、客を誘導して屋上に行き、避難活動を指揮。消防服の警視庁消防係長から「危険だから早く降りてください」と言われると「馬鹿! 船長が船の沈没するまで降りられるか!」と怒鳴った。12月22日の犠牲者の葬儀では、委員長として「皆さまを永の旅に立たせたのは私の罪であります。私にたくさんの落ち度があったのです。どうか私を恨んでください。憎んでください」と涙ながらに弔辞を述べた。営業再開の前夜、「一、店舗は焼けたるも精神は焼けぬ」に始まる5カ条の「復興の訓」を書き、各所に張り出した……。

「店員精神がこの不幸な災難に際して如実に発揮された」

 こうした対応もあって、世間の白木屋に対する視線は極めて好意的だった。その最大の理由は客から犠牲者が出なかったこと。「来客中に死者がなく、ことごとく店員であったことは、勇敢にも顧客の救出を先にし、自らを後にした店員の中からいたましい犠牲が生じたものといえよう。大火の模様は国内外にいち早く報道されたが、店内につちかわれていた店員精神がこの不幸な災難に際して如実に発揮されたものとして、彼らの死に深い同情と賛辞を寄せている」と、「中央区史 下」ももろ手を挙げて褒めている。

 さらに評価を決定的にしたのは、天皇の威光だった。「昭和天皇実録」1932年12月20日の項にはこんな記述がある。「去る16日、東京市日本橋区所在の株式会社白木屋における火災のため、多数の死傷者発生につき、この日天皇皇后より御救恤として金五百円東京府に下賜される」。山田専務は「白木屋の大火」の「はしがき」の2項目目で「一、畏(かしこ)くも 上聞に達し 恩賜の御沙汰を賜う、店員一同と共に恐懼おくあたわぬところであります」と書いている。

海外でも賞賛 営業再開後は大盛り上がり

 さらに「白木屋の大火」は、「海外の声」の項目で、アメリカニューヨークの新聞「ヘラルド・トリビューン」が社説で火事を論評したと書いている。それによると、「武士道」の見出しで、関東大震災の際も「日本人から一言の泣き言さえ聞かされず、また一片の同情も要求されなかったわれわれ西洋人は、武士道というものがいかに偉大なものなるかを如実に知ったのである」と、火事で示された日本人の性質を賞賛。小冊子は「武士道の華とまで称揚したのはまことに感激のほかはない」としている。最近の「ニッポンすごい!」の風潮にも通じる。

「世論」の項目では、「この事故の犠牲となった白木屋店員に対する同情は翕然(一カ所に集まる)として集まった」と記述。「特に山田専務あて寄せられたご同情、激励の書簡のごときは数千通を超え」たとある。

 そうした中で白木屋の株価も急落のあと暴騰。12月24日の営業再開には「定刻前から好奇心も手伝ってわんさと押し掛け、午後1時までに6万人を突破。1時間の間に5たび客止めをしたが、売り上げは火災前1日平均の倍くらいだった」(12月25日付朝日夕刊)という熱狂ぶりだった。

女の子が降りないんだ。死んでも降りないと言うんだ」

 では、「伝説」の真偽はどうか? 「近代消防」1974年6月号には、元警視庁日本橋消防署放水長という大貫金之助という人の「私の消防戦記」が載っているが、その中では白木屋火災の時のことを次のように回想している。

ハシゴを伸ばして6階のベランダにいた避難者を助け出したわけなんです。その時には袋と綱とハシゴと全部使ってやったわけなんです。袋からちょうど降ろす時に、逸話みたいになりますけれど、女の子が降りないんだ。死んでも降りないと言うんだ。

 どういうわけかっていうと、その時分はズロースってもんをやってないんだ。みんな女の子が着物、和服で。それだから、私なんかはね、降りるとか降りないとかいう問題じゃない。降ろさなくちゃならないんだから、命を助けなきゃならないんだから、少々ケガさしても命を助けなきゃならない身分があるんだから、どんどん股へ着物を挟んじゃ、その後から運ぶんですよ。そうすると、すうーとすべっていって下へ降りるんでしょ。そうすると、一人一人降りると、下ではバンザイですよね」

すそを押さえるためにロープから手を放して墜死した女店員も

 また、当時の藤田惣三郎・日本橋消防署長も「週刊東京」1956年11月24日号でこう語っている。「あのころの女性はほとんど和服で、下着も洋服のように肌にぴったりついたものがなく、救助袋の中を滑り降りてくるとすそがはだけてしまい、下半身があらわになるなど、女性にとっては随分恥ずかしいことも相当あったのでしょう。みすみす脱出しながら、すそを押さえるためにロープから手を放して墜死した女店員もありました」。このあたりが実態ではなかったのだろうか。

 和服の下は腰巻だけで、ほかに下着を着けていない若い女性が恥ずかしがるのは想像できる。だが、生死の境となる火事現場であれば、元消防署長や元放水長の言うようなことが現実だったのではないか。中には恥ずかしがっているうちに墜落するなどして死んだりケガをしたりした人もいたかもしれないが、それは伝説として伝わっている情景とはだいぶ違っていたと考えられる。

「火と水の文化史」も「白木屋ズロース伝説」を受け入れながらも、「死亡原因は、初期消火に当たって煙に巻かれて窒息死した1人を除き、4人は7階から飛び降りて死亡し、他は帯や反物をつなぎ合わせて降下中に力尽きて墜落したり、雨どいを伝って下りる途中で落下した人たちだった」としている。

「飛び降りろ、飛び降りろ」という野次馬があった

 もう一つ、気になることがある。「天災は忘れたころにやってくる」という格言で知られる科学者で、夏目漱石門下の随筆家でもある寺田寅彦が白木屋火事について書いている。

「実に驚くべき非科学的なる市民、逆上したる街頭の市民傍観者のある者が、物理学も生理学も一切無視した、5階飛び降りを激励するようなことがなかったら、可惜(あたら)美しい青春の花の莟(つぼみ)を鋪道の石畳に散らすような惨事もなくて済んだであろう。このようにして、白昼帝都の真中で衆人環視の中に行われた殺人事件は、不思議にも司直の追及を受けず、また、市人の何びともこれをとがむることなしに、そのままに忘却の闇に葬られてしまった。実に不可解な現象と言わなければなるまい」(「火事教育」)。

「殺人」とは穏やかでないが、火災5日後の懇談会で早川警視庁消防部長も言っている。「(避難者は)非常に飛び降りに焦りまして、また見ている人たちが、避難者が随分高い所にいるのにもかかわらず、狂気のようになりまして『飛び降りろ、飛び降りろ』と言うのが多かったのであります」。

 山田忍三専務も「下にいるたくさんの野次馬が『飛び降りろ、飛び降りろ』と騒ぐので、ついそれに誘われて飛び降りて死んだ者もあったようですが、野次馬もこんな無責任な馬鹿なことを言わないようにしてもらいたいものです」と語っている。専務の言葉に責任逃れの意図があったとしても、現場で、野次馬たちがはやし立てて飛び降りを勧め、結果的に、不安と焦燥に駆られた女性たちを墜落死に誘導するようなことがあったのは間違いないようだ。

関東大震災以後、ズロースへの社会的評価は変わってきていた

 ズロースに話を戻せば、青木英夫「下着の文化史」は「この火事があって以来、ズロースをはく人が増加してきた。といっても、せいぜい1%ぐらいだった」「実際にはズロースの着用は、その火事が起きてから10年ぐらいたってから社会的認識が高まってきた。それがズロースの使用を促すこととなった」と、「白木屋ズロース伝説」に部分的に疑問を呈している。

 村上信彦「女の風俗史」も「やはり、それが純粋の動機とは申せません」「そのために(ズロースを)はき出した人たちも、(関東大震災が起きた)大正12年以後10年間のうちに、ズロースへの社会的評価が少しずつ変わってきたからで、本当の原因はそれら『事件』にあるのではなく、女の生活の変化にあったのです」と言う。

ズロースなんて、いやらしくてはけない」

「下着の文化史」によれば、大正時代からの女性の社会進出と関連して「カフェの女給は、たいていは白いエプロン姿で、着物の上に着付けていた。しかしこれは、別に洋装の下着を着けていたわけではなく、腰巻姿であった」「上に着るものが洋装化していても、下に着る下着が必ずしも全て洋装化したというわけではなかった。洋服の下に腰巻というのもかなりあった。当時は大体洋服の半分ぐらいの人が下は腰巻だったといわれている」と述べている。

 理由として「女性にとっては、ズロースをはくことは、感覚的には局部を冒瀆するような一種の恥ずかしさを与えた。それは、腰巻の下で解放的であった皮膚は、理屈では分かっていても、感覚的には何か抵抗を感じたのである。いわば感性と理性の戦いであり、新しい服装には想像以上に難しい問題があったのである」と書いている。

「女の風俗史」も「ズロースはオコシ(腰巻)と違って肌に密着する下ばきです。これは着物生活にはない経験で、本来局部を保護するものでありながら、何かいやらしい感じを与えたのです」と書いている。ある待合の女将は「腰巻では『頼りない』ことを十分認めながら、『ズロースなんて、いやらしくてはけない』と私に告白しました」という。

ズロースは「従来の女らしさとのズレを生み出した」

「下着の文化史」はさらに「ズロースの普及しにくかった第一の、そして最大の原因は、いまの人たちには奇妙に感ぜられるかもしれないが、それをはくことが、従来の女らしさとのズレを生み出したことです」と述べる。「腰巻は名のみの下着であって、着物一枚めくればその下はハダカであるということが、女の羞恥を育て、しとやかさ、つつましさの土台となり、封建的な女の精神構造の支えにまでなっていたのです」「だから、ズロースのような完全な下ばきをはくことは、それだけ不必要な羞恥心を薄めることになるので、封建的な男にとっては不満だったのです」と強調する。

 左翼作家タカクラ・テルの戦後のエッセー「女はなぜズロースをはくか?」は、共産党員が大量検挙された事件で「昭和の35大事件」でも取り上げた「三・一五事件」に関連したエピソードを紹介している。「ある有名な女闘士が捕らわれた。そして、ひどい拷問を受けた。『女のくせにズロースをはいていやがる』。係官がそう言って竹刀で殴りつけた。ズロースに血が真っ赤に染みた。その当時でも、ズロースをはく習わしが女の間に広く行き渡っていなかったことをよく示している」「男と同じに活動しなければならない共産党員の女が、普通の女に先んじてズロースをはき始めたということも、これで知ることができる」。

 ここには当時の女性の下着に対する男性の本音が表れている。真偽はさておき、白木屋の火事の際、着物のすそを気にして墜落死した「ズロースをはかない女性」は、男を無条件で受け入れてくれる、古き良き時代の女性の象徴であり、「白木屋ズロース伝説」は、保守的な男たちにとってムシのいい、消え去りつつある時代への一種のノスタルジーだったのかもしれない。だからこそ、87年たったいまも言い伝えられているのではないだろうか。

 【参考文献】
▽博文館編纂部「大東京写真案内」 博文館 1933年
▽「証言 私の昭和史(1)昭和初期」 學藝書林 1969年
▽「中央区史 下」 東京都中央区 1958年
▽白井和雄「火と水の文化史 消防よもやま話」 近代消防社 2001年
長谷川銀作「桑の葉・歌集」 ぬはり社 1934年
▽青木英夫「おしゃれは下着から」 新紀元社 1960年
▽青木英夫「下着の文化史」 雄山閣出版 2000年
▽井上章一「パンツが見える。」 朝日選書 2002年
白木屋調査部「白木屋の大火」 白木屋 1933年
▽「白木屋三百年史」 白木屋 1957年
宮内庁編「昭和天皇実録第6」 東京書籍 2016年 
▽寺田寅彦「火事教育」=「蒸発皿」(岩波書店1933年)所収
▽タカクラ・テル「女はなぜズロースをはくか?」=「女」(改造社、1948年)所収

(小池 新)

これが「白木屋ズロース伝説」の発端? 山田忍三専務の談話記事(東京朝日)