(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

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 12月4日アフガニスタンから入ってきた悲報は衝撃だった。長年にわたって現地で人道支援にたずさわっていた民間NGOペシャワール会の現地代表の中村哲医師が銃撃され、殺害されたのである。

 アフガニスタン国民から広く敬愛されていた中村医師。志半ばでの死は、本人にとっては、さぞ無念だったのではないか。

 中村医師の長年にわたるアフガニスタンでの人道支援活動に心から感謝するともに、この場を借りて哀悼の意を表します。合掌。

アフガン情勢の悪化は「9.11」以前から

 いまなお安定とはほど遠いアフガン情勢。2001年の「9.11テロ」の報復から始まった米軍は撤退できないまますでに19年となっており、米軍史上最長のものとなっている。

 ブッシュジュニア)政権時代の米国がテロの報復としてアフガニスタン攻撃を開始したのは、テロを企画実行したアルカーイダウサーマ・ビン・ラーディンが現地のイスラーム主義勢力タリバンに客人として匿われていたからだ。

 アフガニスタンからの米軍撤退を公約に掲げたオバマ政権になってから、米軍関係者の死傷者を減らすために、米国内の基地からの遠隔操作によるドローンを使用した空爆が大々的に採用されている。だが、誤爆によって多数の一般人に被害をもたらしており、米国に対する怒りの感情が現地に根強く存在する原因となっている。米軍は2011年にビン・ラーディンをパキスタンの潜伏先で殺害しているが、アフガニスタン情勢は依然として不安定状態が続いている。

 トランプ政権も治安維持にあたっている米軍の撤退を公約しているが、いまだに撤退への道筋はついていない。現地情勢を不安定化させているのは、「自称イスラーム国」(ISIS)の残党勢力が存在するためだ。一説によれば、中村医師殺害はISISが実行したという。

 ペシャワール会は、もともとパキスタンでハンセン病対策を中心に医療活動に取り組んでいた中村医師を支援するために1983年に結成されたものだ。パキスタンでの活動は1984年から、隣接するアフガニスタン北東部での活動は1986年から開始している。復興支援活動は、2001年の「9.11」のはるか前から始まっていたのである。

 現代史においてアフガニスタンが紛争地になった発端はなにか。それは、1979年末に始まったソ連軍の軍事侵攻である。

 このことでソ連は激しい国際的非難を浴び、翌年1980年モスクワオリンピック西側諸国によってボイコットが行われている。長期化したアフガニスタンへの軍事介入は、最終的に10年の長期に及んだ。その後、2001年から米軍の介入が始まったのである。

クリスマスイブに発生した大事件

 毎年、12月も半ばを過ぎると、1年を振り返る特集がテレビや週刊誌を中心に目につくようになる。「今年の10大ニュース」など各種のランキング情報の特集企画だ。さすがにもうこの時期になれば、その年を代表するような大きな事件や事故は発生しないだろうという想定が、企画する側にも視聴者や読者の側にもあるためだろう。だが、過去においては、そうではなかった年がある。その1つが、ソ連によるアフガン侵攻だ。

 ソ連軍がアフガニスタン侵攻作戦を開始したのは、正確にいえば1979年12月24日クリスマスイブのことだった。そして、奇しくも12年後の1991年12月25日のクリスマスにはソ連自体が崩壊している。偶然というには、あまりにもでき過ぎではないかという気もするが、事実は事実である。

 ついでに触れておけば、「ベルリンの壁」が崩壊したのは30年前の1989年11月9日のことだったが、同じ年の12月25日にはルーマニア独裁者チャウシェスク大統領夫妻が脱出寸前に逮捕され、処刑されている。クリスマスイブとクリスマスに、宗教を否定する無神論共産主義国家に大事件が起こったとなると、なにか因縁めいたものを感じてしまうかもしれない。だが、これらの事件がおこったのは、あくまでも偶然の一致であろう。

 その時点では重大性の認識が十分ではなかったとしても、10年単位、30年単位ではないと見えてこないものもある。構造的変化というものは、あくまでも中長期の視点でもみないとわからないことが多い。世界情勢を揺るがす構造変化が1979年に発生しているのである。

世界を揺るがした構造変化が1979年に発生

 1979年はどういう年だったのか、40年後の2019年の視点から簡単に振り返って見ておきたい。それは、イスラーム世界と中国が表舞台に登場してきた年であり、英米アングロサクソン世界が金融自由化を軸とした「第3次グローバリゼーション」の推進を開始した年であった。

 なによりもイスラーム世界の存在が急浮上した年である。2月の「イランイスラム革命」は、その年の4月にはイラン・イスラム共和国の成立につながった。革命後のイランシーア派勢力は影響力を拡大、イラク独裁者サッダーム・フセイン政権崩壊後は、隣国のイラクを含め中東における一大勢力となったが、ここ数年は欧米による経済制裁の影響が深刻で、その勢いに退潮傾向が見られるのが現状だ。この40年間で歴史は一巡したといえよう。

 中国では、権力から遠ざけられていた鄧小平1978年に復活し、毛沢東時代の政治路線による混乱で大幅に遅れた中国経済を発展させるため、「改革開放」路線を強力に推進し始めた。1979年1月1日には米国との国交が正式に樹立、7月には当時はまだ英国の植民地だった香港に隣接する深センなどに「経済特区」を設置している。現在では鄧小平路線による高度成長が終わり、中国経済は成熟状態の「新状態」(ニューノーマル)に入っている。中国もまた40年間で歴史は一巡したといえよう。

 英国では、保守党1979年5月の総選挙で第1党となり、党首のマーガレット・サッチャーが英国史上初の女性首相となった。「鉄の女」の異名で呼ばれたサッチャー首相は、その翌年の1980年米国大統領となったロナルド・レーガンとともに、新自由主義による金融を軸とした第3次グローバリゼーションを推進、規制撤廃(ディレギュレーション)による民営化路線で英国経済の復活をもたらした。国民投票でEU離脱(ブレグジット)を決めた英国は、先に行われた12月13日総選挙保守党がサッチャー首相時代の1987年以来の圧勝を収め、ブレグジットへの道を確実なものとした。その意味では、サッチャー時代に再び戻ったことになる。

 1989年12月3日には米ソ首脳が「冷戦終結」を宣言している。その後、単独で世界の覇権を握った米国だが、今度は急速に膨張してきた中国の挑戦を受けるに至っている。この40年間で、米国もまた歴史は一巡したといえよう。

 ふたたびイスラーム関係に戻るが、1979年の「イランイスラム革命」は、経済的には1973年の「石油ショック」に続いて発生した「第2次石油ショック」となり、その年の10月にサウジアラビアの聖地メッカではイスラーム主義の過激派による「カアバ神殿占拠事件」が発生している。

 そして、1979年12月25日に始まった「アフガン侵攻」もまた、イスラーム主義者の存在を顕在化させることにつながっていった。

アフガン侵攻は半年で終わるはずだった

アフガン侵攻」は、1979年12月24日に始まった。当時は高校2年生だった私は、このニュースの第1報をFEN(米軍極東ネットワーク、現在はAFR)のラジオニュースで聞いて驚いたことを覚えている。"Soviet troops invaded Afghanistan." というのが、米軍アナウンサーの第一声であった。

 米国は、カーター大統領の時代だ。アフガン侵攻について、その侵攻前の状況から見ておこう。

 ソ連南部と国境を接するアフガニスタンでは、1973年に王制が廃止されて共和制に移行していたが、1978年にはソ連留学組将校たちによるクーデターが発生。急進派の革命評議会が政権を握ったが、反政府勢力のムジャーヒディーンとの対立のため混乱が深まっていた。ほぼ全土がイスラーム勢力に手に落ちたなか、共産党政権の首相はソ連に軍事介入を要請していた。

 そんななかで発生したのが、ソ連軍による「アフガン侵攻」である。KGB(=ソ連国家保安委員会、現在はFSB=ロシア連邦保安庁)議長が短期介入を主張、ソ連軍トップと外務大臣の支持を得て実行に移された。12月24日のことである。

 すでに先行して投入されていた特殊部隊スペツナズが首都カブールの主要目標を占拠、宮殿を急襲して首相を殺害し、ソ連が擁立した新首相による政権を立ち上げた。あくまでも6カ月から1年程度の限定的な短期介入を想定しており、主要都市や幹線道路を確保し、政権を安定させたうえで、軍隊や警察を訓練するのが作戦の主要内容であった。1956年ハンガリー動乱における軍事介入のようなものを想定していたのであろう。

 ところがソ連政府の指導部は、東西交通の要衝であるアフガニスタンが、アレクサンダー大王以来、難攻不落の地として侵略者を寄せ付けない山岳地帯であることを、失念していたのかもしれない。現地人であるムジャーヒディーンたちの抵抗は激しく、さらに隣国のパキスタンやCIAをつうじた米国の軍事援助によって抵抗は激化し、戦争状態は長期化する。のちにアルカーイダを結成することになるサウジアラビア出身のビン・ラーディンも、義勇兵として参加した1人であった。

 戦争状態は泥沼化し、ソ連軍がアフガニスタンから撤退するまで、なんと10年もかかることになってしまったのである。投入されたソ連軍は、徴兵された若者を中心に10年間で延べ100万人に及び、戦死者は約1万5000人に達している。それをはるかに上回る戦死者がアフガニスタン側に出ている。

ソ連崩壊後も残る、深い精神的な傷跡

 アフガン侵攻の翌年に開催された「1980年モスクワオリンピック」は、米国を筆頭に日本を含めた西側の自由主義諸国によってボイコットされた。その次の「1984年ロサンゼルスオリンピック」は、逆にソ連を中心とした社会主義諸国がボイコットしている。

 アフガン侵攻が、ソ連にとっての「ベトナム戦争」となり、国際的な非難を浴びただけでなく、国力が大幅に疲弊、さらには戦死者の家族を含め、アフガン帰還兵とその家族を中心に体制への不信感と怒りが拡がっていった。1986年頃には、ソ連政府はアフガンからの撤退の検討をひそかに開始していたらしい。

 ソ連の「アフガン帰還兵」は、米国の「ベトナム帰還兵」と同様に、戦争後遺症に苦しんだだけでなく、真相を語れないために社会で疎外されていた。この事情は、帰還兵たちとその母親たちからの聞き書きをもとにした、2015年のノーベル文学賞の受賞者でベラルーシ出身の作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの『アフガン帰還兵の証言-封印された真実』(日本経済新聞社、1995)を読むとよく理解できる。ロシア語版原著はソ連崩壊前の1991年に出版され、ソ連社会は騒然となったらしい。戦争の赤裸々な真相が、初めて知られることになったからだ。

 リアルタイムでメディアがカバーしていたベトナム戦争と、情報が徹底的に統制され真相が封印されていたアフガン戦争の違いはあるが、大義なき不毛な戦争がもたらしたものが、モラル面でソ連崩壊の原因の1つとなったことは間違いない。ソ連社会はすでに病んでいただけでない、ソ連崩壊後にも残る深い精神的な傷跡となったのである。

抑圧的な政治体制は70年で崩壊する?

 1979年に始まったアフガン戦争だけが原因となったわけではないが、1980年に誕生した米国のレーガン政権が仕掛けた軍拡競争に巻き込まれ、消耗戦の末に経済が疲弊したことがソ連崩壊につながっている。1986年チェルノブイリ原発事故では、発生当初に情報を隠蔽したソ連政府は国際的な非難を浴びるに至る。

 1985年に就任したゴルバチョフ書記長による「グラスノスチ」の言論自由化、経済立て直しを図った「ペレストロイカ」の改革路線は、その意図に反して共産党一党独裁の基盤を揺るがすことになる。計画経済にもとづく社会主義体制自体はすでに機能不全状態に陥っており、体制内改革だけでは立て直しはきわめて困難な状況にあったのだ。

 ソ連が崩壊したのは、すでに触れたように1991年12月25日のクリスマスの当日のことであった。ソ連軍のアフガン撤退から約3年後、ベルリンの壁崩壊から2年後のことである。ソ連という国家とソ連共産党は、完全に地上から消滅したのである。1917年の「ロシア革命」から74年目のことであった。

 だが、70年超で体制崩壊したのはソ連だけではない。抑圧的な政治体制は、いずれも70年から80年で破綻している事実に目を向けるべきであろう

 1871年の国家統一から74年目に無条件降伏(1945年)で崩壊したドイツ帝国、1868年の明治維新から78年目に無条件降伏(1945年)で崩壊した大日本帝国、1861年の国家統一から82年目に無条件降伏(1943年)で崩壊したイタリア王国である。いずれも後発資本主義国で、近代化によって「産業革命」は成功したものの、「市民革命」が挫折した国々だ。

 日本近現代史の中村政則教授は、『「坂の上の雲」と司馬史観』(岩波書店2009)で、19世紀後半当時において世界は3つのグループに分けられるとしている。20世紀を代表する歴史家ウォーラースティンの「近代世界システム」に準拠したものだ。

・第1グループ 「中核」(=先進資本主義国)
「市民革命」と「産業革命」をともに達成した英国、フランスおよび米国

・第2グループ 「半周辺国」
「市民革命」は挫折、「産業革命」は達成。ドイツイタリアロシア、日本、東欧など

・第3グループ 「周辺国」
「市民革命」も「産業革命」も未完。インド、中国などアジア諸国、アフリカラテンアメリカなどの植民地や半植民地

 経済力をつけた中産階級が、政治的権利の拡大を求めたのが「市民革命」である。日本が属する「第2グループ」は、政府主導の「上からの改革」は強力に推進されたが、「下からの改革」は徹底的に押さえつけられたということだ。「上からの改革」は、どうしても徹底さを欠くので、そのツケはかならず後年に持ち越されることになるこの点は、社会主義体制のソ連も同じであった。

 ソビエト連邦大日本帝国も、倒れるべくして倒れたといっても言いすぎではないだろう。

政権をとってから70年、はたして中国共産党は?

 中国共産党は現在、習近平体制が独裁的な性格を強めている。宗教弾圧や少数民族の弾圧だけでなく、ネット検閲や顔認証も含めたデジタル監視システムによって社会統制を強化している。

 政策の背景にあるのは、ソ連崩壊反面教師とした教訓であるという。イデオロギー統制を強化して体制を引き締め、情報統制を強化することで体制崩壊を防止するべきだという教訓だ。これは、1979年以降に鄧小平が推進した「改革開放」路線とは真逆の方向だ。

「世界の工場」となった中国は、すでに「産業革命」は完了済みである。デジタル監視システム強化という背景もあって5G開発では先頭を走っており、米国が躍起になって中国の技術開発をストップさせようとしているくらいだ。

 その意味では、先に見た分類では、2019年時点では中国はすでに第2グループに属しているといってよい。「産業革命」は完了したが、「市民革命」は挫折したという状態だ。「一国二制度」の下にある香港の民主化への対応を見れば明らかだろう。

 だとすれば、ちょうど今年2019年に政権をとってから70周年となる中国共産党の中国は、74年で崩壊したソ連、おなじく74年で崩壊したドイツ帝国、78年の大日本帝国、82年のイタリア王国のように、74年から82年で崩壊してもおかしくないことになる。中国共産党の寿命は、尽きかけているといっていいかもしれない。

 ソ連崩壊引き金になったのは、1979年の「アフガン侵攻」であった。日独伊の枢軸国第2次世界大戦で壊滅した。このアナロジーを適用すれば、もし中国共産党が「台湾侵攻」を断行すれば、ソ連の二の舞になる可能性があることを示唆している。台湾のような島を制圧するには、ミサイル攻撃や空爆だけでは不充分だ。地上軍を送り込む必要があるが、すんなりと占領できるとは考えにくい。上陸作戦は、激しい抵抗に遭遇するであろう。

 たとえ「台湾侵攻」が実行されなくても、開始からすでに半年を経過している香港の民主化デモの行方も不透明であり、香港情勢とウイグル情勢をめぐって米中衝突が現実のものとなりつつある。2022年冬期オリンピックは北京で開催される予定だが、ボイコットされる可能性もあるのではないか。

 1979年アフガン侵攻は、短期介入を想定して開始されたものだ。日本の対米戦争も短期決戦の条件で開始されている。安易な結論を出すことは禁物だが、過去の歴史をアナロジーとして現在にあてはめると見えてくるものがある。もしかすると、今年2019年は、中国崩壊のキッカケになった年として回顧されることになるかもしれない。「アフガン侵攻」の時点で12年後にソ連が崩壊するなどとは、ほとんど誰も予想すらしていなかったのだ。

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タリバンに攻撃されたバグラム米軍空軍基地を警備するアフガニスタンの治安部隊(2019年12月11日、写真:AP/アフロ)