ロバート・マクレガー・イネス・アイルランド(1961年アメリカGP)
スコットランドをルーツに持つ英国ヨークシャー生まれのイネス・アイルランド。パーティ騒ぎが大好きだったような彼は、1954年に相続で引き受けた古いベントレーでレースを始める。
イネス・アイルランドはチーム・ロータスでは初めてとなるF1優勝を、ワトキンズ・グレン・サーキットで開かれたアメリカ・グランプリで挙げている。ロータスをドライブしてから3年目の、1961年だった。
ワールド・チャンピオンには絡んでいなかったレースでの優勝だったこともあり、彼は表彰台に立つもロータスでの地位を固めることができなかった。チーム・ロータスを率いていたコーリン・チャップマンは、翌年イネス・アイルランドを放出してしまう。
ひどいことにイネス・アイルランドがロータス解雇を知るのは、ロンドン・モーターショーで偶然に部外者から聞いた話がきっかけだった。コーリン・チャップマンは翌年力を注ぐべきはジム・クラークだと判断。もとチームメイトとの関係にも深い亀裂が残り、最後まで修復されることはなかった。
ジム・クラークは1968年にレース中の事故で死亡するが、イネス・アイルランドはジムとの関係を最後まで修復できなかったことを深く悔やんだという。
マニアな小ネタ
イネス・アイルランドはF1を引退後、1984年にはデイトナ24時間レースでポルシェ924カレラGTRをドライブしている。
ピーター・ゲシン(1971年イタリアGP)
英国生まれのレースドライバー、ピーター・ゲシンが1971年のイタリア・グランプリで挙げた勝利は、まぐれと呼ばれても仕方ないかもしれない。長いF1の歴史を見ても、レースで1周もリードすることなく優勝を挙げた唯一のドライバーなのだ。
ゴール間際まで5台のマシンで優勝争いが繰り広げられ、BRMをドライブしていたゲシンは、ロニー・ピーターソンを0.01秒という僅差で下し、優勝した。優勝したゲシンのBMRから5位のマシンまでのタイム差はわずか0.61秒という混戦だった。
2004年のインタビューでも答えているが、ゲシンはレースが終わって結果を聞かされるまで、優勝の確信は持てていなかったという。「イタリア・グランプリはとても興奮しましたね。ゴールラインを超えた時、若干わたしの方が早かったように思えたので、思わず腕を上げたんです」
その後、ブランズ・ハッチで開かれたノンタイトルのF1レース「ビクトリーレース世界選手権」でも勝利を上げるものの、チームメイトのジョー・シフェールがクラッシュで亡くなったため、大きな話題には上がらなかった。
ゲシンでのF1でのキャリアは1972年で終了。1974年までF1にスポット参戦をしながら、F-5000で活躍を続けた。
マニアな小ネタ
1973年のブランズ・ハッチで、シェブロンのF-5000マシンを駆るゲシンは、混走したF1マシンを破り優勝している。
フランソワ・セベール(1971年アメリカGP)
フランス生まれのフランソワ・セベールは、レースドライバーに求められるすべてを備えていた。ハンサムなルックスにカリスマ性。間違いのないドライビング・センス。
ジュニアフォーミュラでも輝かしい戦績を残し、フランスF3では彼の名を冠した賞が設けられるほど。カンナムでも優勝し、1972年のル・マンでは、ハウデン・ガンレイと並んで2位入賞を果たしている。
セベールとしては最初で最後のF1での優勝となるのは、1971年のアメリカ・グランプリ。2年後、ティレルのマシンで6度の2位入賞を果たすが、ジャッキー・スチュワートの引退に続くかたちで、彼のF1でのキャリアにも幕を閉じてしまう。
1973年シーズンの最終レースとなるアメリカ・グランプリの予選。彼はジャッキー・スチュワートに続いて、ティレルのエースドライバーになる準備も整っていた。だが1973年10月、事実はまったく異なる結果を招く。
ワトキンズ・グレン・サーキットでの予選走行中、最後の1周でセベールはクラッシュ。マシンが切断されるほどの大事故で、生き残ることすら難しい状態だったという。わずか29歳での出来事だった。
マニアな小ネタ
フランソワ・セベールの義理の兄弟は、レースドライバーのジャン・ピエール・ベルトワーズだ。
グンナー・ニルソン(1977年ベルギーGP)
スウェーデン人のグンナー・ニルソンは、ヨーロッパやアメリカで開かれていたレース、
フォーミュラ・スーパー・ヴィーでキャリアをスタート。F-3に移ってからは多くの勝利を上げた。1975年にはF-3英国チャンピオンシップを獲得している。
その翌年、ニルソンはマリオ・アンドレッティとともにチーム・ロータスのドライバーに選ばれる。1977年、規定的には際どかったグランドエフェクト技術を搭載したロータス78をドライブ。
シーズン前半の成績は振るわなかったものの、ゾルダー・サーキットで開かれたベルギー・グランプリではフェラーリをドライブするニキ・ラウダを交わし、見事な初優勝を挙げた。レース中、緩んだタイヤを締め直すために想定外のピットストップをしたのにも関わらず、優勝を掴んだことも大きい。
その後、フランス・グランプリとイギリス・グランプリでポイントを獲得するものの、以降の成績はまったくの不振。F1でのキャリアが終わりを迎えようとしていることは明らかだった。
1978年、友人のロニー・ピーターソンはイタリア、モンツァ・サーキットでの事故で他界。その5週間後の10月に、ニルソンもがんを患いこの世を去った。
マニアな小ネタ
ニルソンはモータースポーツを始める以前、スウェーデン海軍の潜水艦で無線技師を務めていた経歴がある。
ジャン・アレジ(1995年カナダGP)
1990年のアメリカ・グランプリが9回目のスタートとなったジャン・アレジ。世界中のレースファンを揺るがす熱い戦いの主役となった。ティレル019をドライブしレースをリードしていたが、マクラーレンをドライブするアイルトン・セナに追いつかれ、熾烈なバトルを繰り広げた。
1度セナに抜かれるも、再び抜き返す素晴らしいパフォーマンスを披露。残念ながら最終的にはセナへ優勝を譲ることとなった。数カ月後に開かれたモナコ・グランプリでは、チームオーダーを無視し、セナに次ぐ2位へ入賞。ワールドチャンピオンの座も近いと目されていた。
しかしフランス生まれのアレジが、最終的にワールドチャンピオンを現実のものにすることはなかった。フェラーリやベネトン、ザウバー、プロスト、ジョーダンとチームを移りながら数多くの入賞を果たすも、表彰台の頂点に立つことができたのは1度きり。
ジャン・アレジは1995年のカナダ・グランプリで、F1での唯一の優勝を挙げる。彼の誕生日でもあった日の勝利は、通算で201回のスタートを切ったF1キャリアの中で、貴重な1勝となったのだ。
マニアな小ネタ
アレジは2012年のインディ500で、ダラーラのマシンに乗り予選最下位を獲得する。しかし、ロータス製のエンジンは余りに非力だったため、安全上の理由からマシンはレース途中でストップを命じられてしまった。
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