古代、七世紀末まで、関西には奇妙な風景が広がっていた。左が大阪、右が奈良。大阪は大きさをやや縮小しているが、驚くほどの相似形であり、当時の人々も、このことを強く意識して、対になる地名や施設を作った。

いや、奈良に海は無いだろ。そう言うだろうが、じつは巨大な湖があったのだ。数百万年前まで、むしろ今の琵琶湖は無く、したがって淀川も無かった。一方、南の葛城山系から生駒山系、さらには北の比叡山系までつながって大きく堰き止めており、このため、近畿内陸の水はすべて奈良盆地に流れ込んでいた。この状況が変わるのは、生駒山系と北の比叡山系の間に琵琶湖からの淀川ができ、これに奈良以東の滞水が木津川として北に抜けたこと。また、生駒山系と南の葛城山系の間に、浸食でわずかに大和川ができ、西へも滞水が排出された。それでも、奈良盆地には、大きな湖ないし沼地が残っていた。これを古大和湖と言う。


大阪の方も、いまでこそ大和川大阪市と堺市を分断しているが、あれは、忠臣蔵の吉良邸討ち入りのあった1703年になって、大規模改修工事で付け替えられたもの。それ以前は、上流の奈良の初瀬川と同様、西北へ流れており、大阪城の北で淀川に合流していた。それも、もとより奈良からの土石流で、周辺より水面の方が高い天井川となっており、堤防でかろうじて支えているようなもの。さらにそれ以前は、海水も入り込むような古河内湖だった。

この地域、奈良は「磯城」、大阪は「志紀」だが、読みはどちらも「シキ」だ。北の神社も、奈良は「石上(いそのかみ)」、大阪は「石切(いしきり)」。南の神山は、奈良は「三輪山(みわやま、美和山)」だが、大阪は「信貴山(しぎさん)」。あちこちに「シキ」を含む地名社名を見つけることができる。『書記』によれば、神武東征以前からこの両低地域の原住民は、両域を隔てる南の山の「葛城(かずらき)族」と対になる「磯城(しき、師木)族」だった。

磯城族は、後に天皇に帰順して「物部氏」となり、かつての名のとおり、河原の中州に石で堅牢な城を築いた。その代表が奈良の「磯城瑞籬宮(しき・みずかきのみや)」と「磯城嶋金刺宮(しきしま・かなさしのみや)」。第10代崇神天皇だか、第29代欽明天皇だかの時代に作られたというが、こんな土石流が噴き出すような川の出口に絶対安全な宮城を作る技術があったことは驚くべきことだ。以前、「崇神天皇の住吉大運河計画」(https://www.insightnow.jp/article/9465)や「古墳は土石流対策の灌漑施設?」(https://www.insightnow.jp/article/9474)にも記したが、大阪の住吉大運河や伝第15代応神天皇陵も、彼らのロストテクノロジー無しにはありえないものだった。

「しきしま(敷島)」は、「大和」と並ぶ日本の異名でもある。それはつまり、日本列島が河原の中州に浮かぶ城のようなものだ、ということだろう。しかし、それ以上に、彼らこそが、日本の本来の所有者であったのかもしれない。彼らは、もとより、アマテラスの孫のニニギ(瓊瓊杵)、その曽孫の神武天皇の系統ではない。彼らの祖とされるのは、ニギハヤヒ(邇芸速日、饒速日)で、神武より先にアマテラスから直接に十種神宝を授かり、天磐船(あまのいわふね)で哮ヶ峯(たけるがみね、交野市の磐船神社)に降り立ったという。

オオクニヌシオオナムチ)の国造りを支えたスクナビコナ(少名毘古那、小さい人?)も、天乃羅摩船(あまのかがみの船)でやってきたという。また、 葛城族や後の蘇我氏は、景行から仁徳まで五代に仕えたという武内宿禰(たけちのすくね)を祖としている。「すくね」というのは、後の「八色の姓」だと、真人、朝臣に次ぐ身分。いや、大将に次ぐ少将のことだ、と諸説ある。だが、国造りの支援者という事歴では、スクナビコナと被る。武内というも、『竹取物語』に出てくるロケットのような乗り物のことかもしれない。

神話系統によって名にズレがあるが、ニギハヤヒ(=スクナビコナ、武内宿禰)とこれに従う磯城族は、竹内街道で大阪・奈良の両シキをつなぎ、運河や古墳で治水感慨に努めた。それが、神武東征以前か、以後か、定かではない。いずれにせよ、彼らの神は、天皇でも、アマテラスでもない。オオモノヌシ。出雲のオオクニヌシオオナムチ)との異同関係はさておく。いずれにせよ、三輪山などの山頂の岩に宿る神だ。

天皇が大嘗祭を深夜に行うことに、誰も疑問を持たないのだろうか。相手が太陽神アマテラスであれば、昼間にきまっている。また、後で再度、報告に行くなどというのも、奇妙な話。神武東征の当初、磯城族は、その来訪を拒んだ。ところが、その後、オオモノヌシの祭祀を一任することで、天皇を受け入れ、自分たちは帰順して、その部の民となっている。「物部」というと、諸物製造調達の担当のように聞こえるが、あくまで、オオモノヌシの信者集団、という意味だろう。だが、おそらく、それまでに相当に手を焼いていたのではないか。天皇が代わってそれを引き受けてくれるというのなら、ぜひどうぞ、というところだろうか。

オオモノヌシとは何か。『書記』では、オオクニヌシの和魂(にぎたま)ということになっている。が、『古事記』などの伝承によると、深夜、夢の中にまで入り込んでくる蛇男で、不満があると天変地異や疫病災害をもたらす、なかなかに厄介な祟り神のようにも思える。八百万の本体のような暗い森の山の上の石。それは黙って下界を見下ろしている。アマテラスの子孫という威厳をもってでさえ、それを押さえ込むのは難しそうだ。

大阪と奈良。磯城族は、双子で町を作った。その間にある二上山も、信貴山も、双子の山頂を持つ。その後、彼らは物部氏として天皇に帰順したものの、渡来人による仏教文化と大陸技術の隆盛に敗退し、影を潜める。しかし、奈良平城京の大極殿もツインなら、アマテラスを祭るという伊勢神宮もツイン。この奇妙なバックアップ主義は何なのだろう。いや、それこそが、容易には手に負えないオオモノヌシの教えだったのかもしれない。


※ 作図に関しては、埼玉大学谷謙二准教授が開発した「今昔マップ」および「Web等高線メーカー」を活用させていただいた。あらためてお礼申し上げる。

日本の本当の主神:オオモノヌシと物部氏