ネット上などで、小学校算数、掛け算の「指導」が混乱しており、大問題になっているのは、ご存じの方も少なくないと思います。

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 以下のようなケースで、あちこちに「炎上」を目にすることができるでしょう。いま仮に

「一袋に3個ミカンの入った袋を4つ買いました。みかんは合計何個ありますか?」といった出題があったとして

3×4=12  答え 12個

 が〇である、というのです。それはまあいいかもしれない。問題は、

4×3=12  答え 12個

 だと×になる、というんですね。教師はバツをつける、親に聞いても釈然とした答えが得られない・・・という、まことに困った話です。

 さて、私自身を含め、普通に数理科学を学んだ人間、大学教員などからは「乗算(掛け算「×」のこと)には「交換法則」が成り立ち、a×bもb×a も結果は同じ」と普通は反応することになります。

 もっと具体的に書くなら「低学年で<九九>を教えているはずなので、a×bとb×aが同じ答えになるのを子供たちは知っている。なぜ誤った指導を強制するのか、とんでもない!」という批判を加えるのが標準的です。

 実際、私自身も旧来、そのようにコメントしてきました。ところが、ネット上で「現役小学校教員」の方の意見として

「a×bとb×aは違うと指導しないと、a÷bとb÷aを混乱する子供が出来上がり、後々伸びなくなる。だからa×bだと問題で言われたら、a×bを墨守遵守し、b×aと書いた子供には×をつけてやるのが<正しい>教育法だ」という意味の書き込みを目にしたのです。

 何たることか、と天を仰ぐ思いを持ちました。

 ということで、これについて考えてみたいと思います。冬休みですので、ぜひ親子の会話として食卓やこたつで話題にしていただければと思っています。

 結論を先にいうと、これは「教育」ではなく、一種の「動物の調教」の水準に近く、教員として「算術」を「訓練」することはできても、知性をもった対象に教える「数理」としては成立していません。

 こんな教育を真に受けてしまうと、子供がアホになってしまうことを率直に心配せざるを得ません。

4÷3 は 3÷4 か?

 この先生の主張は、つまり以下のようなことだと思います。

 子供に「1袋に3個ミカンの入った袋を4つ買いました。みかんは合計何個ありますか?」という問題を出したら、モノも考えず、出題された言葉の順の通り

3×4=12

 と書いて、それ以上思考しないロボットか犬のような教え方が安全である。というのは、そののち割り算を習って

「1つ3キログラムかぼちゃを4人で等分しました。1人の分け前は何キロですか?」という問題が出たら

3÷4=0.75 (あるいは3/4) 答え 0.75(3/4)キログラム

 と「正解」できる子供(あるいはプログラム、犬、猿など)を安全に育成できるとういう主張にほぼ等しいことになるでしょう。

 これは、率直に言って、ダメです。というのも、同じ問題を

「4人で1つ3キログラムかぼちゃをを等分しました。1人の分け前は何キロ?」という日本語で出題したとき、問題に出てくる数字の順番で計算しなさい、というプログラム、あるいは犬や猿の芸を仕込まれていれば

4÷3=1.333・・・(あるいは4/3、1と1/3など) 答え 1と1/3キロ

 などと平気で誤答する子供を作りかねないからです。

 要するに、問題の意味をきちんと汲んで、それに合致した正解を「記述式」で答えているなら、採点する教師の方も最低限「人間」のレベルで、まともに答案を検討して〇×をつけるのが当たり前であるからにほかなりません。

 それを端折る、救いようのないマスプロ教育、あるいは、個別の現象に対して正しい数理を教師側が指導できない、教えるサイドの力量不足、ないし教習能力の欠如が、本質的な原因であると指摘せざるを得ません。

「比の値」と割り算符号

 この現象を見たとき、私自身の小学校時代の記憶が蘇ってきました。「比の値」という、あまり本質を感じさせない量に関して、×をつけられ、大変不愉快だったことを思い出したのです。

 いま a:b という「比」があったとき a/b を この比の「値」だというのです。a:b が式として明記されず

「学校で身体検査がありました。身長を図ってみると太郎さんの身長は120センチメートル、妹の花子さんは100センチメートルでした」

1 2人の身長を比例式で表しなさい。
2 比の値はいくつになりますか?

 みたいな出題があったわけです。小学生の私が思ったのは

<2人の身長の比を表すっていうんだから 120:100=6:5でも 100:120=5:6でも どちらでもいいことになるじゃないか。わけが分からない>

 という不満で、実際 5:6 と書いて 比の値 5/6 などとして×を食らったのを、極めて不愉快に感じたというような記憶です(上の問題その他はいま説明のために構成したものです)。

 小学生の私を指導していた先生たちは、およそまともな数理を教えてはくれませんでした。他方、早くに死んだ父親や、教師の母を含む身の回りの大人たちは、より合理的なものの考え方を日常生活の判断として教えていました。

 ここから、学校の指導要領というものを本質的に信用しない子供の「出来上がり」となり、これは中学以降の私の学習生活に、極めて大きなプラスの影響を遺しましたので、反面教師としては意味があったかもしれません。

 a:bという比例式があったとき、この「比の値」を a/b とする、というのは、実は演算記号の歴史を紐解くと、きれいに理解できるようになります。

 しかし、私がそういったことを初めて知ったのは、東京大学ハーバード大学暗号通貨ブロックチェーンに関する共同研究の一環として、簿記会計の歴史、もっというと複式簿記の発生と、これに並行する方程式の発明と、四則演算記号の開発史を知った、50代以降のこと、つまりごく近年にほかなりません。

 皆さん、改めて「÷」という符号をよく見ていただけますでしょうか?

 実は、この「÷」記号は、比を表す「:」と、分数を表す「/」とを合わせたものとして、合成されたものなのですね。

 最初は a:b として割り算を表記していた。だから a:b = a/b といった表現が取られていた。

 ところが比例関係そのものを表す必要が生じてくると、これでは混乱してしまうのです。つまり

120:100 = 12:10 = 6:5・・・

 というように「比例関係」そのものを示したいと考える(税率や利息計算など、初期の複式帳簿からこの種の演算は必ず求められましたので)と 「aたいb」と「aわるb」を区別できる記号があった方がよい、ということになった。

 そこで17世紀に入ってから工夫されたのが、比の「:」符号に「これは割り算の方ですよ」と注意書きする

「÷」

 という記号だったのですね。で、特に税率などを表すうえで便利な「百分率」の比については

「%」

 という、双子の兄弟のような記号が発明された。

「17世紀」は日本で考えると徳川幕府初期にあたり、英国ではニュートンが生まれ育った時代にほかなりません。

 これに先立つシェークスピアの時代には、いまだ加減乗除の記号は発明されておらず、シェークスピアの戯曲「ヴェニスの商人」で、高利貸し「シャイロック」は公証人を呼びますが、きちんとした貸借原簿はつけていません。

 簿記会計の技術が、未発達だったからにほかなりません。

「比の値」一つをとっても、例えばこんなふうな前史から教えて、分母子の混乱を避けることはいくらでも可能と思います。

 しかし「義務教育」というシバリがあると、また、限られた時間で「マル」がつく答案を書く子供を形だけ量産したいと短絡したりすると、

 3×4は「マル」でも4×3は「バツ」という、拙劣極まりない「教育法」がまかり通ったりする。末期的と思います。

 さらに、私が、子供たちが先に伸びていくことを念頭にこの種のことを教えるとしたら、全く違う方法をとると思います。それは 

4÷3 と 3÷4

 は「本質的に同じ」という教え方です。仮にこのようにツイッターなどに書くと、鬼の首を取ったように

「算数の初歩も理解していない」などと言ってくる人が、結構な割合で登場するように思います。

 私は自分のSNSアカウントに、大学での職位などを記していませんので、善くも悪しくもいろいろな人のいろいろな意見を直接もらうことができ、こういうコラムを書くにはなかなか便利なのですが、

「5÷4 と 4÷5 は 本質的に同じ」などと書くと、「この人は1.25と0.8の区別もつかないレベル」などと一人で「祭り」を始めてしまいます。

「あの、その背景にはフーリエ解析という考え方があって、量子力学では・・・」とかまともなことを書き添えても「フーテンだか漁師だか知らないけど、バカが何か書いてる」式の反応しか来なかったりするんですね。

 実際に経験して、言葉が通じないことの不幸を痛感しました。

 そうした展開、つまり「5÷4 と 4÷5 は いかにして本質的には<同じ>なのかといった話題については、続稿に記したいと思います。

(つづく)

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