『交隣提醒』(平凡社) 著者:雨森 芳洲


江戸期日朝外交の知恵に学ぶ

天動説の外交はいけない。地動説の外交でなくてはならぬ。なぜなら、外交には相手があり、世界全体の動きがかかわる。国内では満場一致で支持される論理でも、外では全く通用しない場合がある。国際政治の力学をわきまえて、地動説の外交をやるならよいのだが、日本のような島国や韓国のような半島国は、天動説の外交をやってしまいがちである。そもそも、島国や半島国は、人口・資源の規模が小さく、天動説外交をやろうにも、現代では国際政治の力学的中心にはなりにくい。にもかかわらず、孤立地形のせいか、国内の論理や事情で外交を押し進める危うさをもつ。歴史家の目から見れば、日韓とも、これで失敗している感が否めない。相手への理解のとぼしさから、誤解をまねき、ボタンを掛け違え、ついには争いと怨念の蓄積にいたる歴史を繰り返している。

しかし、日本史は深い。天動説に傾きがちな人々ばかりであったわけではない。江戸時代に希有な人物がいた。対馬藩で日朝外交にあたった雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)(1668~1755年)である。彼は中国語朝鮮語もできた。外交の最前線にあって日本と朝鮮をみつめ、外交の稚拙化に注意を喚起し、不朽の名著を書き上げた。本書『交隣提醒(こうりんていせい)』がそれであり、過去に活字化されたことはあったが、今回、近世日朝交流史の第一人者・田代和生(かずい)氏により緻密な校訂がなされ、東洋文庫の一冊として刊行された。

芳洲は日朝は「誠信」の交わりを、と説いた。「誠信と申し候は実意と申す事にて、互に欺かず争わず、真実を以(もつ)て交わり候を誠信とは申し候」というように、「誠信」とは日朝間の実態をまず知ることであった。芳洲の時代、日本は文禄・慶長の役から一世紀を経て「乱後の余威」を失い、日朝の力関係に変化が生じてきていた。ゆえに、相手の事情を知らぬ強硬外交はもはや不可。外交記録を目的意識をもって蓄積し、朝鮮担当官を組織化し、有為な外交の人材を養成せねば、日朝外交は危うくなっていた。芳洲は外交には記録と史実の蓄積が重要と考えていた。

芳洲が体験した日朝外交の現場は生々しい。例えば、朝鮮通信使が、京都の方広寺大仏殿での恒例の祝宴を土壇場で拒否する。大仏殿は朝鮮の旧敵・豊臣秀吉の願堂で傍らには朝鮮人の耳鼻を切って納めた耳塚がある。第二回通信使は日本側からここに連れていかれたが、第五回通信使の時は朝鮮側から希望して大仏を見学し、以後、ここでの祝宴が定例化したので、日本側の強要ばかりでもなかったが、場所柄が微妙であった。芳洲は「耳塚を見せて日本の武威を示そうという事と聞くが、何ともあきれた考えである」「耳塚は豊臣家が無名の師(いくさ)を起し、両国無数の人民を殺害した事で(造られたもので)…(武威の)輝きを示すものではない」と考えた。芳洲は新井白石に相談してあらかじめ耳塚に目隠しの囲いをしていた。さらに突然宴席を拒否した朝鮮側に、京都所司代から書物をかりてきて現在の大仏殿は秀吉創建時の建物ではない、と説得した。結果、朝鮮側の従事官は大仏殿での宴席に欠席したものの、正使・副使は出席となって、その場はおさまった。芳洲は今後、通信使を大仏殿に立ち寄らせるのは無益だとして中止の考えを示している。

主観的な国内論理でなく、客観的な国際常識にのっとって是非を見極め、事実を丁寧に示して、両国の着地点を探っていく。今のような時だからこそ、先人のその血のにじむような努力のあとに、われわれは学ばねばならぬと思う。

【書き手】
磯田 道史
歴史学者。1970(昭和45)年岡山市生れ。国際日本文化研究センター准教授。2002年慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職。著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。

【初出メディア
毎日新聞 2014年10月12日

【書誌情報】

交隣提醒

著者:雨森 芳洲
出版社:平凡社
装丁:単行本(426ページ
発売日:2014-08-20
ISBN-10:4582808522
ISBN-13:978-4582808520
交隣提醒 / 雨森 芳洲
江戸期日朝外交の知恵に学ぶ。日本と朝鮮をみつめ、外交の稚拙化に注意を喚起した不朽の名著