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アーティストがお気に入りの楽器を紹介するこの連載。第19回では高木ブーを迎え、彼が歩んできた人生を振り返ると共に、ハワイアンミュージックウクレレとの出会い、ザ・ドリフターズコントでおなじみの雷様が生まれた背景、現在愛用するウクレレにまつわる知られざるエピソードを語ってもらった。

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出会いはさかのぼること約70年前

僕はもともと東京生まれなんですけど、12歳だったとき、昭和20年1945年3月10日東京大空襲で家が焼けちゃったんですよ。それでおふくろの実家を頼って千葉県の柏という土地に引っ越したんです。柏は今と違ってド田舎でなんにもない町でした。そんな中、僕が中学3年生で15歳誕生日に、すぐ上の兄貴がウクレレを買ってくれたんです。あとになって聞いたんだけど、兄貴もハワイアンが大好きだったんですね。灰田勝彦さんの追っかけみたいなことをやってたそうなんです。それが僕がウクレレをやるようになったきっかけでした。

柏でハワイアンをやるなんて当時は珍しかったんですけど、そこに1人、「8月の夏祭りハワイアンをやろう」と言い出した変な男がいましてね。僕は3月の誕生日ウクレレをもらったばっかりだったけど、その夏祭りステージに出ることになったんです。その人はスチールギターを弾いていて、「なんでもいいから楽器を持って集まれ」って呼びかけていて。柏でハワイアン好きな連中が6人集まったのかな。本番ではハワイアンの曲を日本語にしてやってましたけど、僕は何もわからずにやった覚えがあります。コードもまったくわからないんで、1つのコードだけずっと押さえてました(笑)

その人の誘いがなかったら、僕はウクレレをやってなかったでしょうね。兄貴が買ってくれたっていっても、教えてくれたわけでもない。覚えようもなければ、習いようもないし、どうしていいかわからなくてほったらかしてたんだから。まあ、運がよかったですね。それからあとは、不思議なもんですよね。教則本もないし、ウクレレ教室とかもないけど、弾き方を覚えていきました。レコードで覚えたのかなあ。高校と大学はウクレレサークルに入ってね。本当に手探りでしたけど、そういうときのほうが勉強するものですよ(笑)

僕が大学生の頃はハワイアンが大ブームで、バンドの大学対抗戦をやっていました。戦争中は外国の音楽を禁止されていたのにハワイアンだけはかろうじて残っていたみたいで、“南国バンド”と言ってたそうです。だから戦争が終わってアメリカの音楽をやろうとなったときに、すぐに名乗りを上げられたのがハワイアンをやってる人たちだったんですよ。ウクレレも安かったですから。僕は大学を出てから本当は就職するはずだったんです。親父のコネで。でも当時「俺、嫌だ」って言って、プロのバンドマンになりました。あの頃のバンドマンって銀座のスナックとかでも演奏の仕事はあったから食うには困らなくて、優遇された存在だったんです。ハワイアンのバンドに誘われて、しばらくはそのバンドをずっとやってましたね。プロになってからはウクレレじゃなく、ギターを弾いてました。

ドリフターズ加入前、主戦場は米軍キャンプからジャズ喫茶へ

プロになった頃、演奏仕事の場所は主に米軍キャンプでした。キャンプには将校クラブと下士官クラブと兵隊クラブと、階級別に3種類あるんです。将校クラブジャズ、下士官にはハワイアンっぽい演奏がウケていて、兵隊さんはカントリーが好き。兵隊さんはみんな田舎者だからね。その3つに対応して、日本人バンドスタイルを合わせていくんです。僕らも最初はハワイアンでやってたんだけど、ハワイアンだけだとだんだん仕事が少なくなっちゃうんで、ジャズもやるようになっていってね。立川から飛行機に乗って沖縄に行って、そこから台湾に行って演奏して、さらにフィリピンに行って。その土地の米軍キャンプを回るだけでも2、3カ月かかっちゃう。そういう時代でした。

米軍キャンプを回ってるうちに、学生の頃とは世の中が変わってきたんです。ハワイアンだけじゃやっていけなくなって、アメリカ本土のいろんな歌もやるようになっていきました。長さん(いかりや長介)は静岡の生まれで、高校時代はハワイアンやってたんですって。で、東京に出てきたときカントリーバンドに入って、ベースを始めた。その頃の世の中はカントリーバンドのほうが勢いあったんです。カントリーブームチャックワゴンボーイズ(日本最初期のウエスタバンド)とか、小坂一也さんとかが人気になって、それから(エルヴィス・)プレスリーが出てきて、ポール・アンカの「Diana」みたいな曲が流行って、ドゥーワップのザ・キング・トーンズも出てきました。僕はハワイアンやって、ジャズやって、そのあとは「遠くへ行きたい」をヒットさせてたジェリー藤尾のバンドにいたんです。ジェリーと一緒にアシベ(銀座ACB)とかテネシーとか、ジャズ喫茶をいろいろ回りました。

その頃、有楽町にあった日劇で「ウエスタンカーニバル」というイベントをやってました。山下敬二郎、平尾昌晃ミッキー・カーチスが“ロカビリー三人男”とか言われていてね。僕が入る前のドリフターズも「ウエスタンカーニバル」には、下のほうにちょっとくっ付いて出てたと聞いてました。しばらくしたら、今度はThe Venturesが出てきて、猫も杓子も寺内タケシみたいなエレキインストバンドばっかりになっちゃって。僕もジェリーバンドから抜けて、The Shadowsっていうイギリスインストバンドコピーをやることにしたんです。バンド名はそのままいただいて、“シャドウズ”で。シャドウズはギターが3人いて、仲本(工事)もその1人でした。それをやってるときに長さんが僕のところに来たんですよ。「(ドリフターズに)入りませんか」ってね。

ドリフはそのときメンバーが抜けて、長さんと加藤(茶)だけになってたんです。でもドリフレギュラーで出演してた「ホイホイミュージック」(「味の素ホイホイミュージックスクール1962~65年放送、日本テレビ)という番組での伴奏の仕事が続いてたんで、解散するわけにはいかなかった。それで僕のとこに来たんです。それ以前にジャズ喫茶でドリフターズジェリーバンドで一緒になったこともあったんですよ。そのときに長さんは僕のこと見てたんですね。それから少しあとに僕が紹介して仲本もドリフに入ったんです。僕が入ったのが昭和39年の9月で、仲本が40年。The Beatlesの前座で日本武道館に出たのが41年。あのときやった「Long Tall Sally」(邦題「のっぽサリー」。原曲は1956年リトルリチャードが発表)は仲本の趣味でしたね。

■“雷様”の発案者は長さん

ドリフターズロックバンドでしたよ。長さんはカントリー出身だったけど、時代としてはロックが流行ってましたから。(ドリフの中で)ロックは仲本の担当でした。僕はどっちかって言うとラテンとかイタリアのカンツォーネとか、テンポが速くない曲をやってました。ドリフは僕が入る前のジャズ喫茶の頃からコントもやってましたけど、初め僕には何もやらせてくんなかったですね(笑)。でもテレビに出るときも少しコントをやってたから、僕もやらないわけにはいかなくなった。「全員集合」(「8時だョ! 全員集合1969~85年、TBS)は公開生放送で16年やってたんです。僕なんか最初はステージの素人でしたけど、16年間やってたら最後にはお客さんの顔も見られるようになったし、ずいぶん図々しくなりましたね(笑)

ドリフ大爆笑」(1977~88年、フジテレビ)は「全員集合」と違ってセット撮影で、録画ですからね、失敗しても撮り直しができるんですよ。「全員集合」は生ですから撮り直しできないし、何回もチョンボしました(笑)。「雷様」(「長介・工事・ブーのおなじみ雷様」「ご存じ雷様」と銘打たれた名物コント)を始めたのはね、加藤と志村(けん)が始めた「カトケン」(「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」1986~92年、TBS)って番組の影響なんです。長さんが「向こうは2人でやってるんだから、こっちもなんかやんなきゃダメだよな」って話になってできたのがあの雷様。ほかには「トリオ・ザ・ジーサンズ」とか「バカ兄弟」というコーナーもありました(笑)。雷様のコントに台本があったかって? ありましたよ。でもあれはね、「本当にあったこと」のほうが多かったですね(笑)

雷様でギターウクレレを持ち出したのも長さんの提案なんですよ。あの頃のドリフは、もう音楽をやっていたことを忘れてたんです。そんな折、長さんが「俺たち、楽器を忘れてんじゃねえか?」と言い出したんです。それで仲本がギター、僕がウクレレで、歌のゲストを呼んだりしてました。ただドリフが楽器をまったく忘れてたわけじゃないんですよ。若い頃に長いことやってたわけですから。

またウクレレを弾くようになったのは、自分でハワイアンのお店(東京・麻布十番にあった「Boo's Bar HALONA」。2001年オープン)を出した頃からでした。昔、ドリフターズは「メンバー別々で個人の活動はしない」という方針だったんです。だけど「全員集合」が終わってから、「これまでドリフのために尽くしてきたから、これからはみんな好きなことをやっていい」ということになりましてね。長さんがドラマをやるようになったり、志村が「バカ殿」(「志村けんバカ殿様」1986年~、フジテレビ)をやったりね。仲本も渋谷に店を出したし、それで僕もハワイアンの店を始めたんです。自分のお店は2006年に閉めましたけど、楽しかったですね。

■進駐軍の兵隊からもらったウクレレが忘れられなくて

ウクレレは今も弾いてますし、年に1回、ハワイでやってる「ウクレレ・ピクニック・イン・ハワイ」にも参加してます。ギターは鉄の弦だから、最近は指が痛くて弾いてないですけど、ウクレレは弦が柔らかいからいいですよね。今日持ってきたこのウクレレは、KAMAKAというハワイの名門メーカー製なんですけど、そんなに古いモデルじゃないんです。ただ、今どきこんなウクレレを作ったら、楽器屋さんは採算が合いません。なぜかと言うとこれね、1本の木からのくり抜きなんです。今は(ウクレレの木材に使われる)コアの木があんまりないし、ウクレレ自体もネックとボディをバラバラにして作って組み立てるのがほとんどなんですよ。

僕が銀座でハワイアンバンドをやってた若い頃、進駐軍の兵隊さんで日系2世の方がウクレレをくれたんですけど、それが1本の木からくり抜いたモデルだったんです。だけど僕、それをタクシーの中でなくしちゃったんだよね(笑)。なくしちゃったんだけどそれが忘れられなくて、ハワイに行ったときにKAMAKAで「あれと同じものできないかな」って話をしたの。そしたら「作りましょう!」と請け負ってくれて、安く作ってくれたんです。ボディに描いてあるパイナップルマークも今のモデルには付いてないんだけど、ギリギリ間に合って付けてくれました。いい音がするし、素晴らしいですよ。

そもそも、兄貴がウクレレを僕に買ってくれなかったら音楽の世界にも入ってなかっただろうし、バンドも作らなかっただろうし、ドリフにも入らなかっただろうし。きっと普通にサラリーマンやってたと思います。だから、ウクレレは僕の原点みたいなものですね。生意気な言い方ですけど、ウクレレと僕の人生は縁があったんじゃないかなと思います。

高木ブー(たかぎぶー)プロフィール

1933年3月8日生まれ、東京都出身。ザ・ドリフターズメンバー。「ドリフ大爆笑」では雷様コントで脚光を浴びた。日本におけるハワイアンブームの先駆けとして知られ、ウクレレ奏者としても活躍。2019年2月にアメリカハワイにあるBlue Note Hawaiiにて日本人アーティストとしては最高齢となる85歳でライブを行ったほか、「shima fes SETOUCHI 2019」「山人音楽祭2019」などのイベントに出演した。2020年2月16日にはハワイで行われる「ウクレレ・ピクニック・イン・ハワイ」に出演する。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 阪本勇

高木ブー