’18年9月にローカル放送され、テレビ業界に大きな衝撃をもたらしたドキュメンタリー番組『さよならテレビ』が、新たなシーンを追加して劇場版として公開中だ。

 製作は、戸塚ヨットスクール事件で稀代の悪役となった戸塚宏校長の今に密着した『平成ジレンマ』(’10年)、暴力団の暮らしを取材して“ヤクザの人権”という問題を浮き彫りにした『ヤクザと憲法』(’15年)など、物議を醸すドキュメンタリー番組を作り続けている東海テレビ。しかも今作のターゲットは“自分たち”、つまりテレビ局である。

 局員たちの業務を追うことで、番組制作の実態と裏側、テレビ局が抱える“都合の悪い真実”が浮かび上がる衝撃的な内容。同業者の間では録画DVDが“密造酒のように”出回ったという代物だ。冒頭では、社内でカメラを回すことに抵抗する局員による「やめろっつってんだろ!」という怒号まで収められている。実に険悪、不穏だ。局内に反発がありながらも、彼らはなぜ撮影を敢行したのか。

 これまでの東海テレビドキュメンタリーのほとんどでプロデューサーを務める、阿武野勝彦氏に話を聞いた。

◆始まりはたった5行の企画書から

「局内には、この内容をぜひ取材・放送したいと言うスタッフだけでなく、不快に思う者がいたのも事実です。でも、今までの題材で“取材する/しない”の議論を局内でしていたかと言ったら、してこなかった。今回はたまたま、取材する側の人間が取材対象者になっただけであって、議論の機会を特別に設ける必要はない。そこはいつもと同じでいい。作り手の思いを大事に、突っ切れるなら突っ切ろうということになりました」

 あまりに意外性のある“結末”には度肝を抜かれるが、阿武野氏によれば、企画段階では完成形を想定していなかったそうだ。

「普通のドキュメンタリー番組だったら、丹念に企画書を作って、シノプシスまで書いて、企画段階である程度着地を予想するんでしょうね。でも本作の基になった『テレビの今』という企画書はたった5行程度。『テレビの中を撮りますよ』『いいんじゃないの?』って感じでスタートしました。

 起こりうる問題を最初から想定していたら、こんなことできませんよ。そんなことより、『やりたいんすよ! テレビが一番アレなんすよ!』みたいな勢いではじまっている企画です。だから最初の狙いと完成形で何が違ったか? と聞かれても、そもそも最初に想定した形がないので、違いは“ゼロ”としか言いようがありません」

カメラは局員の“恥部を晒した”のか

 カメラは主に3人を追う。入社16年目の福島智之アナウンサーベテランの澤村慎太朗記者、新人の渡邊雅之記者だ。彼らの「恥ずかしい部分」までしっかり収められている。本人たちがよく放送を了承したものだ。たとえば渡邊記者は、上司にミスを激しく叱責されている場面がしっかり映っている。

「逆に、何かまずいことがあるのでしょうか? 彼らは撮られていることを了承していますし、テレビマンとしてプロですから、そこはわかっている。今回に限らずですが、そもそも取材対象にどの撮影素材をどう使うかを、前もって報告することはありません。渡邊君はアイドルオタの一面も撮られていますが、あれはTV版にはなく、映画版で使うことも、今もって知らないと思います」

 福島アナは、’11年8月に起きた「セシウムさんテロップ騒動以降、番組内で自分の“意見”を言うことに恐れをなしている姿が晒された。

「放送後、福島君は、『自分のこれからを考えるいい機会になった』と言ってくれました。番組内でコメント枠を短くしてほしいと言う彼にタイムキーパーが副調整室できついことを言いますが、福島君は彼女に『ああいうふうに僕のことを見てくれてたんですね、うれしかった』とお礼を言った。人がその映像をどういうふうに読み解くかは千差万別。本当にいろいろです。第三者が勝手に決めつけても、それは想像にすぎないんですね」

 澤村記者は、古いタイプジャーナリスト魂が、テレビの現場ではやや“浮いて”いる。熱い理想論が行動を伴っていないようにも見える。

「澤村記者は過去から現在に至るまで、ずっと『ジャーナリズムを実践したいけれども、実際は貫徹できていない』人なのだと思います。しかし、そこにこそ彼がドキュメンタリーに出る意義がある。彼の日常がどうあれ、彼の根っこには今のテレビに言いたいことがある。結果、カメラの前で『テレビの闇って、もっと深いんじゃないですか』という言葉が出てきた。その発言自体には彼なりの意味があるんです」

ドキュメンタリーで晒されるのは作り手のほう

 ニュース番組ですらスポンサーからの“お願い”で新商品紹介ネタを作らざるをえない現実、ジャーナリズムの本質を忘れ、ひたすら視聴率と独自ネタに執着せざるをえない番組作りの実態、視聴者高齢化に伴う年配キャスターへの交代劇――。

 作中で次々とあぶり出されるテレビの闇を目の当たりにすると、本作は「テレビオワコン」「マスゴミ」を自虐的に主張しているようにも思える。しかし、阿武野氏は本作を「我がテレビへの裸のラヴレター」と言って憚(はばか)らない。

「まず、いいですか。オワコン終わったコンテンツとか言いますけど、みんなが番組を“コンテンツ”って言い始めた段階で、私は何かが終わった気がしたんです。その言葉が出始めた頃、『番組は番組だ。商品扱いするな』とよく怒っていました。番組はコンテンツじゃない、作品なんです。

 そのうえで、なぜ本作がラヴレターなのか。だって、取材対象に本当のことを言うのが優しさでしょう? このままにしておくとテレビは死んでしまうのに、耳ざわりのよい嘘でいいわけがない。それはどんなドキュメンタリーも同じ。『この人はいい人です』なんておためごかしをやってきたことは一度もありません。取材対象のよろしくないところは、きちんと垣間見えるように表現する。今回の取材対象者は自分たち。厳しいけれども、自分に刃を向けながら腹を切り開いて今のテレビの姿を描く。そうして再生の道筋を模索しようと。それが、“ラヴレター”の意味ですよ」

 刃を向けるのは、取材対象ではなく自分、つまり作り手側ということか。確かに、ラストの衝撃的な“手の内明かし”は自刃にも等しい。「テレビ的現実を都合よく切り取っている」「頭の中の台本に従って僕らが割り当てられた」という澤村記者の言葉は、ナイフのように鋭い。

「本作の女性スタッフ制作途中このラストシーンを見て、『自分たちがこんなに悪者になる必要ないのに』って泣いたんですよ。作り手はこんなやり口で作ってるんですよ、ウヒャヒャヒャ……って悪魔の声を出してるように見えたんでしょう。ただ監督の圡方は、局の仲間を晒(さら)しておいて、自分だけその外で涼しい顔をしてるわけにはいかなかったんだと思います」

◆“意図的な編集”はどこまで許される?

 ラストの展開は、「ドキュメンタリーには編集によってどこまで“意図”を入れていいのか」という議論にもつながる。

「難しいですね。ただ経験上、ドキュメンタリーというのは、最後には自分を晒すものだと思います。画面に映っているのは取材対象だけど、そこには作り手の『私には、あなたがこう見えました』が映り込む。だから作り手は、取材対象から『お前には私が、そんなふうにしか見えなかったのか?』と簡単にはねつけられるような浅薄な表現をしてはいけない。むしろ『ああ、私ってこう見えてるんだ』と自分を再発見してもらえるくらい、取材には長い長い時間をかけるべきなんです」

 阿武野氏は慎重に言葉を選びながら続けた。

「撮影するのは取材対象の考え方だけではありません。彼らがまとっている空気みたいなものまで持ち帰ってきて、なおかつ、自分は映像を扱う人間として、こう見えました――と報告する。“そう見えた自分”こそがドキュメンタリー

 取材する側も裸になる。まさに「裸のラヴレター」だ。そこには、かつて数々のドキュメンタリー番組を監督してきた阿武野氏の矜持が窺える。

「だから、取材者と取材対象者と作品の関係を安易に考えている人間は、映像をいじるべきではないんです。そして、勝負をしない製作者も退場しなければなりません。例えば、この人のこの表情を使ったら、二度と来るなって言われるかもしれない。だけど、ドキュメンタリーには棘(とげ)があるものです。怒られるかもしれないから棘を見せるのはやめよう、となった瞬間に、表現は成立しなくなりますからね」

◆人の裸を見ているだけでいいの?

 『さよならテレビ』でテレビの内幕をさらけ出してしまった彼らは、この先どこに向かっていくのか。

「どこに向かってるんですかね(笑)。『さよならテレビ』の根本は、現代ってどういう時代? いま私たちの社会ってどういう地点にあるの? という問いを、自分たちなりに切り開いてお見せしたものです。その題材が、たまたまテレビだったということ。だけど、ドキュメンタリーの中にはテレビだけじゃなく、今の時代が映り込んでいる。働き方改革とか、メディアと個人の関係とか。

 それらを全部お見せして、このままでもいいんだったらいいですけど、このままじゃよくないんだったら、なんか変えていかないとね、と。それはテレビに対するメッセージであるのと同時に、同時代に生きる人たちすべてへのメッセージになりうるもの。『今のままでいんですかね?』という問いは、テレビだけに向けられるものじゃないと思っています」

 そんな大仰な挑戦を、いち当事者、いち地方局である東海テレビが仕掛けた。

「『さよならテレビ』の放送を見たいろんなテレビ局の人が、言うんですよ。『東海テレビだからできるんです。うちではできません』って。いやいや、できないんじゃなくて、あなたがやらないだけなんじゃない? みんなやってよ! って思います(笑)。それで変われるかもしれないじゃないですか。皆、このままではいけないと思ったからこそ、密造酒のように録画DVDが出回ったわけでしょう(笑)。人の裸を見るだけでいいんですか? と聞きたい気持ちです」

ドキュメンタリーほど可能性のある表現はない

 リスクのつきまとう作品づくりを厭(いと)わない姿勢について話を向けると、「私は平和な定年を迎えようとしていたのに、この仕事はおそらくその平穏を壊しちゃうなあと思いました(笑)」と阿武野氏。それでも作る理由とは?

ドキュメンタリーイメージって、小難しくて、理屈っぽくて、めんどくさくて、変に感動を盛り上げるものと思われがちです。とりわけ若い人たちからは忌避されてきましたよね。だけど、こんなに面白い、こんなに可能性のある表現は他にありません。それを若い人にちゃんと手渡していきたいんです。

 生まれてはじめて読んだ小説が面白ければ、その人は本好きになるかもしれない。でも一番最初に見たドキュメンタリーが腐ってたら、もう二度と見ないかもしれない。だから一本一本勝負して作ろうよと、ことあるたびにテレビマンたちに言っていますし、自分もそれを実践しなきゃならないと思っています」

 逆にひどいドキュメンタリーとは?

「感動盛り上げ型や、図式が最初から決まっちゃっているもの。寄り添うなどと優しいことを言いながら上から目線で社会的に弱い人々を晒すもの、そうしたどこかで見たことがあるようなものですね。見ていてこっちが寒くなるようなドキュメンタリー、ありませんか?(笑) 取材対象を変えただけで、同じような構成をなぞってるような。ああいうのを見ると、志が低いと思っちゃう。表現者としていかがなものかなあと」

東海テレビドキュメンタリーソフト化しない理由

 ところで、東海テレビドキュメンタリー作品は評価が高いにもかかわらず、いずれもDVD化されていないばかりか、配信で見ることもできない。本作もその予定はないという。なぜなのだろうか?

「それは皆がやってることじゃないですか。それをやると紛れちゃう。『そっちの棚には入りませんよ』ってことがむしろ価値を生んでくれればいいなって。DVD化の話はすごくたくさんくるんですけど、DVD化すれば結局、『さよならテレビ』で局員たちが囚われていた視聴率と同じように“数字”に囚われてしまうことになる。どのくらい売れて、いくらになりましたという話に踊り始める。私たちは、映画館に何人来てくれた、というだけでお腹がいっぱいなので、お金の話にすり替わるようなお誘いはもうお断りしたいだけなんです。

 なにより、私は映画界に御恩があると思っています。“放送”って、読んで字のごとく“送りっ放し”だけど、映画はそうじゃない。過去、私たちの作品が映画館で上映されていたのをスタッフが観に行くたびに、制作者として生き返ってきました。息遣いのある、共有感のあるスペースで、お客さんの反応を体感できるから。だから私たちは、映画館でしか観られない東海テレビドキュメンタリーが12本くらいあるという、ささやかですけど、プレミアムなものを育ててくれた映画界にお返ししたい、今はそんな気持ちです」

プロフィール
阿武野勝彦
’59年生まれ。同志社大学新聞学科卒業後、’81年に東海テレビ入社。アナウンサーを経てドキュメンタリー制作者となる。主なプロデュース作品は『死刑弁護人』(’12年)『ヤクザと憲法』(’15年)『人生フルーツ』(’16年)『眠る村』(’18年)など

【作品データ
さよならテレビ
’19年/日本/1時間49分 プロデューサー/阿武野勝彦 監督/圡方宏史 撮影/中根芳樹 製作・配給/東海テレビ放送 配給協力/東風 ポレポレ東中野、渋谷ユーロスペース名古屋シネマテーク、大阪・第七藝術劇場、京都シネマにて全国公開中(以降、拡大上映予定)
映画『さよならテレビ』公式サイト
(取材・文/稲田豊史、撮影/林 紘輝)

『さよならテレビ』は、1月11日より渋谷・ユーロスペースでも拡大上映される/©東海テレビ放送