007の原作者、イアン・フレミングの愛車
1964年に銀幕の世界へアストン マーティンDB5がデビューしてからというもの、アストン マーティンとジェームズ・ボンドは切っても切れない関係となった。DB5は映画と自動車というカルチャーを結びつけるのに一役買った。
ロンドンの北にあるアストン マーティン創業の地、ニューポート・パグネルとジェームズ・ボンドとの結びつきはもう少し長い。007がイアン・フレミングの小説の世界だった時代にまで遡る。
ジェームズ・ボンドが登場する最も初期の作品、カジノ・ロワイヤルが出版されたのは1953年。フレミングが描いた主人公は、執筆者の人生を映し出してもいた。
ロンドン西部、イートンの町で士官学校時代を過ごし、第二次大戦中は英国海軍の情報部に所属。自動車への深い造詣も歳を重ねる中で培った。その知識は、1930年型ベントレー41/2リッター「ブロワー」の登場にも表れている。
ジェームズ・ボンドの移動手段として、本格的に自動車が描かれるようになったのは、1959年のゴールドフィンガーとなる。この小説が映画化され1964年に公開されると、ボンドが駆ったアストン マーティンはスター級の扱いを受けた。
小説の出版と映画の公開までには5年間の時間があったが、生みの親、イアン・フレミングがその頃に手に入れたクルマが興味深い。
主役級の注目を集めたアストン DB MkIII
自身の経験や知識をもとに、よりきらびやかで刺激的な世界として文章化したフレミング。ポルトガルの街、エストリルにあったカジノや、彼が愛したゴルフの表現などは良い例だろう。
ゴールドフィンガーの中でフレミングは、ロイヤル・セント・ジョージ・ゴルフクラブを描き、不朽の名場面を作り上げた。悪役、オーリック・ゴールドフィンガーとジェームズ・ボンドとの対決のシーンだ。
ちなみにゴールドフィンガーという名前は、当時の建築家、エルノ・ゴールドフィンガーから来ている。フレミングは彼の建築をかなり嫌っていたのだ。
ゴールドフィンガーの中で、フレミングがジェームズ・ボンドに乗らせたのは、アストン マーティンDB MkIIIなのはご存知の通り。ところが作品発表の数年後、イアン・フレミング自身は当時最も直接的なライバルだったといえる、ACアシーカをガレージに収めた。
DB MkIIIよりアシーカの方が登場は早かったが、アストン マーティンの血統をさかのぼれば、フランク・フィーリーがデザインした1950年のDB2へとたどり着く。実業家デヴィッド・ブラウンが経営者となった時代の、初めての市販車だ。
アストン マーティンDB2は、フレミングがゴールドフィンガーの執筆を始めた時点で変更を受けていた。1953年に登場したDB2/4は実用的な4シーターになり、エンジンもヴァンテージ版へと変更されている。
アヒル口のフロントグリルを獲得
1955年になるとDB2/4はMk2となり、ボディには小さなテールフィンが追加。テールライトも新しくなり、フロントフェンダーのデザインもより魅力的なものになっている。そして1957年に、映画で主役級の扱いを受けるDM MkIIIへと進化した。
ほかにも、DB2からDB2/4へアップデートされた際の内容は大きい。ルーフラインは高くなり、リアのクロスブレースは、定員を2名増やすために取り除かれた。リアウインドウは再設計を受け、大きな荷室へのアクセスも容易になっている。
DB MkIIIへの進化で最も特徴的なのはアヒル口のフロントグリル。DB3Sレーサーのイメージに大きく影響を受けた形状で、それ以来すべてのアストン マーティンへと展開される、トレードマークといっていい。
アルミニウム製のボディを支えるのは頑丈なシャシー。エンジンはウォルター・オーウェン・ベントレーが設計したDB2/4の直列6気筒に、大幅な改良を加えている。エンジニアのタデク・マレックがエンジンブロックやクランクシャフト、給排気系を設計し直している。
最高出力は142psから164psへと向上。今回試乗したツインエグゾースト仕様の場合、180psにまで引き上げられた。ガーリング社製のディスクブレーキは後に標準装備となっている。
インテリアもすべて新しくリ・デザイン。計器類はこの代になって初めて、ドライバーの正面にレイアウトされた。
わずか8台のみのラッドスピード社製
一方のACアシーカの起源は、1953年のACエースにまで遡る。オープントップのスポーツカーで、フェラーリ166バルケッタに影響を受けたクルマだ。
軽量なチューブラーフレームのシャシーの上に、アルミニウム製のボデイパネルと、木製フレームのドアが取り付けられている。アシーカのボデイは、アストン マーティンと同じハッチバック・スタイル。
モデルライフは9年間に及んだが、その中で注目するべき変化はパワートレインだろう。初期のアシーカには既に年季の入った2.0L OHC直列6気筒エンジンが搭載されていたが、1956年のクルマからはブリストル製の121psの直列6気筒へとスイッチし、パワーアップ。
1961年になると、フォード・ゼファーに搭載されていた2.6Lエンジンへと変更。ラッドスピード社によって手が加えられ、5段階のチューニングから選択できた。
エントリーグレードのアシーカには、軽く手が加えられた鋳鉄製エンジンヘッドを備える。トップグレードのエンジンは更なるチューニングが与えられ、172psを獲得。トリプル・ウェーバーキャブに、レイモンド・メイズの手によるアルミニウム製ヘッドが載っている。
同時期、ACエースはキャロル・シェルビーからの注目も高く、コブラへの対応に追われる中で、ラッドスピードが手掛けたアシーカは8台のみ。イアン・フレミングが手に入れたACアシーカのシャシーナンバーはRS5506。1967年8月のモデルだった。
続きは後編にて。
■ACの記事
ACアシーカ 2.6/アストン マーティンDB MkIII
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