例によってですが、またしても麻生太郎副総理兼財務相がとんでもない失言を繰り返しました。

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 1月13日、地元・福岡県飯塚市で開いた国政報告会で述べたもので「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」との発言です。

 報道は、すでに成立している「アイヌ民族支援法」を引き合いに出し、アイヌを「先住民族」としていることを挙げて、日本が単一民族国家と受け取られかねない発言批判を呼ぶ可能性があるなどとしています。

 しかし、ちょっと真面目に考えれば、琉球~沖縄が日本に編入されたのは“琉球処分”(それにしてもひどい呼称です)のあった1872年のことで、148年前のことにすぎず、2000年云々はこれだけ見ても素っ頓狂です。

 この種の問題の「常識の源流探訪」を試みてみましょう。

鎌倉幕府を開いたのは?

 いいくに作ろう・源頼朝というのは、日本史の歴史暗記法で、1192年、鎌倉幕府が開府された年代を記憶するゴロ合わせとしてよく知られたものです。

 さて、頼朝は朝廷から「将軍」に任命されるわけですが、この正式な呼称、ご存じでしょうか。割と有名な単語と思うのですが・・・。

征夷大将軍

 せいいたいしょうぐん、といいます。ウィキペディアの記載に少し加筆して紹介すると

征夷大将軍は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。

飛鳥時代奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍など様々にあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された(794年)。

(中略)征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂(797年任官)は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。

 とあり、「東北地方」に存在していた「蝦夷」を「大和朝廷」が「討伐」すると書いてあることが分かります

 では「蝦夷」とは何か?

「蝦夷地」として検索すると、「蝦夷地:渡島半島を除く現在の北海道千島列島、樺太、場合によりカムチャツカ半島をを含むエリア」などとあります。

アイヌ」の居住エリア、イメージとしては「北海道の道東より東北っぽいイメージ」があります。では「蝦夷」はどうか、と見てみると

「蝦夷:蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である」とあります。

 時代と共に東へ、東へと押しやられて行きますが、実は本州を含むエリアが「蝦夷」の居住地、つまり「蝦夷地」であったことが明らかです。

 よく知られた征夷大将軍「坂上田村麻呂」が拠点とした「多賀城」=宮城県多賀城市は724年に大野東人によって開かれましたが、田村麻呂の802年の戦役を経て胆沢城(岩手県奥州市水沢)まで北進します。

 ということは724年の段階では「胆沢城」のエリアは「大和朝廷」支配エリアの「陸奥国」北限に入っていないことになる。

 水沢は小沢一郎議員の地元として知られるエリアです。仮に奈良時代初期に小沢一郎さんがこの地に生まれ育っていたら、彼は「日本人」~ヤマトの人と認識されていたかどうか、かなり怪しいことが分かります

 水沢は陸前高田から真東に進んだあたりで盛岡よりも南、秋田も八戸も青森もすべて水沢より北に位置しますから、これらのエリアは8世紀半ばには「大和朝廷」の支配下に収められていなかったことが考えられます。

 この「多賀城」と「胆沢城」の中間に、松尾芭蕉が「奥の細道」で訪れた「中尊寺」のある、岩手県平泉市が所在します。

 平泉は奥州藤原氏が支配したエリアで、支配者のミイラなどが残っており、かなり独特な文化を持っていたことが知られます。

 その遺体計測から、「奥州藤原氏」の人々は京都からやって来たらしいことが確認されているようです。

 いずれにしても、畿内とは相当異なった文化の地であったことは間違いありません。

「蝦夷地」に追いやられた「蝦夷」

 私が中学高校時代に日本史を教わった城谷稔先生という方がいます。戦後、日本共産党で活動し、不破哲三氏との競争に敗れて党を離れたらしいという伝説を40年ほど前、私が高校生だった頃お聞きしました。現在も九州でお元気と消息を伺います。

 この、とっても左で、とってもリベラルな城谷先生から、関東近県に残るアイヌの地名という話を教わりました。

 私の母校は東京の田舎、練馬区にあり、冬場は「競歩大会」と称して埼玉県飯能市あたりで20キロほどの道のりを歩く年中行事が恒例になっていたのですが、埼玉のこのエリアには「越辺川(おっぺがわ)」という川が流れています。

 昨年の豪雨で洪水の被害が出たので、ご記憶の読者もあろうと思います。この「おっぺ」という言葉、「豊かな川」という意味を持つ、れっきとしたアイヌ語だそうです。

 つまり現在の東京よりも西に位置する飯能や秩父のエリアも、もとは「アイヌ」の土地。つまり「蝦夷地」だったことが、はっきり確認できます。

入間川(いるまがわ)」の「いるま」は「イルマオイ=熊の足跡」というアイヌ語の語源が指摘されるようです。

 関越自動車道「花園インター」から秩父、長瀞方面に向かう途中には「寄居市風布」という地名があります。

「風布」。読めますか?

「ふっぷ」と読みます。アイヌ語で「フプ」とはトドマツを指すのだそうで、要するにこのエリアは、古くは熊とオオカミアイヌの支配する未踏の野生のエリアだった。

・・・というのが、史実として本当であるかどうかは、科学者の検証を待つべきかもしれません。

 惜しくも一昨年の2月、98歳で亡くなられた俳人の金子兜太さんとは、作詞・作曲でのコラボレーションから「秩父音頭」の選句(ご急逝後、跡を託され責を負いました)、マルクス経済学まで、様々な案件でご一緒させていただき、心を養っていただきましたが、彼の中では「オオカミ」も「熊」も「アイヌの大地」としての秩父も、太い動脈で結ばれた真実でありました。

 秩父には「和銅」の地名があります。つまり「和同開珎」が鋳造される純銅が採掘された銅山があるわけです。

 この地も、ヤマト朝廷に屈服させられる前には、「まつろわぬ民」である秩父の民の大地であって

「自分の中に、こう、オオカミと、その遠吠えとつながる血液が流れていると、そう感じると、なんとも言えず、愉快なんでありますな、ハハハ」

 などとおおらかに笑われる兜太さんの表情を、いまもありありと思い出しながらこの原稿を書いています。

 ちなみにそもそも「秩父」という地名そのものが「秩父別(ちっぷべつ)」、わたしたちがこえてゆく川といった意味合いのアイヌ語に由来し、つまるところ「荒川中流に開かれた古代からのアイヌ盆地文明の地」の中心であったことが示唆されている。

 とてもではないが「2000年来 単一民族 単一言語 単一王朝」など、おかしくて臍が茶を沸かすお笑い種でしかありません。

 仮に値引きして奈良時代初期と考えても1300年を超えることはなく、平安末期に東北地方で戦われた「前九年の役」(1051-62)「後三年の役」(1083-87)あたりから考えても900年程度です。

 その実は太閤検地以前の日本の地方は、よく分かっていないことが多く、せいぜい1590年代以降、ここ400年弱の「本州島」の弱い統一にすぎません。

 しかも明治維新までは「陸奥国」「出羽国」というように、一つひとつの「クニ」に分かれ、地元の言語はおよそ統一などされていませんでした。

 21世紀に至っても、他国の人間にはほとんど判別不可能な方言が残る地域も残存しているのが、現実の「このくにのすがた」にほかなりません。

「単一民族説」は国民皆兵から

 では、日本に「単一民族」などという虚妄が導入されたのはいつのことか?

 すでに紙幅を過ぎているので、結論だけ記すなら、はっきり時期が分かっており1873年、つまり、冒頭に挙げた「琉球処分」の翌年のことです。

「徴兵令」が敷かれて以降、むりやり導入したもので、当初はちっとも普及しませんでした。

 いま、若い夫婦が結婚するとして、奥さんのルーツが「何県だ」と言って問題にする人は日本にほとんどいないでしょう。

 しかし、ものの50年、100年前には、隣村から嫁を貰うというだけで「大問題」といったことが普通にあった。それくらい閉鎖的な島国であったのが、日本の現実の姿にほかなりません。

 1873年は明治6年、明六社と呼ばれる近代科学導入集団が発足し、4年後に東京大学が開学される、まさに近代の夜明け前で、本当の意味で日本に「単一民族感」が普及するのは、「日本人」が兵隊として大挙して「朝鮮半島」や「中国」に出兵し、現地で戦争に勝って利益を得る「日清戦争」以降のことです。

 夏目漱石の小説が描く「ちょうちん行列」などで庶民にも「日本」という統一単位が認識される1895年以降のことで、そのような考え方は1945年に本質的には否定されている。

 つまり、たかだか125年前に捏造され、75年前に終了している例外的な50年の間に喧伝され、日本を破滅戦争に導いて抹消された「おわこん」にほかなりません。

 麻生太郎氏は1940年生まれで、この「例外的な50年」の産物ということになります。

 80代を超えると、上も下もゆるくなってくるとなどと言われ、実際そのような変化があるのは親の介護と死に目を見て事実と思いますが、あまり発言が緩いのは、国の舵取りとしてはご勘弁願いたい。

 迷惑がかかるレベルが拡大するまえに、引退という選択肢もあるように思うのは私だけのことでしょうか。

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