ときおり講義で映画を援用する。これは2011年の岩田ユキの映画。原作は伊藤たかみの2003年のものだが、かなりニュアンスが違う。映画の方で話をしよう。

 あらすじは、こうだ。頭を打った男が病院で目を覚ますと、カバンに結婚指輪が入っている。ところが、これを誰に渡すつもりだったのか、思い出せない。そこに次々と現れるそれらしき女性たち。職場の年上の才女、いきつけの風俗嬢、そして、公園の人形劇娘。どの女性も魅力的。だが、アラもある。

 どの人とも決めかねて、スケートリンクのエミという女の子に相談相手になってもらっているうちに、この子に惚れ込んで、三人はほったらかし。ついには三人が家に押しかけてきて修羅場になり、部屋のベランダから落ちて、また病院に。そこに笑美(エミの現実)がいて、指輪を渡そうとしたら、彼女はすでに既婚者で、迷惑だ、と突っぱねられる。

 どうしようもないクズの三つ叉男、のように思えるのだが、じつは全部が夢オチだ。頭を打ってから、笑美に拒絶されるまでが、彼の夢。三つ叉というのも、彼の心の中でのこと。

 時系列を整理し直すと、こうなる。四、五年前、スケートリンクで笑美という女性と知り合って付き合い、いっしょに暮らした。ところが、二年前、彼女は突然に出て行った。その後、三人の女性と次々に付き合った(同時ではなさそう)が、かつて笑美と行ったレストランの同じ席に座るなど、その後も笑美の影を追い続けていた。というのも、笑美よりも「いい女」を捕まえて、自分を捨てた彼女を見返したい、というのが、彼の根本動機だから。つまり、三人の女性を比較してばかりいるだけでなく、彼は三人を笑美と比較している。

 しかし、彼が比較している笑美は、じつは彼が自分勝手に捏造した幻想のエミで、現実の笑美ではない。それどころか、彼は、かの同じレストランで、その後、現実の笑美が他の男と結婚し、指輪をしているのも見たことさえあるのだ。だが、そういう都合の悪い現実は、頭を打ってすべて忘れ、混濁意識の中で、その後に付き合った女性たちのことをスケートリンクで出会ったころの、もはや実在しない幻想のエミにつねづね相談し、結局、そのエミに惚れ直してしまう。つまり、彼が実際に同時に三つ叉、四つ叉をやっていたというより、それこそが彼の心の中の真相なのだ。

 修羅場になってベランダから落ちた、というのも、彼の混濁意識の中の出来事。ほんとうはベランダから落ちたのではなく、頭を打って倒れてからようやく目が覚めたというだけ。倒れて朦朧としている間に、かつての彼女、笑美の電話番号を告げたものだから、やむなく現実の笑美が病院に来たが、彼の幻想のエミとは似ても似つかない。彼を激しく嫌っている。ここでようやく、かの三人の女性の愛のありがたさを思い知り、現在の彼女たちの様子を伺いに行くが、それぞれがもはや別の人生に踏み出していた、という話。

 ストーリーとしては、三つ叉のように見えるが、上述のように、この部分は、彼の混濁意識の中の迷走、妄想。むしろ判断中止(エポケー)として、エミと同様、実在の三人を離れ、三人が彼にとって何だったのか、探り直す旅。気づいてみれば、彼は三人の誰一人、彼は真剣に愛してはおらず、ただ三人を比較し、また、エミと比較していただけ。つまるところ、彼はずっと出会った頃のエミを愛していた。しかし、そんなものは実在しない。

 スケートリンクに上がらない男。転ぶのを恐れ、実在しない妄想の相手を恋し続ける。だから、結局、目の前に実在の相手がいても、すこしも心が触れ合わない。そして、このことこそが、二年前に、笑美に、いっしょにいてもつまらない、と言わしめた理由。そして、三人もまた彼から去って行った理由。

 ありがとうごめんなさい、こんにちは、さようなら。挨拶は、相手の実在を認めることだ。きみが相手の実在を立てないなら、それは消える。彼女でも、友だちでも、知り合いでもなくなってしまう。きみが実在の相手を愛するからこそ、その相手が知り合いになり、友だちになり、やがては彼女になりうる。リンクの外で立って見ているだけ、転ぶのを恐れて、自分の愛情のエネルギーを現実の相手に注がない者が愛されるわけがない。

 別れる、というのも同じ。ありがとう、そして、さようなら。自分が積極的に大きなエネルギーを注いで、幻想や過去を葬り、しっかりと決別しなければいけない。夢は、あくまで夢の中に押し込めなければいけない。昔は、もはや昔の中に流し去らなければいけない。そうでないと、溢れ出て来てしまった幻想や過去は、いまの現実を見失わせ、貴重な人生の時間までも蝕む。

『指輪をはめたい』に見る現象学