太平洋戦争中における日本海軍の、いわゆる「幸運艦」といえば駆逐艦「雪風」が挙げられますが、初代南極観測船として知られる「宗谷」も戦時中、これに伍するほどの超絶強運を発揮していました。その数奇な艦(船)歴を追います。

「運がいい」だけでは語れない初代南極観測船「宗谷」

1月29日は、日本限定ではありますが「南極の日」と呼ばれています。1957(昭和32)年に日本の南極観測基地「昭和基地」が開設された日だからです。

さて、この基地に日本人を初めて送り届けた船が「宗谷」という船です。実はこの船、元々は旧海軍の特務艦で、この第1次南極観測の時点でボロ船と言っていいものでした。しかし、敗戦の傷が癒えきっていない日本に最新鋭の船を買える余裕はなく、同船がこれまでの船歴でたびたび見せたその強運に賭けて送り出されます。

時の人ですら、単純に「運がいい」では片付けきれない存在だった同船の数奇な運命とは、どのようなものだったのでしょうか。

ざっくり「宗谷」の戦前における船歴について説明すると、そもそもは1936年(昭和11)年に、ソビエト連邦向けの耐氷型貨物船「ボロチャエベツ」として計画され、建造を川南工業株式会社香焼島造船所(のちの三菱重工業長崎造船所香焼工場。長崎市香焼町)が担当しました。

ソ連の船になるはずがなぜ旧海軍で「宗谷」襲名?

「宗谷」の建造は、1938(昭和13)年に進水式までこぎつけますが、ソ連が引き取りを渋っているあいだに、政治状況の悪化などでキャンセルとなり、国内で商船「地領丸」として使用されます。その後、1939年(昭和14)11月に日本海軍が買い上げ軍艦扱いとなり、ここで「宗谷」という艦名になります。

実は当時の海軍には、海面の氷を割りながら航行できる砕氷艦が旧式の「大泊」しかなく、砕氷能力が高い「宗谷」は建造中から注目されており、ソ連との契約の解消を当時の外務省と海軍省も強く勧めたそうで、将来的に海軍が買い上げることも予定通りだったという説もあるそうです。

海軍籍の軍艦になった当初から海軍内では、砕氷艦にする案はあったそうですが、時世の変化により砕氷艦の価値が薄まったことで、結局、測量をする特務艦として南方の海で活動することになり、西太平洋トラック諸島、ポナペ島の正確な海図を作るために測量を担当します。

その後、日米が開戦し太平洋で戦争が始まると、太平洋の島々で測量任務に加え、輸送任務も担うようになりました。

魚雷をくらっても不発! 「宗谷」の強運すぎるエピソード

「宗谷」の強運エピソードは、この戦時中に作られます。

まず、1942(昭和17)年の1月にトラック諸島で、「宗谷」はB24の空襲を受けますが無傷でこれをくぐり抜けます。その後も何度か空襲に合いますが、損傷を受けないどころか、敵機撃墜の戦果も挙げます。

そして、1943昭和18年1月28日には、南太平洋のブカ島(現パプアニユーギニア)クイーンカロライン沖で敵潜水艦に魚雷4本を発射され、1本が「宗谷」船体に突き刺さりますが、幸い不発で損傷は軽微でした。元々、砕氷船として作られていたため、二重船底で丈夫な構造となっており、浸水などもなかったそうです。

1944(昭和19)年2月17日と18日のトラック島空襲では、初日に回避行動をとった際に座礁し身動きが取れなくなり、絶体絶命の状況になります。2日目は自らを砲台とする形でほかの艦船を、他の艦船を援護しますが、機銃掃射により高射砲手の全員が死傷し、さらに副長が戦死、艦長も負傷し、ついに総員退艦の命令が下ります。

普通はこの命令が出た時点で艦は諦めて捨てるということなのですが、空襲後、「宗谷」は運命のいたずらか“自然に”離礁して浮いており、艦を確認しに戻った乗組員を涙させたそうです。

戦争末期には測量機材を全部外し、横須賀~室蘭間で石炭輸送を任務とします。この輸送は航路上で、度重なる空襲や潜水艦の魚雷攻撃や、施設された機雷のなかを突っ切るため、「特攻輸送」と呼ばれていたそうです。しかし、ここでも奇跡的なことに、「宗谷」は目立った損傷を受けることなく任務を続け、逆に敵潜水艦を爆雷で反撃して追い払い、撃沈された僚船の乗組員救出なども行いました。

移ろいゆく「宗谷」の戦後 そして南極へ

戦後「宗谷」は引き上げ船として運用され、任務終了後は再び商船に戻ります。なお、「宗谷」が戦後に賠償艦として接収されなかったのは、船速の遅さや、見た目の古めかしさなどで、特に魅力的な艦に見えなかったことが理由だという話もあります。そういった面でも運がよいといえますね。

1949(昭和24)年12月からは、海上保安庁所属の灯台補給船「そうや」になります。そして、1955(昭和30)年11月、正式に南極観測船「宗谷」に改修され、1962(昭和37)年までその任務を務めます。

この南極観測船に抜擢されたのには、どんな過酷な環境でも、「宗谷」ならきっと帰ってきてくれるという、「船運の強さ」も大きな理由として挙げられたそうです。改修費用は約5億円、当時の国家予算は1兆円前後といわれており、かなりの大金でした。それだけ南極観測は、当時の日本にとっての重要事でした。

南極観測任務終了後も、海上保安庁巡視船として運用された「宗谷」は、1978(昭和53)年10月2日に退役しました。2020年1月現在は船の科学館(東京都品川区)で、日本海軍海上保安庁に所属歴のある、唯一の保存船としてその船体を休めています。

なお2020年1月29日(水)現在、「宗谷」は保存整備工事のため、一般公開は一時休止中です。公開再開は同年4月1日を予定しています。

東京 お台場にある船の科学館が所蔵する初代南極観測船「宗谷」(画像:船の科学館)。