2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公に選ばれた北条義時。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室・北条政子の弟であり、鎌倉幕府の第二代執権である。歴史学者、細川重男氏によると積極性のなさが義時の人生の特徴。本人は何もしていないのにまわりで大騒ぎが起こり、いつも巻き込まれることになる。そんな義時が自己の意思をもち、ついに立ち上がったきっかけとは何だったのか。全2回、前編。(JBpress)

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(※)本稿は『執権 北条氏と鎌倉幕府』(細川重男氏著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。

吹けば飛ぶような田舎武士団北条氏の庶子

吾妻鏡』は、鎌倉時代後期に幕府自身または幕府有力者の誰かが編纂したと推定される鎌倉幕府の歴史書である。治承4年(1180)から文永3年(1266)の六代将軍宗尊親王京都送還までの86年間(欠あり)を日記体で記しており、鎌倉幕府研究の基本文献である。

 その『吾妻鏡』で義時は、相模守(相模国の国守。今の神奈川県知事のようなもの)に任官(王朝官職に就任すること)する以前は「北条小四郎」または「江間小四郎」「江間殿」などと呼ばれている。

 治承4年(1180)8月17日の頼朝挙兵まで、義時は吹けば飛ぶような田舎武士団北条氏の庶子であり、その将来は兄宗時の家子以外にありえなかった。よって、義兄頼朝挙兵以後の運命は、義時自身の予想だにしていなかったものであったはずである。

 頼朝の挙兵直後、義時はヒドイ目にばかり遭っている。山木攻めこそ勝利したものの、6日後の石橋山合戦で頼朝軍は大敗。壊滅的な打撃を受け、生き残った者共は、ちりぢりになって敗走した。

 北条父子は時政・義時と宗時の二手に分かれて逃げたが、宗時は討死した。時政・義時は命からがら土肥郷まで逃れ、27日、安房(房総半島先端)を目指して船出した。29日、安房で頼朝らと合流。

 サンザンな目に遭い、やっとひと心地ついたばかりと言ってよい9月8日、義時は時政と甲斐(山梨県)に派遣された。頼朝から時政が自立勢力だった甲斐源氏との同盟締結を命じられたためである。

 どのようなルートを辿ったかは不明であるが、いずれにしろ平氏方の武士がウヨウヨする中を進むのである。

 ところが、命懸けの任務の割に、この甲斐行きにおける義時の役割は軽い。そもそも『吾妻鏡』では、9月8日条には時政の名しか出ておらず、以後も15日・20日・24日と時政しか出て来ず、10月13日条になって、やっと「北条殿父子」、つまり時政・義時が甲斐源氏と共に駿河(静岡県中部)に向かったとの記事があって、義時が時政に同行していたことがわかる始末なのである(以上、『吾妻鏡』各日条)。

 平氏滅亡後の文治元年(118511月25日から翌2年3月27日まで京都に滞在して王朝との交渉をおこなうなど、時政が交渉事に長けていたことは、よく知られており、甲斐源氏との折衝も当時43歳の時政が担ったと判断される。

 18歳だった義時の役割は、石橋山敗戦後の逃走時と同じく父のボディ・ガード以上のものではなかったようである。「いざとなったら、父の盾となって死ね」ということだ。使い捨てでもよかったとまでは言わないが、苦労に比して報われない立場である。

 頼朝の鎌倉入り後も、北条氏自体は鎌倉殿外戚として伊豆時代とは比較にならない地位を築きながら、父時政の義時への庶子待遇に変化はなかった。

 その一方で、頼朝からは「家子専一」、つまり親衛隊長とでもいうべき側近の地位を与えられた。

 これが頼朝時代の義時の公私における立場であった。しかし、この時期、義時はエピソードらしいエピソードをほとんど残していない。

何もしていない義時

 源平合戦では、源範頼・義経を総大将とする鎌倉軍の幕僚に加えられており、他の御家人たち同様に辛酸を舐めたことであろうが、戦場での武功も無く、占領地行政の面でも活躍した様子はまったく見られない。

 頼朝が最後に残った敵である奥州藤原氏を滅ぼした文治5年(1189)秋の奥州合戦でも同様である。この時期のエピソードとしては、わずかに『吾妻鏡』が記す次の話があるくらいである。

 義時二十歳の寿永元年(1182)11月、頼朝は「御籠女」、つまり愛人である亀前という女性を伏見広綱という者の家に住まわせて通っていた。当然、政子には秘密である。ところが、これを嗅ぎつけた牧方が政子に知らせてしまった。

 激怒した政子は牧方の父牧宗親に命じて、広綱邸を襲わせ「破却」、ようするにブチ壊させたのである。広綱は亀前を連れて命からがら逃げ出し、三浦一族の大多和義久の家に亀前を避難させた。これが、10日の話。

 12日、義久邸を訪れた頼朝は、衆人環視の中で宗親を面罵し、自ら宗親の馨(髷のこと)を切ってしまった。これは、現代で言えば、人前でいい大人のズボンとパンツを下ろし尻を叩いたような辱めである。宗親は泣きながら逃げて行った。

 ところが今度は、この話を聞いた北条時政が怒った。なぜならば、宗親は時政が愛して止まない牧方の父、時政にとっては舅、義父だからである。14日の夜、時政は頼朝に挨拶もないまま、伊豆に帰ってしまった。ストライキである。これを聞いた頼朝は慌て、家子の1人である梶原景季に、

「義時は穏やか(穏便)なヤツだから、父の軽挙に従わず、家にいるはずだ。見てこい」と命じた。景季が帰って来て、「義時殿はいましたよ」と報告したところ、頼朝は、また景季を義時邸に派遣し、わざわざ義時を幕府に呼び出した。

 そして義時がやって来ると、父についてゆかなかった義時を、「おまえはきっと将来、我が子孫を守ってくれるにちがいない」とまで褒めちぎり、「後で恩賞を与えよう」と約束した。義時は、「恐縮です」とだけ言って、家に帰った。おそらく寝たであろう。

 ようするに、浮気が元で起きた夫婦ゲンカに端を発するバカバカしい家族のモメ事である。義時もそう思ったのではないか。

 ところで、頼朝時代の数少ないエピソードであるこの話でも、義時は何もしていない。夜、家にいたら、呼びつけられて褒められただけである。

 むしろ、この積極性のなさが、義時の人生の特徴である。本人は何もしていないのに、まわりで大騒ぎが起こり、義時が巻き込まれるというのは、そもそも頼朝挙兵にも通じるが、同じようなことが、この後も何度も何度も繰り返されるのである。

非業の最期を遂げた友

 義時が初めて自己の意志を示すのは、次の事件である。

 時政とその後妻牧方が武蔵国秩父党実力者畠山重忠の謀反が発覚したとして、義時・時房らに重忠討伐を命じた。重忠は時政の娘婿であり、よって義時たちにとっては義理の兄弟である。

 重忠謀反を信じかねた義時らは、「実否を確認してから行動しても遅くはない」と主張した(『吾妻鏡』元久2年6月21日条)が、時政・牧方に押し切られ、大将として大軍勢を率いて鎌倉を出陣した(6月22日条)。義時たちにしても、重忠謀反が事実であれば、戦わざるを得ない。

 しかし、武蔵国二俣川で義時らと対峙した重忠の軍勢は、わずか134騎。多勢に無勢の重忠は討たれた。

 重忠ほどの者が謀反を計画していたなら、このような少勢であるはずはなく、呆気ない滅亡自体が重忠の無実を示していた。1歳違いの義弟の首を見て泣いた義時は、鎌倉に帰ると時政を糾弾した。

「重忠の弟や親戚はほとんど他所にいた。重忠に従って戦場に来た者は、たった百人ばかり。だから、重忠が謀反を企てていたなんて、ウソだ。讒言によって殺されたのなら、かわいそうでならない。斬られて陣に持ち込まれた首を見て、仲良くしてきた長い間のことを思い出し、オレは涙が止められなかった」(『吾妻鏡』元久2年6月23日条)

 大胆に意訳すれば、「クソ親父! オレたちを騙して、ダチを殺させたな!」

 ということである。ここに我々は、初めて北条義時という人の意志を持った言葉を聞いたのである。それは、非業の最期を遂げた友を悼む怒りの言葉であった。

 実際、重心の無実を知った御家人たちの怒りは凄まじく、時政と結んで重忠を陥れた彼の従兄弟稲毛重成・榛谷重朝兄弟は子息たちと共に虐殺された。

 比企能員に続いて、相模と共に鎌倉幕府の本拠地と言うべき武蔵の実力者畠山重忠を葬った時政であったが、この事件は彼の失脚のきっかけとなったのである。(後編https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59125へつづく)

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