先頃、安倍晋三総理に抜かれるまで、総理としての在任期間7年8カ月のレコード・ホルダーが佐藤栄作であった。

 佐藤は前任の池田勇人とともに、戦後政界の「ドン」的存在だった吉田茂元総理の、いわゆる保守本流を自任する政治家の集まりである「吉田学校」の優等生であった。池田はガンの病魔に冒され、再起が難しい中で、後継にこの佐藤を指名したということだった。

 佐藤の「胆力」、リーダーシップの根源は、佐藤の異名でもあった「黙々栄作」という言葉に表れている。すなわち、政権発足から半年余が過ぎた頃の記者会見での前掲の「人間は口は一つ、‥‥」にあるように、まず自分が乗り出すのではなく、相手の話、主張に耳を貸し、そのうえで判断、自ら動くという徹底した「待ちの政治」が真髄であった。また、人の話を聞くことで情報も多く集まり、一方で「早耳の栄作」との異名もまた持っていた。

 佐藤は昭和39(1964)年11月、政権を担うと、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとっての戦後は終わらないと承知している」と、「沖縄返還」を自らの政権が目指す戦後の懸案処理であると高く掲げた。それからじつに7年余をかけ、時期の到来を待ったのである。

 さて、7年8カ月に及んだ佐藤政権は第3次内閣まであったが、「待ちの政治」が結実を見せ始めるのは、昭和44年半ばの第2次内閣の後半からであった。つまり、政権発足からの3年余は、まずは、じっくり政策推進のための政権基盤づくりに充て、態勢が固まったところで、いよいよミコシを上げたということであった。

 もっとも、他の政策はともかく、「沖縄返還」についてだけは、政権発足から1年足らずの間に、すでに具体的な“アヒルの水かき”を始めていた。時に佐藤の「名秘書官」とも言われた楠田実が先頭に立ち、優秀な若手官僚、新聞記者、あるいは大学教授などをピックアップ、佐藤のSの頭文字をつけた「Sオペレーション」なる情報交換の場をつくっていたのだった。

 結局、「沖縄返還」は次のような経緯をたどりながら、昭和47(1972)年5月15日に施政権ともどもの返還となった。

 昭和42年秋、訪米した佐藤はジョンソン大統領との間で、「両3年以内」の返還時期を決定する。その後、大統領がニクソンに代わったあとの44年5月、ニクソンとの間で返還後に残す沖縄米軍基地の機能を、「核抜き・本土並み」と確認した。その上で、その年の11月佐藤・ニクソン会談ですでに返還されていた小笠原諸島に次ぐ沖縄の「昭和47年」返還が共同声明に盛られるという形で返還実現に至ったということだった。

 米国ワシントンにおける返還式典当日は、東京との間でテレビの二元中継となり、ニクソンと並ぶ佐藤の晴れがましい姿が東京でのテレビ画面で見られたものだった。ちなみに、この返還、振り返って吉田茂が講和条約であえて返還に踏み込まずに「現状凍結」とした布石が、のちに愛弟子・佐藤のもとで生きたということでもあった。吉田のその後の日米関係の推移をにらんだ読み、洞察力が、返還への道筋をつくったと言えたのである。

佐藤栄作の略歴

明治34(1901)年3月27日山口県生まれ。東京帝国大学法学部卒業後、鉄道省入省。ノーバッジで第2次吉田内閣官房長官。昭和39(1964)年11月第一次内閣組織。総理就任時63歳。沖縄返還協定調印。昭和50(1975)年6月3日、脳卒中で死去。享年74。

総理大臣歴:第61~63代 1964年11月9日1972年7月7日

小林吉弥こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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