2020年1月21日(火)~3月26日(木)の期間、上野の東京都美術館で『ハマスホイとデンマーク絵画』が開催中だ。19世紀末デンマークを代表する画家、ヴィルヘルム・ハマスホイの日本初公開の作品も含む絵画約40点が来日している本展は、19世紀に活躍したデンマークの画家たちの作品を本格的に紹介するかつてない展示であり、またデンマークの人々が大切にし、昨今日本でも広く知られている“ヒュゲ”(くつろいだ、心地よい雰囲気)を実感できる内容である。以下、ハマスホイと、デンマーク絵画の魅力に迫る本展の見どころをご紹介する。

会場風景

会場風景

19世紀のデンマーク絵画の魅力
日常を描いた画家たちとスケーイン派の台頭

19世紀のデンマークは政治的・経済的に打撃を受け、絵の注文主は王侯貴族から市民階級に移り変わった。題材は身近で親密な対象が多くなり、日常生活がテーマになっていく。この時期に描かれたコンスタンティーンハンスンの《果物籠を持つ少女》はハマスホイが所持し、邸宅の壁に飾っていた作品だ。こちらを見つめる少女のクラシカルな服装や落ち着いた色味はハマスホイの居住空間に穏やかさとほのかな温かさをもたらし、恐らくハマスホイの作風に影響を与えたことだろう。

左:イーダ・ハマスホイ、ストランゲーゼ25番地の自宅にて 1913年7月 ヒアシュプロング・コレクション 右:コンスタンティーン・ハンスン《果物籠を持つ少女》1827年頃 デンマーク国立美術館

左:イーダ・ハマスホイ、ストランゲーゼ25番地の自宅にて 1913年7月 ヒアシュプロング・コレクション 右:コンスタンティーンハンスン《果物籠を持つ少女》1827年頃 デンマーク国立美術館

1870年代に入ると、デンマークの多くの画家たちが豊かな自然環境を持つ漁師町スケーインに集い、芸術家コロニーをつくった。「スケーイン派」と呼ばれる彼らは当初、漁師たちが神話の英雄のように力強く自然と対峙する姿など、古き良き時代の名残があるスケーインの暮らしを描いていた。

左:オスカル・ビュルク《スケーインの海に漕ぎ出すボート》1884年 スケ―イン美術館  右:フリツ・タウロウ《スケーインの海岸》1879年 スケーイン美術館

左:オスカル・ビュルク《スケーインの海に漕ぎ出すボート》1884年 スケ―イン美術館  右:フリツ・タウロウ《スケーインの海岸》1879年 スケーイン美術館

やがてスケーイン派の画家たちは、フランスの印象派の影響や技法などを絵に反映するようになった。ピーザ・スィヴェリーン・クロイアもその一人で、スケーイン訪問当初は漁師をモデルにした絵を手掛けていたが、青く透き通る浜辺など、印象派の影響を感じさせる、光あふれる抒情的な情景を捉えるようになる。

ピーザ・スィヴェリーン・クロイア《スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア》 1893年 ヒアシュプロング・コレクション

ピーザ・スィヴェリーン・クロイア《スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア》 1893年 ヒアシュプロング・コレクション

コペンハーゲンでは室内画が台頭
デンマークの象徴“ヒュゲ”を体現する作品も登場

19世紀末コペンハーゲンでは、画家の自宅の室内を描いた絵画が人気を博し、現代においてデンマークの象徴となっている“ヒュゲ”を感じさせる作品も多く登場した。子どもたちがクリスマスツリーを囲んで仲良く手をつなぐヴィゴ・ヨハンスンの《きよしこの夜》はまさにヒュゲを体現しており、見ているだけで気持ちが温かくなる作品だ。

左:ヴィゴ・ヨハンスン《コーヒーを飲みながら》1884年 リーベ美術館  右:ヴィゴ・ヨハンスン《きよしこの夜》1891年 ヒアシュプロング・コレクション

左:ヴィゴ・ヨハンスン《コーヒーを飲みながら》1884年 リーベ美術館  右:ヴィゴ・ヨハンスン《きよしこの夜》1891年 ヒアシュプロング・コレクション

一方で、20世紀に近づくにつれ、後のハマスホイの絵画に多く見られるような、無人の室内画が多く描かれるようになる。屋内は生活空間というよりは芸術上のモチーフとなり、家具や装飾品がおりなす陰影や直線のバランス、色彩や光の表現などが突き詰められていく。カール・ホルスーウの《室内》に登場する鏡台と椅子、銀の燭台や小さな彫像、ガラスの容器に挿された花々などの古めかしく装飾性の高いモチーフは優美で儚く、見る者に憧れと郷愁を呼び起こす。

カール・ホルスーウ《室内》制作年不詳 アロス・オーフース美術館

カール・ホルスーウ《室内》制作年不詳 アロス・オーフース美術館

ハマスホイの静謐な世界
独特の美的空間に漂うひんやりとしたノスタルジー

円熟を迎えたデンマークの室内画は、ハマスホイの作品へと結実していく。ハマスホイのキャリアの中で室内画の最初の作品である《古いストーブのある室内》では、18世紀末に建てられた邸宅の一室で、壁際にストーブがあるだけの、無人の空間が捉えられている。左にある黒く重々しいストーブと、右側から注ぎこむ光が穏やかなコントラストを成し、落ち着いた雰囲気の中、わずかに不穏な空気が漂う。天井や床の歪みは、この絵の世界にどこか非現実的な要素を与え、記憶の中の風景であるかのような印象を与える。

ヴィルヘルム・ハマスホイ《古いストーブのある室内》1888年 デンマーク国立美術館

ヴィルヘルム・ハマスホイ《古いストーブのある室内》1888年 デンマーク国立美術館

ハマスホイは誰もいない古い部屋の絵を何枚も描いた。格子窓や真鍮製とおぼしきドアノブ、使い込まれた床など、一つ一つの構成要素の色彩やバランスは洗練されており、いずれの作品も独特の美的空間を構成している。

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内─開いた扉、ストランゲーゼ30番地》1905年 デーヴィズ・コレクション

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内─開いた扉、ストランゲーゼ30番地》1905年 デーヴィズ・コレクション

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内─陽光習作、ストランゲーゼ30番地》1906年 デーヴィズ・コレクション

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内─陽光習作、ストランゲーゼ30番地》1906年 デーヴィズ・コレクション

ヴィルヘルム・ハマスホイ《廊下に面した室内、ストランゲーゼ30番地》1903年 デーヴィズ・コレクション

ヴィルヘルム・ハマスホイ《廊下に面した室内、ストランゲーゼ30番地》1903年 デーヴィズ・コレクション

 

室内画で知られるハマスホイだが、肖像画も手掛けている。妻イーダと自分の肖像《画家と妻の肖像、パリ》の二人は同系色の服をまとい、同じ距離感で正面を向いている。《イーダ・ハマスホイの肖像》のモデル、イーダの顔色は悪く、病み上がりとおぼしき姿が描かれている。ハマスホイは肖像画を描くにあたり、モデルの内面を知る必要があると考えていた。彼の肖像画は、モデルの精神や置かれている状況、人間同士の関係性を濃密に示している。

ヴィルヘルム・ハマスホイ《画家と妻の肖像、パリ》1892年 デーヴィズ・コレクション

ヴィルヘルム・ハマスホイ《画家と妻の肖像、パリ》1892年 デーヴィズ・コレクション

左:ヴィルヘルム・ハマスホイ《イーダ・ハマスホイの肖像》1907年 アロス・オーフース美術館 右:ヴィルヘルム・ハマスホイ《裸婦習作》1909–10年 マルムー美術館

左:ヴィルヘルム・ハマスホイ《イーダ・ハマスホイの肖像》1907年 アロス・オーフース美術館 右:ヴィルヘルム・ハマスホイ《裸婦習作》1909–10年 マルムー美術館

 ハマスホイの名を聞いて多くの人が連想するのは恐らく、女性の後ろ姿を描いた作品だろう。《室内》の後ろ姿の女性は妻のイーダで、黒いワンピースをまとい、尼僧のようにストイックな雰囲気を醸している。穏やかな光、清潔な白いクロス、シンプルな家具の中で佇む彼女が何をしているのかは見えないが、作品世界の芯となる静かな存在感があり、彼女なくしてはこの作品は成立しないのだと実感させられる。

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内》1898年 スウェーデン国立美術館

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内》1898年 スウェーデン国立美術館


代表作の一つ《背を向けた若い女性のいる室内》で後ろ姿を見せている女性もイーダだ。彼女が持つ銀色のトレイは斜めの線を描き、額縁やピアノの平行の線に対するアクセントになっている。ピアノの上のロイヤルコペンハーゲンパンチボウルの現物は、本展で注目すべき展示物の一つ。絵の中のパンチボウルの蓋と胴の間には、わずかな隙間がある。これは割れた蓋の破片が繋ぎ合わされており、ぴったりとはまらなくなっているためで、展示されているパンチボウルを実際に見て、隙間を確認することができるのだ。

ヴィルヘルム・ハマスホイ《背を向けた若い女性のいる室内》1903 – 04年 ラナス美術館

ヴィルヘルム・ハマスホイ《背を向けた若い女性のいる室内》1903 – 04年 ラナス美術館

ハマスホイが選んだモチーフは、現代の我々の目で見た時だけではなく、描かれた当時の感覚からしてもノスタルジーをかきたてるものが多いという。絵の中のパンチボウルが修理されていたというエピソードからも、古いものを大切にするハマスホイの価値観を窺い知ることができよう。

パンチボウル ロイヤル コペンハーゲン 18–19世紀 個人蔵

パンチボウル ロイヤル コペンハーゲン 18–19世紀 個人蔵

無人、あるいは後ろ姿の女性が佇む室内画を多数描いたハマスホイ。彼の作品は、時代や人物の表情などがはっきりせず、無時間的で非感情的だが、明確な物語性がない分想像力を刺激し、静かな動揺と忘れがたい感動を呼び起こすように思う。ハマスホイは類似の画風を持つアーティストを探すのが難しい画家だが、本展を鑑賞すると、彼のルーツは19世紀のデンマーク絵画と室内画にあり、先達たちの影響の中で、唯一無二の世界を確立させていったことが実感できるだろう。2008年のハマスホイの展示では予想をはるかに上回る数の来場者が訪れたそうなので、会期の後半は混雑が見込まれる。なるべく早いうちに足を運んでおきたい展示だ。

ヴィルヘルム・ハマスホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》1910年 国立西洋美術館

ヴィルヘルム・ハマスホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》1910年 国立西洋美術館


ヴィルヘルム・ハマスホイ《カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ25番地》1910 –11年 マルムー美術館

ヴィルヘルム・ハマスホイ《カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ25番地》1910 –11年 マルムー美術館

 

取材・文・撮影=中野昭子