2018年に福生病院で起きた患者の透析拒否事件を受けて、日本透析医学会は「透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言(案)」についてのパブリックコメント募集をこの1月20日から26日の間行った。

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 人生の最終段階ではない状態のときに透析離脱の同意書を提出した患者が、その後、苦しさのあまり撤回の意思を示していたのに、医師は患者が書いた透析離脱書を正式の患者の意思と見なして、透析再開に応じず、死亡した事件を受けての提言である。

 2015年に作成された同学会の『提言』は、終末期の患者を対象としたものであったが、福生病院で起こった事件は、終末期でない患者の事例だった。だから今回の新たな『提言(案)』は、終末期であれ、そうでない場合であれ、「撤回の意思の確認を繰り返し行う」ということを強調して一件落着かと思っていたが、そうではなかった。逆に終末期でない患者においてもその意思を尊重し、透析の見合わせを許容するということにまで積極的に踏み込んだ内容となっている。もちろん、「繰り返し意思確認を行い、撤回する」と謳われてはいるのだが、「提言解説」には以下のように記載されていた。

<医療チームは家族等とともに、理解力や認知機能が低下した患者が尊厳をもって暮らしていくことを尊重し、厚労省の「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」に準じて、本人の表明した意思(意向・選好あるいは好み)を尊重する。・・・したがって、意思決定能力の判定は、一度だけでなく繰り返し行うことが求められる>

認知症が疑われる場合には家族等に相談し、認知症専門医または認知症サポート医等と連携することが望ましい。なお、意思の確認が難しい場合には事前指示(文書または口頭)を尊重する>

 意思の確認が難しい場合とはどういう場合か。このような記述だけでは、意識混濁が始まった患者の場合、「事前指示書」を優先するということなのか、それとも、「いま」の意思(あるいは好き嫌いという選好)を優先するのか、医療現場は判断に苦しむであろう。事実、福生病院のケースでは、終末期にあるかどうかだけではなくて、透析を離脱した患者が、意識混濁状態のなかで示した「透析して」という意思が、果たして判断能力のある患者の意思といえるのかどうかが、問われていたのである。

 この問題に似たケースがオランダ認知症患者の安楽死事件で現在裁判に問われている。オランダではどのように判断されるのか、注目しているのだが、参考までに、紹介したい。

「事前指示書」が有効になる条件

 2002年に安楽死法が成立したオランダで、2016年についに安楽死を行った医師が訴追されるという事件が初めて起きた。介護施設で主治医である女医が後期認知症で意思表明不可能な74歳の患者を注射で安楽死させたという案件である。

 患者は、まだ判断能力があるとされた初期認知症の時に、「私が施設に入らなければならなくなったら安楽死させてほしい」と意思表明していた。しかるべき時が来たので医師がその要請に従って、睡眠導入剤としてコーヒーに鎮静剤を混ぜて飲ませ、患者に薬剤を注射しようとした瞬間に問題が起こった。腕に針を刺した際に、患者が手をひっこめるそぶりをしたのだ。女医はその動作の意味を確認することなく、家族に患者を押さえさせて、安楽死を遂行し、患者を致死させた。

 安楽死審査委員会は、安楽死を行う際に医師がまもらなければならない『注意深さの要件』である「患者の要請は自発的で十分考慮されたものであることを確信し」という要件を満たしていないと裁定し、検察がそれを受けて2018年に起訴した案件である。

(参考記事)自分を誰かに殺させるのが「安楽死」、その問題点
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58024

 2019年9月11日、デンハーグ裁判所は、世間の予想に反して、女医を無罪とした。安楽死を行う際に医師に要請されている『注意深さの要件』がすべて満たされている、なぜなら事前指示書は有効である、と判断したからだ。オランダ王立医師会や安楽死専門センター(安楽死クリニックが9月に名称を変更)は、この判決を共感を持って受け取った。「裁判所はやっと認知症老人の難しい安楽死に対して理解を示した」と。

 しかし検察は、控訴できる期限内(判決後2週間以内)の9月26日に、最高裁判所に上訴した。ただし、検察が上訴したのは、女医に対して下された無罪判決ではなかった。安楽死に関して医師と患者が法的確実性を得るために、認知症患者の意思能力、書面による指示書の効力、および安楽死を行う際に適用される注意深さの要件を明らかにしてもらいたいからとの理由で検察は控訴したのだ。最高裁長官は、検察庁のこの依頼に応じて、2019年の12月に見解を発表するとしたが、まだ見解は出ていない。

 いったいどのような意思表示であれば、判断能力ある者の意思、とみなされるのだろうか。たとえば、女医を無罪とした9月11日判決文書が掲載された雑誌には、アムステルダム自由大学のスハルケン名誉教授が、判決文には次の3つの検討すべき点があると書いていた。

 第一に、判断能力のない者にも生きる権利はあるという点。第二に、裁判所は判決において、患者が耐えがたい苦しみであるかどうかを意思表示書に記載された状況(施設に入らなければならないかどうか)だけで判断したという点。第三に、判断能力がなくなった人が、事前の安楽死の要請を撤回することができるというのは、安楽死法の主旨に反する、と裁判所は判定したという点だ。

 こうした指摘に対して、そもそも「当該医師は注意深さの要件を満たしていない」と裁定した「安楽死審査委員会=RTE」委員長のヤコブ・コーンスタム(Jacob Kohnstamm)氏と、『国家とタブー』という本を著し、安楽死に対し慎重な意見を述べているティルブルフ大学行政学教授のポール・フリッセン(Paul Frissen)氏はどう考えているのか。直接出向いて、意見を伺ってきた。

「認知症の人がコミュニケーションができる状況なら、意思表示書は考慮されない」

――裁判所が下した無罪判決についてどう思うか?

コーンスタム氏 9月11日、判決が出た際、わたしはRTE委員長として、各種メディアに対し「裁判所はRTEの裁定は良くなかったと判断した。それは、裁判所は法律に基づいて判決したからである。判決が出たからには、RTEはその判決に従う」、と述べました。

フリッセン教授 このケースに関する情報を読んで知った内容を考えてみると、裁判官は、RTEや懲戒委員会の判断をもう少し考慮すべきだったのではないでしょうか? RTE及び懲戒委員会は、当該医師の安楽死の実行全体のプロセスに強く異議を唱えたのですから。

――意思表示書と現在の意思確認との関係はどう考えればよいのか。

コーンスタム氏 意思表示書があればそれに従う、そう単純に規定されてはいません。言葉によるコミュニケーションは、書面による意思表示書よりも優先されます。言葉で表現できる人であれば、それによって決定されます。もはや話ができない人で、意思表示書がある場合、それで自動的に安楽死を行うという訳にはいきません。まず、医師が、耐え難く希望のない状況であるのか判断しなければなりません。

 私の母は、97歳で、素晴らしい意思表示書を持っています。彼女は介護施設に入居しました。彼女は記憶を全て無くした、非常に陽気な認知症の女性です。そこで意思表示書はありますが、ほかの要件である「耐えがたく希望のない苦しみ」にはあてはまりません。彼女は余生を楽しんでいます。法律に則った意思表示書があったとしても、耐えがたく希望のない苦しみについて医師は判断した上でアクションを起こさなければならないのです。

 認知症の人がコミュニケーションができる状況であれば、意思表示書については考慮されません、関係ないのです。しかし、コミュニケーションができない人が、何かを「撤回する」というのは論理的に考えて無理です。患者が「コミュニケーションができなくなったら安楽死を希望する」と記載していれば、他の条件を満たしていれば安楽死は可能になります。希望のない耐えがたい苦しみだと医師が確信した場合です。

 コミュニケーションは会話や書面だけではありません。質問に関し、<「はい」なら手を握って下さい>、という形でも可能です。そういうコミュニケーションができ、安楽死を希望するとわかれば、最初の注意深さの要件は満たされます。自発的という点です。今回のケースのように、コミュニケーションができないのであれば、論理的に考えて何も伝わらないのは明らかです。となれば、意思表示書が有効となります。

ボケる前の自分が、認知症で何もわからなくなった自分について決定できるのか

フリッセン教授 しかし、この点は非常にデリケートで、しかも、法律において検察が問題にしている部分は実際はっきりしません。実際に問題となっている部分は、意思表示書を書いた患者が、認知症となった患者に関して決定することができるのか、という点です。

 患者は、「認知症になりたくない。認知症になったら安楽死したい」と言いました。その患者が認知症になったのです。法律には、「精神的に有能か」ということが書かれています。そこで、認知症の人で判断能力がないならば、誰が判断能力を欠いている人について意思決定できるのでしょうか。例えば私が、「認知症になったら、以下の条件(具体的な条件を記載)となったら安楽死を希望する」、という内容の書面を作成したとします。さて、私は認知症になりました。何もかも全くわからなくなりました。私はもはや「私は死にたいです」と言えなくなりました。そこで、医師が「あなたが認知症になる前で意思決定ができた時に、あなたは認知症になったら安楽死したいと言いましたね」と言うことはできます。

 そこで、問題なのは、認知症になってボケる前の私が、認知症で何もわからなくなった私について決定できるのでしょうか、という点なのです。さらに複雑な問題となるのは、「自分の自由意思とは何か」です。裁判案件の患者の場合、認知症になりたくなかったという点だけは、はっきりしています。患者は「認知症の状態に陥りたくない」、と言っていました。しかし、医師が患者と話す度に、患者は「今は、まだその時期(安楽死を行う)ではない」と言い続けました。そして、ある日安楽死を行う日となりました。最初に、鎮静目的で前投薬が投与されました。その後の投薬(静脈注射)の際に患者は抵抗しました。どう思いますか?

 患者の人格が変わっていけば、同じ患者であっても、いったい誰が安楽死要請書を書いた人物であろうか、ということになってしまいます。書面を書いた人は認知症になってしまって現在別人なのです。(認知症になる前の)健康な人が、認知症になった人の意思を決定できるのでしょうか? それは哲学的に問題があるのではないでしょうか?

判断能力のない者にも生きる権利

コーンスタム氏 これは、最高裁で検討される部分の一つです。わたしが安楽死法を読んだ限りでは、「生きたいのか」という観点ではなく「死にたいのか」という観点で書かれています。その意味では、スハルケン教授はその点をごちゃまぜにしています。わたしは裁判所の判決を聞き、その内容によれば、裁判所は、「生きたいのか?」という患者に対する質問ではなく「死にたいのか?」と患者に尋ねて、「患者の判断であるべきだ」と表明しました。

 オランダでは安楽死は権利ではありません。安楽死を希望する人と実行する人がいます。両者が話し合って結論を出すのです。患者が医師に「死にたい」と言っても、医師が注意深さの要件を満たしていないと判断する、あるいは、医師が「私はカトリックだから、患者を殺せない」と断る、つまり、両者が話し合って決めるのです。

フリッセン教授 確かにそうです。しかし、その点にも大きな問題があります。医師は、疾患の予後には希望が無いということ、つまりそうした診断に関しては教育を受けてきていますが、それが患者にとり耐えがたい苦しみか否かについて判断することの教育を受けてきていません。苦しみであるかどうかは、各自それぞれ違います。

 記録には、この患者は3回、「死ぬことを希望するが、今ではない」と言ったとあります。判断能力のない人には法的保護も含まれる、に同意します。市民の生命を守る、それはまず国家によって生きる権利を保障されることを基本として成り立っています。次の注意点としては、誰にでも自殺の権利があるという点です。3番目は、他者を殺してはならない、です。生きる権利は、この3つで成り立っています。

「認知症の私と認知症になる前の私の間には意識の連続性がない」と捉えることもできる

 検察の上訴を受けて、どちらかというと「死ぬ権利」の側に立つコーンスタム氏、「生の権利」に立つフリッセン教授、それぞれの考えは以上の通りだった。

 確かに、スハルケン教授やフリッセン教授のいうとおり、後期認知症患者にも、重度心身障害者にも生の権利は当然ある。彼らも「意思」とは言えないとしても、好き嫌いという選好の感情をもっている。ただし、認知症になった「いま」の私とは,事前指示書を書いたときの私とは意識のつながりがないかもしれない。だから、裁判所の判断が示すように、後期認知症患者の「いま」の意思/選好よりも、指示書を書いた私の意思が優先すると。なぜなら、この意思は死にゆく人が託す最後の意思、それだけに思い入れの強い意思だからである。そうでなければ、守られないかもしれないと知りながら「事前指示書」を作成する人は誰もいなくなるだろう。

 しかし、こうも考えることができるだろう。事前指示書を書いた私は、もう現在存在しない。なぜなら認知症の私と認知症になる前の私の間には意識の連続性がないからだ。だから、たとえ約束を守るにせよ、守らないにせよ、もはや私は書いたことを忘れているのだから、私を喜ばすことはない。ということは、認知症患者の「いま」の意思/選好だけが問題であると。

 そう考えるならば、スハルケン教授のいうように、今の意思/選好を問わないことは問題である。

 いよいよ最高裁長官の判断という最終局面に入るこのオランダ安楽死問題は、まさに日本の現在の事前指示書をめぐる問題とも直結している。

(通訳・ベイツ裕子氏)

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