私たちが五感を使って見るもの、体験するもの、触れるものは、すべて「これを見る」「これを体験する」「これに触れる」という意思の後に出現している。

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 この順番が変わることはない。すべては意思が私たちを動かしている。

 もし、目標を達成するために、神頼みをしたとする。その場合、「とりあえず祈っておく」では念願は成就しない。

 たいていの人は、過去に「願い事が叶いますように」と神仏に祈った経験があるはずだ。

 しかし、その祈りが「過去に全く効果がなかった」ということが連続して起きれば、「神仏は、自分祈りを叶えてくれないかもしれない」と祈りの力に対する疑念に意識が向く。

 そして、「とりあえず祈っておく」となる。

 だが、もし意識が存在するなら、感受性は人間も神仏も同じではないだろうか。

 私たちが日々の忙しさの中で、さほど付き合いが深くもなく、たいして信頼関係のない友人が訪ねてきたとする。

 そして「できたら、○○をしてほしい」と、手のかかる依頼をしてきたとしよう。あなたは、その懸案を最優先で着手できるだろうか。

 だが、もし旧知で昵懇の友人が必至の形相であなたに「是が非でも、何が何でも頼む!」と平伏して懇願されたら、それを放っておくことは難しいものである。

 人を動かすということは、相手の意思を動かすことである。同様に祈るということは神の意思を動かすことといえる。

 私たち個人の行動だけでなく、世の中全体も意思によって動く。それゆえに、意思が強ければ強いほど、その思いは叶う。

 神仏に祈る時、その大いなる者の意思を動かすためには、まず自身が強い意思を持ち、かつ普段から大いなる者との何らかの接点を持つことが肝要となる。

 意識の作用でよく言われる不思議な法則がある。

 たとえば、高級スポーツカーフェラーリが欲しいとする。

 月々のローンの返済額を考えて、尻込みしたら憧れのフェラーリは永遠に手に入らない。

 だが、不思議に思えるかもしれないが、さほど所得がなくてもフェラーリに乗っている人は現実に数多く存在する。

 そういう人はフェラーリを手に入れる以前、ローンの金額などは考えず、熱心にフェラーリのカタログやら雑誌の特集記事を穴のあくまで、毎日眺めているものだ。

 昼夜を問わず「フェラーリが欲しい」「フェラーリに乗りたい」と何度も心の中で唱えているような人たちである。

 そうした行為が継続されることで、自身の意識の中に自然と願望が定着されていく。そして、なぜか、しばらくすると彼らは欲しかった車に乗っている。

 実際、フェラーリオーナーは、すべてが高額所得者だけではない。

 こうしたことは、一般的には理屈が説明できない不可解なことと思われがちだが、そういう事例は世の中に数多く存在している。

 また、その逆もしかり。起きてほしくない事象ばかり考えると、起きてほしくないことが生じることもありうる。

 目に見えない何かに働きかけ、自分の希望を現実化させようとするなら、まず自分の期待や思い込みを変えることが先決である。

 つまり「過去に見たもの、いま、目に見えるもの」に意識を向けるのではなく、「これから見たいもの、これからしたいこと」に意識を集中させることが肝心だ。 

 密教行者にとって祈りは「真剣勝負」である。

 こう言うと、刃物を用いての決闘や騒ぎを連想する人がいるかもしれないが、そうではない。

 太古の昔より、本当の祈りとは人が生きるか死ぬかにかかわる時に生じる。まさに真剣勝負そのものなのだ。

 人は、生きるか死ぬかという危機的な状況になって初めて、心の底から死にもの狂いで祈ることができる。

 また、時に人には「祈ることしかできない」という場合がある。なす術もない状況に置かれると、人は無力な存在だと感じるからかもしれない。

しかし、実はそうではない。人は無力だから祈る、なす術がないから祈るのではなく、祈りには思いもよらぬ力があるから祈るのである。

 太古の昔から人は祈りの威力を認識している。だからこそ、絶対絶命の苦境に陥った時、人は無心に祈る。そこで初めて人は潜在意識へのゾーンに移行できるのだ。

 密教には「入我我入(にゅうが・がにゅう)」という祈りの領域がある。

 それは秘密瑜伽の観法の一つで、如来の「身、口、意(身体・鼓動や言葉などの音・意識=三密と言われる)」の3つの働きが、行者自身に入り込むと同時に、行者の「身、口、意」の働きが如来に入り込む。 

 すると、観法の対象である如来、つまり大いなる者の持つ力や働きが密教行者に注ぎ込まれ、人間である行者自身の性根すべてが大いなる者との間に、互いに行き交い、やがて合致する。

 これが「我即仏(われそくほとけ)、仏即我(ほとけそくわれ)」の状態であり、この境地を感得することを入我我入観という。

 修法により、深い潜在意識の領域に入った行者は、その果てに大宇宙・宇宙生命である大いなる存在と一体化する、それこそが密教の奥儀。

 それは数々の神秘的な段階を駆け上がると辿り着く、とてつもなく深い瞑想状態である。

 意識が落ちていき、自分という個体がその身体や心といった枠を飛び越えて、自分が宇宙か、宇宙が自分か分からなくなる宇宙と溶け合う無我の境地

 それが入我我入というものであり、そこに到達することで行者は大いなる者の神秘の力を発揮する。これこそが弘法大師空海が請来した「密教の祈り」の妙味といえよう。

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