突然ですが、皆さんは自分がどれくらいのスピードで歩いているか、自覚がありますか?

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 不動産屋さんの見積もりでは、徒歩1分は80メートルだそうです。仮に大人の歩幅が80センチ程度であるとするなら、80メートルの距離を100歩程度で歩いていることになる。

 1分間に100歩というのは、私たち音楽屋の道具である「メトロノーム」のMM(measures per minute)を用いて100bpmと表現される速さです。

 bpmは「beats per minute」で1分間のカウント数を意味し、のちほど登場する心拍数などでも日常生活で用いられています。

 そこで、今度はメトロノームの方でチェックしてみると

96~120bpmAllegretto(アレグレット)やや快速に

 と記されている。「歩く」速さとしては同じメトロノーム上、はるかに遅いテンポが

63~76bpm:Andante(アンダンテ)歩くような速さで

 と書かれている。このずれはいったい何なのか、というのが、素朴な疑問の動機です。

「アンダンテ」とAI世代の基礎教育

 アンダンテ(Andante)とはイタリア語で「行く」を意味する動詞「andare」の現在分詞で「歩いて行く」ことを示唆する発想指示であると、音楽の基礎である「楽典」は教えます。

 さてしかし、63~76bpmのテンポ、同じ歩幅で歩こうとすると、およそ不自然な足取りとなる。

 かなりの高齢者でも、怪我でもしていない限り、こういう歩調にはならないのではないか?

 実際、これでは1分間に50メートル程度しか進むことができません。

 試しに秒針のある時計を手に、1秒1歩のスピードで歩いてごらんになるといいでしょう。凄まじく不自然で、歩きにくいことおびただしい。

「音楽」を学ぶ過程で、こういう「因習」に不自然な違和を感じる子供は、最近かなり少ないようです。

 50年ほど前、私はあらゆるこうした不自然を違和感として意識し、あらゆる齟齬に理由を問う、音楽の基礎教育を受けました。

 その結果、ここ25年ほどは、トップランナーとなるべきミュージシャンのタマゴたちに、音楽を教授する側に立っています。

 ということで今回は、この「歩くこと」を切り口とするAI前提の新しい世代に向けた「21世紀の自由7学芸」STREAMMのイントロダクションをお話しましょう。

 STREAMMとはScience Technology Reflection Ethics Arts Mathematics and Music(科学技術熟慮倫理藝術数学)、そして音楽の7科目を総称する私たちの基礎コンセプトです。

「白熱音楽教室」

 2月9日日曜日、今年で5回目になると思いますが、日本学術振興会が主催し東京大学が受注する中学高校生向けの大学キャンパス訪問授業「ひらめき☆ときめきサイエンス」の1企画「白熱音楽教室」が、東京大学本郷キャンパスで開催されました。

「開催されました」などと書くと他人事のようですが、これは私自身が一貫してゼロから手作りしてきた教室で、今年は画期的な進展がありました。

 何が画期的だったかというと、サイエンスの教室も、たくさんの藝大生たちが「教える側」に回って、中学高校生たちを指導してくれたことが、大変大きな進展だったと思うのです。

 かつてこの教室に、高校生として参加してくれた永田菫さんは、現在東京藝術大学音楽学部の2年に在籍していますが、昨年はパリ留学でこの教室の指導には参加できませんでした。

 彼女は私には小学生時代からの生徒で、かれこれ10年ほどの縁になります。

 かつて「ひらめき☆ときめき」の教室で学んだ中学・高校生が、藝大生として指導する立場に回る年配となり、昨年から演奏指導チームをまとめる中核となってくれています。

 白熱音楽教室は、午前中がサイエンス側からのアプローチ、午後は教室を演奏会場に変えて、音楽のアプローチから、同じ問題を扱うスタイルで続けています。

 今年に関しては、午前中のサイエンス教室にも、多数の藝大生が参加してくれ、生徒指導にもコミットしてくれたのです。こんなにうれしいことはありません。

心臓とヘルツの微妙な関係

 子供たちに教室や廊下を歩いてもらい、その歩数と時間、距離を測らせると、だいたい10歩で6メートル弱を6秒弱で踏破します。

 ここから、おおまかに1分間に100歩程度、つまりメトロノームテンポで100bpm程度の「歩行ステップ頻度」ということになります。

 これを時間に直すと1ストロークが0.6秒程度、逆数をとれば1.6ヘルツ程度、2歩歩いて左右の足が1サイクル運動しますからその半分、0.8ヘルツ程度になる。

 ここで医学あるいは健康科学に目を転じると、安静時の私たちの心拍数は健康な男性で60~70bpm程度、女性はやや速く65~75bpm程度・・・。

・・・というのは、やや本末転倒で、1秒という時間の長さを60進法で分割する一つの根拠として、人間の心拍数、つまり私たちがはっきり数えることのできる、便利な時間単位に合わせて選んだ経緯があることを念頭におきましょう。

 かなり荒っぽく言うなら「1秒というのは人間の心臓の鼓動から選ばれた」と考えることが可能で、1ヘルツという周波数は心臓の鼓動に重なり合う。

 ちなみに周波数の単位「1Hertz」はドイツ物理学者ハインリッヒ・ヘルツに由来し、ドイツ語で心臓を意味する「Herz」とよく似ていますが、ちょっとだけ綴りが違う。

 ただ、それも織り込み済みで、心臓とヘルツの間には微妙な関係があることが分かります

閑話休題

 人間の心拍数は、軽い運動をすると60bpmから上昇し、90~100bpm程度に上昇します・・・これ、先ほどの子供の歩行ステップ頻度と、ほぼ一致することが分かります

 どういうことか。

 歩いたり、走ったりするときの足のステップの「ビート」は、その程度の負荷の運動をする際の心拍数と、大まかに似たような関係にある「らしい」ことが察せられます。

 しかし中学生高校生たちには、あまりこの話はしません。もっと直接計れて面白い量と比較させるのです

あなたの脚の長さと「有効振り子」

 私たちは2本足で歩いたり走ったりしています。左右の脚は前後に往復しますから、一種の「振り子」のような役目を果たしている。

 そこで、子供たちに「単振り子」の測定実験を経験してもらいます。

 ガリレオ・ガリレイ、あるいはそのお父さんで作曲家・リュート奏者のヴィンチェンツィオ・ガリレイが発見した「振り子の等時性」の実験です。

 材料はすべて身近にあるものです。先週、私が近場のホームセンターに行って見繕ってきたロープとゴルフボール、ブルーシート固定用の「ハトメ」を用いたクランプなど、由来の分かったものだけで自作します。

 クランプ部分が重要になるのは、振り子の長さを測定するうえで、ここが効いてくるためです。

 今回は時間の制約から、振り子は私の研究室の大学院生、イジンヨンが工夫して改善、強化したタイプのものを全員が用いました。

 先の写真で藝大生たちが揺らしているのが、この振り子です。

 よく分からない実験装置ではなく、身近にあるものだけですべてを再現し、普遍的な物理法則を知ることが大切です。

 また、子供たち同志で、身体各部位の長さを測らせます。

 例えば、身長170センチの高校生男子だとして、正味の足の長さが80センチ程度、腰までで95センチほど、膝までの長さが45センチ近くであるのに対して太ももは35センチほどで短い・・・といった自分自身の身体のスケールを知ります。

 よく知られるように、単振り子の周期Tは微小振動である限り、錘の重さや振れ角には依存せず、もっぱら腕の長さlで決定します。円周率をπ、重力加速度をgとすると

 と表記されますが、中学1年、2年生に「重力加速度」の講釈をするだけで何時間も食ってしまいます。

 そこでここでは「現象論的」なアプローチに徹します。すなわち測れるもの「オブザーバブル」だけで議論を組み立てるのです。

 先ほどの式を変形して、一歩のステップ・テンポtを

 のように記しましょう。円周率πは3.1415・・・重量加速度g=9.8m/秒2乗 ですので√を計算すると3.130・・・と、偶然ながら円周率に近い値になるので、振り子の長さlと半周期tの間には

 という関係が成立していることが分かります。ここでlの単位はメートルです。

 で、この関係も生徒には教えません。ただ、身近にあるものを使って実験装置をゼロから組み立て、周期を測って関係を考察します。

 振り子の周期は、10往復触れる秒数を数えて、それを10で割れば得られます。平方根つまり「√」という概念を知らない子がいますが、「2乗」は知っているので、こちらを使います。

 先ほどの式から

 となるので、子供たちが測れる「振り子の長さl」とその周期T(の半分tでよい)を方眼紙をあらかじめ作っておいてプロットさせると、結果的に直線的な関係が得られます。

 一歩の時間長さ、つまり半周期tを秒単位で考えるなら、長さ1メートルの振り子で1秒つまり60bpm、つまり「安静時心拍数」の最低値近くで、とてもゆっくりであることが分かります

 九九を参考に、計算しやすい値を並べてみると

81センチの腕で 半周期0.9秒 この値で60を割ると 約66bpm
64センチの腕で 半周期0.8秒 この値で60を割ると 75bpm
49センチの腕で 半周期0.7秒 この値で60を割ると 約86bpm
36センチの腕で 半周期0.6秒 この値で60を割ると 100bpm

 となって、子供たちの歩行ステップや心拍数にやっと到達しました。この値を考察してみましょう。

 人間の身体を「単振り子」としてみる、という極めて原始的なモデルですから、もちろん限界はあります。

 ただ、これは正弦関数を使って記述することに相当し、先々の複雑な議論、フーリエ解析を用いた二足歩行ロボットの安定性などにも、筋道よくつながりますから、これを選びます。

 私たちが「歩く」ときのステップは、頭で考えると「脚」で踏んでいるように思いますが、現実に測定してみると、対応する「有効単振り子」の長さは36センチほどしかない。

 その観点から、測定データを見てみると、太ももの長さが35センチ程度、膝から下の長さが45センチ程度、となっているのが目に入ります。

 人間が、この2つの「振り子」がつながった「連成振り子」として歩行していると考えるモデルを立てることも可能ですし、中学高校生の範囲では、私たちが

「膝から下だけでも歩ける」
「太ももだけでも歩ける」

 といった、融通無碍な身体を持っていることに、新たな視線を当てられれば、私は十分だと思っています。

 ここからさらに、足を失った人、義足のダイナミクスなど、ハンディキャップや福祉に目が向けば素晴らしいとも思います。

 障害は決して特別な人に訪れるわけではない、高齢化が進むなか、誰もがいつか、歩行の自由を失う可能性が高くなっている。

 そんなとき、こんな簡単なバカみたいな計算(先生の計算は動物みたいですねと、優秀な院生諸君に笑われたこともありますが)からでも、私たちは様々な「倫理」、思いやりを持って物事を熟慮することが可能です。

 STREAMMのE(倫理Ethics)は、単なる「べき論」ではなく、このようにサイエンスに根を持つ、参照根拠を伴う倫理で、AIの様々な問題を扱うアルゴリズム・ベースト・エルシー(Algorhythm-based ELSI Ethical, Legal and Social Issues)の本質に直結しています。

モーツァルトはメトロノームを知らない

 さて、ここから先が教室での焦点です。こうやって物理的に振り子を作って、腕の長さをコントロールしながら「たん たん たーぬきの」と私は歌を歌うわけです。

 たぬきは金時計をもっていて、別段ほかのものは揺れませんので、教育的には問題がないものとご理解ください。子供たちは笑いますが・・・。

 で、この振り子の与えるテンポで、モーツァルトを演奏するわけです。

 現代のメトロノームに印刷されている「アンダンテ」などの表示は19世紀末から20世紀初頭にかけて確定したと思われます。

 そもそもこの道具が音楽の世界に定着したのは19世紀に入ってからで、ハイドンも、モーツァルトも、バッハヘンデルヴィヴァルディも、こんなへんてこりんな機械とは縁もゆかりもありません。

 主としてベートーヴェン以降の作曲家がメトロノーム表示を譜面に記しています。

 そんなイノベーション以前の時代、ヴィヴァルディモーツァルトたちが、イタリア語で「歩くように」と書いているのが、楽譜に記された「アンダンテ」にほかならない。

 モーツァルトだって散歩するときは心拍数は102とか104程度で、76なんて徐脈であるわけがない。

 19世紀、十分に偶像化していたい古典派巨匠を権威づけるもったいぶったテンポとして、商品としてのメトロノームに印字された遅いテンポを、私は「国民国家創成期の時代の産物」と見、またその理由をもって棄却します。

 実はアンダンテ不自然ゆっくりである背景には、社会的な問題が存在すると思っていますが、これについては別論としましょう。

 何にせよ、私は100程度の快活なbpmモーツァルトを演奏する。文句がある奴は勝手にしろ、という開き直りですね。

アイネクライネ・ナハトジーク」というよく知られた楽曲があります。セレナーデ13番ケッヘル525というものですが、これの演奏に子供の頃から不満がありました。

 第2楽章だけ、レコード録音の時間が2倍くらい長いのです。

 そして演奏はどれも軒並み中だるみして退屈、我が家には父の遺品でG.ショルティとK.ベームの2つのLPレコードがありましたが、ベームのそれは間延びした老人の時間感覚と、小学生の私には感じられ、我慢ならないと思っていました。

 そういうところから、実は今の仕事に正味でつながっています。

 何とかサクサクと2楽章も演奏したい・・・そう思っていた私は、当初は無根拠に速いテンポでこの作品を演奏していました。

 しかし、のちに物理なども学び、音楽家として自立し、大学に物理や整理を背景にもつ音楽実技の研究室を構えるようになってから、自分にしっくりくるテンポの科学的な根拠を心拍や人間身体のスケールから考えることを始めました。

 いま私は、世の中にあふれ返る録音の、場所によっては2倍近いテンポで「アイネクライネ・ナハトジーク」を演奏します。

 録音して計ってみると、1楽章とほぼ同じ長さになります。4つ楽章全体のバランスも極めてよろしい。

 品よく快活、かつおっちょこちょいで、35歳で死んだ青年作曲家のウイットが明確に実現するように思います。

 だから私はこのテンポで演奏する。誰に文句を言われる筋合いもなく、欧州の権威は犬にでも食わせてしまえばよろしい。

 ここに「私のインスピレーション」とか「霊感が・・・」とかいった議論が一つもないのが重要です。

 あくまですべては、無心な振り子の運動から、また人間の心拍や歩行といった、意識の下のレベルから立ち上がっている。

 だから、この解釈はそんなに簡単にはへこたれないわけです。強いものを導くのは「個性」ではなく「普遍性」で、あえて言えば、そういう普遍を導くのが個性かもしれません。

 2001年に東京藝術大学建築科から修士に進んできた村松一君と、建築家ルコルビュジェの「モデュロール」を検討したのがよいきっかけとなりました。

 だから、私が感謝すべきはルコルビュジェであり、端緒を与えてくれた元学生の村松君、ということになります。

 こんな話の原型を2001~2002年頃に考え、2019~2020年になって子供の教室で実施する頃には、機械学習が一般化していましたので、AIでサポートしてこれらのカリキュラムを行う、7つの基礎を猟歩する「白熱音楽教室」として実施してみたわけです。

 7つの基礎は冒頭にも記したScience(科学)Technology(技術)Reflection(熟慮)Ethics(倫理)Arts(藝術)Mathematics(数学)とMusic(音楽)です。

 これらの頭文字をとってSTREAMM(ストリーム)と名づけて、こうした、中学高校生のための卓越芸術科学教室を実施しています。

 同じ内容で、パリでも、ベルリンでも、アムステルダムでも、ニューヨークでも、サンディエゴでも、基礎の基礎から先端の先端まで、子供の等身大の理解をおいてけぼりにせず、きちんとした次世代人材を育成するのに役立つものとして、展開実施を進めています。

 この教室のもう一つ大切なポイントは「指導者の育成」にあります。

 私には高等学校、大学の専門学部、大学院そして職場の先輩にあたる有馬朗人氏が主導した「ゆとり教育」は、賛否両論がありますが、明らかに欠落していた点として、先生の育成がなかったように思います。

 これは有馬さん自身も「こういうのは自由にやらせた方がいいんだよ、うん」と言ってましたので、確信犯でそうだったのだと思います。

 2005年「世界物理年日本委員会」で私が役目を果たしたとき、慰労で和食の席を設けていただいた折に、そのように耳にした記憶があります。

 で、日立の山荘でご馳走になった和食はおいしかったのですが、私はそうではないと思うのですね、有馬説の「自由にすればいいんです」。

 先日、寺脇研さんとご一緒した際にも、この話を少しさせていただいたのですが、「ゆとり教育」では現場の先生がどうしてよいか分からず、大変に混乱したと認識しています。

「有馬説は性善説に過ぎたのではないか?」というのが私の問題意識です。

「白熱音楽教室」では、東大生も藝大生も中学高校生の指導にあたるようプログラムしました。TA(ティーチング・アシスタント)として、子供を教える経験を持ってもらうのです。

 中学高校で成績超優秀、東大でもトップ数パーセントに入るような秀才でも、子供に何か教えるというときは、しばしば破滅的に何もできない。教育の落とし穴、恐ろしさは、こういったところにあります。

 未来を創る根本は「人づくり」にあります。そして、その『「人を作る」人を育てる』という、二重三重の深慮遠謀が、このような国家百年の計には必須不可欠です。

 STREAMMは東京大学ミュンヘン工科大学Facebook AI倫理研究所、パリ第四大学ソルボンヌ、フランス国立音楽音響研究所IRCAMなどが協力して推進するAI以降世代の教育の根幹をなすキーコンセプトとして、私自身が提起し、採択、推進を始めたところの、まだまだ新しい考え方です。

「人間中心のAI社会」を持続的に成長させるとは、こういうところに根を持つものであると思いますので、できる範囲の領分から、こうした取り組みに精進している、一コマをご紹介しました。

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