世界を舞台に挑戦する日本人に密着取材したドキュメンタリー番組「シャイニングジャパン」の第2弾「シャイニングジャパン~アスリートの飽くなき挑戦~」(dTVチャンネルのひかりTVチャンネル+で配信中)。アスリートたちの挫折や苦労、夢の実現に向けた努力など栄光とはまた違った裏側を描き、彼らの生き様を伝えていく。そんな魅力的な番組を支えるプロデューサーの宮瀬永二郎さんを直撃、番組に懸ける思いを存分に語ってもらった。

【写真を見る】熱意あふれる宮瀬プロデューサーの話は尽きず、インタビューは2時間以上にも及んだ

■ 番組に対する思いを話せるのは、とても嬉しい!

――いつもは取材する側の宮瀬さん、今回、取材される側になるというのはいかがですか?

嬉しいですね。昨今若者のテレビ離れとか言われますが、テレビにはまだまだ良質のプログラムがあります。中でも自らが制作するドキュメンタリー番組は、いろんな人に見ていただきたい。そういう思いをお話できるのは、とても嬉しいです。

――まずは宮瀬さんのプロフィール的な部分からお聞きしたいと思います。フィギュアスケートの選手だったのに続けられなかったのは、なぜですか。

フィギュアスケートの選手歴は13年くらいかな?全日本選手権や国体にも出場していましたが、当時は選手としてだけで食べていくというのは考えられない時代でした。なのでコーチからは「引退したら、一般企業に就職しなさい」って言われたのを覚えています。もし就職しなかったら、コーチになるか、ショービジネスの世界に行くかという選択もありました。

■ 小学生の時にフィギュアスケートの中継を見て「テレビマンになりたい」と思った

――宮瀬さんが今の職業を選択されたのは、どういうことからでしょうか。

学生で就職活動をする時に仕事選びを大まかに分けると、「モノを売る」か「モノを作る」でした。自分はモノを作りたいと思ったんです。マスメディアがその一つでした。でもペンを握る才能はないと思ったので、自分のそれまでの経験を生かし、力を発揮できるのは(フィギュアスケートにつながるんですけど)プログラムや音楽を編集する作業に携わる方なんじゃないかと。ドキュメンタリー番組が好きだったので、そんな番組作りに関わりたいと思い、今の会社に入りました。

――テレビの番組作りにあこがれのようなものがあったんでしょうか。

実は、小学校の時にフィギュアスケートの中継を見て感動してテレビマンになりたいと思ったんです。学校の先生には「君には無理だ」って言われましたが(笑)、なるにはもっと勉強しなきゃ無理だぞっていう意味だと思うんですが、それからスケートは引退して就職しなければとなり、テレビマンになりたいという記憶が残っていて、就職活動で大学の就職課へ相談に行ったら、また「無理だ」と言われました(笑)。

活動1年目はどこのテレビ局にも入れずそれが悔しくて、就職浪人までして再挑戦しました。どうしてもテレビの世界に就職したかったんでしょうね。で、就職して、そこでドキュメンタリー番組を作りたいと言ったら、また「君には無理だ」って言われたんです。

そうやってずっと無理だ無理だって言われ続けて、でも諦めずに企画書を書きまくりましたね。何度転んでも立ち上がる。フィギュアスケートが僕に教えてくれたことです(笑)。入社してから少しずつですが制作をするチャンスをもらいました。今ではたくさんのアスリートや文化人の方々とお仕事をご一緒しています。

――取材対象者と仲良くなる秘訣というものはあるんですか?

これはよく聞かれるんですよ。一緒に仕事して、飲んだりして話していくうちに何となく本音を語ってくれたり…って感じで、実際のところうまく説明できないです(笑)。

■ すごいことにチャレンジしている人たちがいることを伝えたい!

――「シャイニングジャパン」にも出演されている人たちとはどういうきっかけで出会ったのですか?

最初ほとんどのコミュニティーは僕の友達です。広がりはその友達からの紹介や情報がきっかけになることが多いです。シルク・ドゥ・ソレイユで活躍するパフォーマーやニューヨークで活躍するアーティストなど海外で認められて活躍するすごい人たちも、日本に帰ってくると活躍する場がなかったりします。ラスベガスにブロードウェイ、バレエ専用のシアターがあったり、アメリカの方がエンタメ環境が充実しているのがよくわかります。

――世界に挑むすごい人たちを知ってほしいという気持ちとは?

まず、「夢を実現する為の第一歩」を知ってほしいんです。めちゃくちゃ頑張って挑戦したけれども物事は必ず成功に終わるとは限りませんよね。本気で挑戦したけれど当然ながら失敗や負けることがある。でも僕は、たとえ成功に終わらなくとも本気で挑戦した人たちをカッコいいと思うし、そういう人たちが大好きなんです。リスクを承知で日本から海外に飛び出してチャレンジしている人たちがいることを伝えたいって思いますね。

この「シャイニングジャパン」という番組をひとりでも多くの人に観てもらえることで、今後は日本でも出演している方たちの活躍できる場が増えてくれると嬉しいし、そう願っています。

――「シャイニングジャパン」は、いわゆるドキュメンタリー番組ですが、ドキュメンタリー制作で難しいことはなんですか?

一つは撮り直しがきかないことです。「もう一度話してください」ということができない。一瞬一瞬に懸ける想いが強いです。歩いている時、車に乗っている時、試合前なのか後なのかによって質問する内容が変わってきます。いくら密着取材といっても、スポーツ選手は負けているところを見せたくないし、悔し涙も見せたくないんです。それでも取材をしなければならない時もありますし、その時々の駆け引きというか、距離感が難しいです。

また、スタッフとのやり取りの中でカメラマンがいかに僕が求める必要な画を押さえてくれているか、そこで自分が思い描くような画がなければ、カメラマンとは想いがぶつかって喧嘩になる時もあります。でも実際はカメラマンに助けられることの方が多いですけどね(笑)。

ドキュメンタリー番組は決してひとりの力で作ることはできません。取材対象関係者の方々のご協力、僕の無茶な要求に応えてくれるカメラマン、有能な編集マンなど、いろんな方々に助けられ支えられて一つの作品が完成します。

■ 人を変えることができる、それがドキュメンタリーの魅力

――「シャイニングジャパン」の反響はどうですか?

ありがたいことに見てくださった方からは「番組を見て、頑張る気になりました」とか中には「直接に応援をしたいので会わせてほしい」いうお声もありました。ドキュメンタリーの定義はありますが、僕は番組をご覧になった方たちが心温まるような応援したくなるような、見た人が頑張ろうと思えるような構成にしたいと思っています。

――裏で支える喜びや面白さって、何ですか。

人の考え方や気持ちを変えることができるっていうことです。「だめ」「無理」と言っていた人たちが変わるんですよ。そして自分も変わることができます。もちろん取材対象者もそのひとりです。

パラ陸上選手の高松佑圭選手の取材で、彼女は中度の知的障がいがありました。取材前、コミュニケーションがうまく取れるだろうか、インタビューの受け答えが出来るのか、僕は撮影自体するかどうかを取材の直前まで悩んでいました。で、腹をくくって実際に取材したら失敗の連続なんですよ(笑)。

「練習場に入るところを撮らせてね」って言ったら、撮られたくないから日傘で顔を隠して入って行っちゃうんです。その画は使えないじゃないですか(笑)。また、練習中も帽子を深く被って表情を撮らしてくれない。彼女にとっては取材されることなんて練習の邪魔でしかないんですよね。

そこで、高松選手との距離感について試行錯誤しました。そのひとつに彼女はある男性アイドルが大好きで、自分が東京パラリンピックに出場してメダルを取ったら会えるっていう夢を持っているんです。そこで僕はそのアイドルについて勉強しました。まったく興味がないのに(笑)。

――これまで「シャイニングジャパン」に出演された方たちの印象的なエピソードを聞かせてください。

ニューヨークダンサー、NOBUYA(長濱修也)さんから「この番組のおかげで結婚できました」という報告がありました。ダンサーという職業は、日本人には仕事としてなかなか認知されないところがあって信用を得ることが難しいと言っていました。それが、「この番組を見て信用してもらえました」と言って喜んでいました。

それから、元シルク・ドゥ・ソレイユ縄跳びパフォーマーの船木さんは番組がきっかけで日本で仕事が見つかったそうです。船木さんは、話し下手なところがあるんです。もともと理系のガリ勉で宇宙が大好きで日本の某ロケット会社に就職したくて面接を受けたら開始5分で「君には向いていない」と落とされました。落ち込んでいる時にたまたま日本に来ていたシルク・ドゥ・ソレイユを観て、喋らなくても人を感動させることができることを目の当たりにして涙が止まらなくなったそうです。

それから大道芸人を始めて自分の縄跳びパフォーマンス映像をシルク・ドゥ・ソレイユに送ったら、なんとすぐ来てくれとなり、振り返ればシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして6年間ですよ、元オリンピック選手やサーカスで身体能力の高いメンバーの中でガリ勉くんが(笑)。その異色の経歴がアメリカの地元雑誌にも取り上げられて広まると、あのNASAから夢を切り開くテーマについて講演をしてくれないかと依頼がきたんです。違う形で夢を叶えたサクセスストーリーですね。

グラミー賞を2度も受賞しているミュージシャンのヒロ・イイダさん。高校卒業後に当時日本では専門で学ぶことができなかったシンセサイザーを学びに単身でアメリカへ渡りました。それから30年経った今、世界中から年間1,500万人が集まると言われる数あるブロードウェイ舞台の音響システムを作る男へとなりました。ミュージシャンでありエンジニアでもるヒロさんの才能は、アメリカで有数の音楽家や舞台演出家もなくてはならない存在だと言います。

トイレの神様」の歌で有名な植村花菜さんは、今はニューヨークでこれでもかっていうぐらい日本語で歌っています。日本語には日本語でしか表現ができない美しさがあるから、あえて英訳にする必要はないと言います。彼女の日本語の歌声は今、ニューヨーカーに受けています。

由水南さんは劇団四季で演技指導するぐらいの方でしたが、どうしても小学生から思っていたブロードウェイ俳優になる夢が諦められなくて30歳を過ぎてから再挑戦しました。100回以上のオーディションを受けてようやく夢がかないました。夢を追い20年です。血のにじむような努力でつかんだのに、でも、さらりと「運が良かった」って言うんです。カッコいいですよね(笑)

みんなそれぞれ魅力あふれる人物で話は尽きません。そういう方々の頑張りを見てほしいし、他にも伝えたい人物がいっぱいいます。アフリカにもヨーロッパにも大勢いますが、まだまだ伝えられていないのが実状です。そういう方々をこれからも「シャイニングジャパン」で伝えていければと思っています。

■ 夢は本を書くこと

――宮瀬さんの経験をたくさんの人に伝えてほしいですね。そんな宮瀬さんの夢は何ですか。

僕はいつか本を書いてみたいと思っています。今までヨーロッパ、アフリカ、中東、オセアニア、北アメリカ、南米と世界中でロケをしてきて多くの文化人やアスリートと出会ってきました。またその地で触れ合った人や文化、映像で表現できなかった様々な出来事を、ほとんど本当のことは言えないかもしれませんが(笑)、いつか本に残せたらなぁなんて思います。

映像って残らないんですよね。放送したら終わっちゃうみたいな、"書"というのは時を経ても残りますよね。僕の取材に協力してくださった文化人やアスリートのその瞬間の、まるで歴史のような出来事を書き残すことが出来たらと思います。海を渡ってもたくさんの人に読んでもらえるような本をいつか書いてみたいです。

――「シャイニングジャパン」は配信ですが、地上波ではない魅力って何ですか。

配信っていろんな挑戦ができるし、内容の自由度も高くて可能性が詰まってます。若い世代にもぜひ見てもらいたいので、「シャイニングジャパン」が15分尺っていうのには意味があるんです。この15分は携帯電話で見ても集中できる時間だと思うからです。

――では、最後に番組の視聴者に向けてメッセージをお願いします。

この番組は「新しい発見」がキーワードです。様々な世界で挑戦をしている人がいるんだという発見する楽しみを持っていただき、ぜひその人たちを応援してもらいたいです。そして、見てくださった方々が絶対に元気になれる構成にしてあるので、元気のない方、ある方も僕たちと一緒に世界中を旅して「新しい発見」をしてもらえればと思います。(ザテレビジョン

世界を舞台に挑戦する日本人に密着取材したドキュメンタリー番組「シャイニングジャパン」の誕生秘話を語る宮瀬永二郎プロデューサー