太平洋戦争GHQにより軍需産業を禁止された日本は、民間に数多くの技術者が流れました。旧軍が持っていた物資も一部、民間に流れており、なかには戦後発展に貢献したものも。魚群探知機の元になった音響測深機もそのひとつです。

魚を探す魚群探知機の誕生は終戦直後の日本で

網を使う大半の漁船はもちろん、漁業に関わっていなくても、船に乗って海釣りなどに行くと必ずお世話なるのが、海中の魚の位置を特定する魚群探知機です。

これは元々、軍事技術を応用して開発したもので、終戦直後の1948(昭和23)年に日本で誕生しました。作ったのは、2020年現在も船舶用レーダーやソナーなどの船用電子機器をはじめ、GPS関連機器や医療機器などを手掛ける古野電気(兵庫県西宮市)です。

古野電気は当初、古野電気商会として1938(昭和13)年、古野清孝さんによって長崎県に設立されました。当時はラジオ製造販売を主業務としながらも、漁船の集魚灯工事やラジオの修理などを手掛ける会社だったそうです。弟の清賢さんと共に漁船の電気工事を請け負うなかで、漁業だけ技術発展が遅れていると考えるようになります。

1943(昭和18)年、清孝さんは船上で修理をしている際に、親しくなった船頭から「海面に泡の出ているところには魚が沢山いる」という話を聞きました。この話に興味を持った清孝さんは、魚のいる場所を科学的に特定できないかと方法を模索します。

当時から、水中の泡が超音波を反射するということは知られており、清孝さんはその超音波理論を応用しようと考え、終戦直後の1945(昭和20)年12月から本格的な研究に着手しました。

魚群探知機の原型は旧海軍の放出物

この時、水中に超音波を発生させる装置として注目したのが、たまたま、旧日本海軍の放出物資のなかにあった「音響測深機」でした。船底に取り付けたセンサーから超音波を発し、返ってきた音波で海底の様子を確認する、「アクティブ・ソナー」と呼ばれるものの一種です。

「ソナー」は元々、潜水艦への備えとして発展し、現在でも潜水艦を発見するための方法のひとつです。なお、古野電気が当時入手したものは、おもに座礁防止のため、海底までの距離を測る際に使われていたものだったようです。

ちなみになぜ、軍事物資が簡単に手に入ったかというと、おそらくポツダム宣言受諾から進駐軍が上陸するまでのあいだである1945(昭和20)年の8月下旬から、日本政府が秘密裏に、火器や爆発物など以外の軍需物資を民間に放出したことが理由なのではないでしょうか。

その軍用音響測探機ですが、海底の地層境界からの反射波を捉えるといった原理であったため、ほとんど水でできている魚からの微細なエコーを受信できるようにするには試行錯誤を重ねたようです。

約1年かけ、軍用の音響測深機を改造して魚群探知機のプロトタイプを完成させると、1947(昭和22)年4月に長崎県の五島灘で最初のテストを行います。船の走航時に発生する泡が探知を邪魔するという課題はありましたが、それさえクリアすればしっかり魚群を探知できることがわかりました。

漁師は魚群探知機をどう受け止めた?

1948(昭和23)年12月、清孝さんと弟の清賢さんは、合資会社古野電気工業所を設立し、魚群探知機の販売を本格的に開始しました。しかし、機械が流通すれば仕事がなくなると勘違いした漁師や、買ったものの使い方がわからない漁師が多かったため、最初はあまり売れなかったそうです。

そこで同社は1949(昭和24)年5月に、五島列島の岩瀬浦漁港で漁獲高が漁港最下位になっている船に協力する形で、魚群探知機を搭載し漁をしてもらうという、いまでいうプロモーション活動を行います。このときは20日間の操業で漁港内漁獲高トップに躍り出て、その後も3か月連続で同港トップとなったそうです。この成功により魚群探知機の有用性は一気に話題となり、いまや漁船にはなくてはならないものになっています。

古野電気工業所はそののち、古野電気株式会社と社名を変えいまに至ります。魚群探知機はその後も継続して改良されており、「資源管理型漁業に貢献すべく技術開発を重ねてまいりました」(古野電気 広報)といいます。2020年現在では、魚種や魚のサイズ、また海底や湖底の底質(水底を構成している表層のこと)まで判別できる魚群探知機を開発し、その技術はさらなる発展を見せています。

戦後直後の日本では、こうした軍事由来の技術が民間に流れ、画期的な製品が開発される事例がほかにも見られました。有名なところでは自動車などもそうですね。

1950年ごろの古野電気工業所(画像:古野電気)。