公務員法などの「拡大解釈」(違法との解釈もあり)で押し切った東京高検検事長の「異例な」停年延長問題。

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 この報道があった時点で、構造面から検察版「桜を見る会」と記しました。

 ところが、その背景が明らかになればなるほど、本当に「桜を見る会」状態であることがつまびらかになっているようです。

「法令遵守」を楯にとる「正義」の黒い闇について検討してみたいと思います。

ぴたりと止まった政界捜査

 黒川東京高検検事長の「異例の停年延長」が「閣議決定」されたのが1月31日

 その直後、絵に描いたように報道されたのが、統合型リゾート(IR)事業をめぐり、政界に中国企業が賄賂工作を行った容疑で逮捕されていた秋元司容疑者(48)など5人に対する刑事責任の追及を見送る方針であることが報道されました。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2020020300831&g=soc

 また、河井克行・前法相と妻の案里氏の公選法違反容疑についても自民党本部から「選挙資金1億5000万円」が河井夫妻側に渡っていたことが判明、自民党内にも衝撃が走りました。

 この件に蓋をするため、異例の「定年延長」に踏み切ったのではないかといった報道もなされています。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200211-00000022-pseven-soci&p=1

 ここに見られるのは何か?

「法治」とは(主として成文化された)法律に基づいて統治や裁判が行われることを示す術語です。

 これに対する反意語は、一部これを知らない政治家もいたようですが、一般に「人治」人の統治と呼ばれる、原始的で未開な法制度を示す言葉が知られています。

 この人治とはどのような状態を指すのでしょうか?

日本人の大好きな未開司法

 典型的な「人治」として、時代劇に描かれる「奉行所」での「お裁き」が挙げられます。

大岡越前」「遠山の金さん」など、庶民のヒーローのように描かれる「人治」の統治とは、成文法に基づかない、いわばその場その場の「アドリブ司法」、都合のいい法の条文や解釈を当意即妙に作り出したりしながら、融通無碍に裁いていく。

 日本人はこういう「司法」がどうも大好きなようで、法律の一言一句に凝り固まって、がちがちに進める司法には「人気」がありません。

 将軍が「暴れん坊」になって庶民の個別の刑事事件に首を突っ込み、超法規的な決定をインプロヴィゼーションするようなフィクションで、時代劇の視聴率で数字が高く出たりする。

 そういう土壌があるところで「セクシーは楽しい」とか「検事長の停年は勝手な法解釈で延長してもよい」といったガバナンスの捻じ曲げがあり、社会全般もそれに対して感覚が鈍磨している。

 世論が実質的に認めているのだから(実際は飽き、忘れているだけのことが多いですが)、何だって結果オーライ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の変形のような事態が跋扈している。

 3つの国権(司法・立法・行政)の事実上の在り方に対して、亡くなられた團藤重光先生は、きわめて深い憂慮を示しておられました。

 こうした問題に、アカデミックな疑問を私は抱きます。

 およそ政治的な問いの立て方ではありません。この違いは決定的ですので、少し丁寧になぞっておきましょう。

 政治的とは、基本的に党派を組んで特定の主義主張を展開するものです。

 私は芸術音楽家という、およそ徒党を組んだり、党議拘束で自由な思想や行動が縛られるようなことを最も忌み嫌う人種です。

 まず、右翼が苦手です。しかしそれ以上に、左翼は蕁麻疹が出るくらいに大嫌いです。

 いずれも徒党を組みますが、とりわけ左翼系の党派に関連して郷原信郎弁護士の主張される「法令遵守」的なトンデモない退廃を平気で押し通すのがおり、長年そういう被害に遭い続けてきたので、政治は勘弁してもらいたい。

 私はそういう意味で、無色透明なアカデミアの立ち位置です。

 いかなる拘束や因襲からも逃れて、一芸術人としての発言のみを淡々と指摘していく。それだけに徹してきましたし、今後もそれは変わりません。

 現実には、節度あるリベラル政治家の友人は少なくありません。いずれも例外なく、極端な右あるいは左のドグマを振り回したりしない、穏当な人々です。

 そういう穏当な観点から「法令遵守」の最悪の例を、一つ引いてみたいと思います。

「法令遵守」の盾の裏

 2018年7月末日をもって、私はオウム真理教事件に関するメディア上での言及を基本的にしないとマニフェストし、その後、準備された書籍原稿などを除いて、一切のコメントをやめました。

 人生の中でその時期が終わり、必要性が消えてしまったので言及する理由がないのです。

 私はただ、自分の同級生地下鉄サリンを散布する実行犯となってしまったことから、彼の助命や延命のためだけに、一個人としてできることを努力してきました。

 死刑廃止論者でもなければ、人権活動家でもありません。

 むしろ、そのような運動をする人に強い違和感を感じたあたりについてのみ記すなら、執行直後、茫然自失の家族に対して「今後の死刑廃止運動のために」を連呼する弁護士などを目にして、人間として心底の疑問を持ったりもした。

 こうしたことは一期一会であって、踏み込むべきことと踏み込んではいけないことがあるはずです。その境界が麻痺したケースを見たように思いました。

 その最悪のケースが、2018年7月に執行されたオウム事犯の大量処刑です。

 これについては同年3月の時点で、「夏の国会会期末に合わせて、オウムの処刑ショーが企画されている」という情報を関係筋から耳にしました。

 強い統治者をアピールするうえで死刑執行は法務大臣をはじめとする関係政治家の「次の選挙の集票」と正の相関をもつという説は、長らく伝えられ、ご存じの方も多いと思います。

 本当にそのような背景なのか、科学的な統計など目にしたことはありません。しかし、験を担ぐのが選挙という水物の常であるのも、また現実でしょう。

 果たして2018年7月6日、予告されたとおり「ショー」は全国にメディア報道されることで、文字通り「公開」で行われました。

 人々はなぜ、突然行われるはずの司法の判断であるのに、テレビ局パターンフリップ、また長年関連の問題でコメントしてきた御用評論屋がスタンバイしていることの不自然さを感じないのだろうか?

 30代前半までテレビ番組制作に関わって来た一個人として、こうした準備を万端整える具体的な面倒、手間暇は分かりますので、ワイドショー形式で「論評」されながら執行されたこの「刑事罰」は、まさに公開の見世物になっていたと冷静に指摘したいと思います。

 こういうものを仕かけた人が確かにおり、実際にそれに携わらされた執行官たちもあり、そこで命を終えた既決者たちがあった。

 すべては「法令を遵守している」と強弁できます。

 しかし、どうしてそのタイミングで、つまり2018年7月、国会開けと言われていた時期は、会期の延長に伴って閉幕直前と直後に分かれ、死刑執行を前半と後半を分ける法的根拠などは存在しなかった。

 後半に死刑執行を迎えた死刑囚は、3週間のタイムラグをどんな気持ちで生きたのか、また、その家族にとっては、ただただこの世の生き地獄としかいいようのない、とんでもない事態が発生しました。

 すべては「法令遵守」で頬かむりできてしまう。そういう道徳と人倫における腐敗の極を、指摘しないわけにはいきません。

 これは一切の「政治的」な主張と無関係に、また国家体制などのいかんによらず、法治の根幹にかかわる倫理の問い、学術の問いとして厳しく確認されるべき本質的な問題です。

 すなわち、民主主義を標榜しようと君主制の国家であろうと、社会主義全体主義の国家であろうと、こうした法治の混乱は混乱として糺されるべきものにほかなりません。

 オウム事犯の最終審から7年ほどが経過した時点で、確定者の「移送」が始まりました。

「平成で起きたこと(オウム事件)は平成のうちに」などという、法のどんな条文を引いても出てこない台詞も聞こえてきました。

 天皇の代替わりと関係して慶事にかぶらないようこの時期が選ばれた云々、いくらでも言い逃れがききます。

 しかし、現実には政権政党の党首選前のタイミングで「法令を遵守」して、文明国の所業ではないと世界的に呆れ果てられた13人の大量処刑がメディア公開で行われた。

 直後にローマ法王フランシスコは1700年来の教会法を改訂、全カトリック圏での死刑の禁止を宣言することになった。

 この大量処刑に関連して登場する主要な人名が、今回の東京高検検事長定年延長問題周りで軒並み出てくるところに、深い闇を見る思いがします。

「遵守」を強弁しつつ、その実「法治」の果つる現実が、21世紀の日本にあることは、あらゆる政治的な思惑と無関係に、私たちが正面から向きあうべき極めて重篤な社会の症状と言わねばなりません。

(つづく)

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オウム真理教の教祖・麻原彰晃の死刑執行で記者会見する上川陽子法相(2018年7月6日、写真:ワードリーフ/アフロ)