『ザッポスの奇跡』から10年

今日は、ずばり、ザッポスの話をする。

今から10年くらい前のこと、私は、『ザッポスの奇跡』という本を書いた。当時、アメリカのビジネス界に旋風を巻き起こしていた「ザッポス」という靴のネット通販会社の「企業文化戦略」についての本だ。

より正確にいえば、私とザッポスとの出会いは、ザッポスがブレークするちょっと前、まだ、「ザッポス」という社名が、アメリカのビジネス界においてもまだ比較的無名だった頃だった。幸いなことに、ラスベガスで開催された『コミュニティ2.0』というテクノロジー寄りのカンファレンスで、ザッポスの若きカリスマCEO、トニー・シェイのスピーチを聴く機会に出くわした。

「ザッポスでは、企業文化を戦略としてWOW(驚嘆)のサービスを顧客に提供し、創設から10年間で年商1,000億円に手が届く企業に成長した」

という意味のことを型破りのサービスの逸話を交えながら飄々と語るトニーに魅了され、スピーチが終わるなり挨拶をして、ザッポスを見学に行く約束を取り付けたのだった。2008年5月のことだ。


アマゾンが屈した史上最強の顧客主導型企業とは?

さて、ザッポスは私が最初の「ザッポス本」の出版に向けて今まさに最終稿を仕上げようとしていた2009年の7月に「あの」アマゾンに買収されることが発表された。「買収」というと、大きなものが小さいものを食らうことだと、つまり、「買収されたほうの負け」だと解釈する人が多い。だが、この場合は違った。買収のニュースを聞いた時、私ははっとした。「あのアマゾンが負けを認めた」と思ったからだ。

このロジックを理解するには、まず、当時の市場背景を知る必要がある。

ザッポスが先駆者となった「靴のネット通販市場」には、アマゾンも2007年にエンドレス・ドット・コム(Endless.com)という靴とアクセサリーに特化した別サイトを立ち上げて参入している。それまで、アマゾン・マーケットプレイス内でのカテゴリー拡張という形で市場開拓していたアマゾンが、「別サイト」を立ち上げたということからも、靴のネット通販市場制覇にかけた意気込みがうかがい知れる。

しかし、アマゾンは、この市場でどうしてもザッポスに「勝つ」ことができなかった。靴のネット通販という、ザッポスが起業した1999年当時には誰も投資しようとしなかった「ありえない」ビジネスにおいて、2007年までには、ザッポスは圧倒的優位を築いていたからである。


靴をネットで買う「心理的ハードル」を越えさせる驚嘆のサービスの数々

もとより、靴をネットで買うことに関する心理的障壁は高い。普通に考えて、靴というのは「試着せずには買えない」商品である。でもネットでの買い物とは「バーチャル」な世界である。手元に届く商品は本物でも、それを選ぶプロセスはバーチャルである。

靴というのはブランドによって「フィット」がまったく違う。幅が広い靴もあれば、狭い靴もある。素材の硬さ、柔らかさ、インソールの感じ・・・。靴によってそれぞれ個性があって、履き心地がまったく異なるのだ。それをどうやって、試着せずに買えというのだろう。

そんな「心理的ハードル」を超えさせるために、ザッポスはその仕組みにあらゆる工夫を凝らした。

まず、ネットのお買い物でも「試着」ができるように、送料も返品もタダにした。しかも返品は外で履かなければ購入から365日間OKである。「念のために、自分が『これ』と思うサイズと、そのひとつ上のサイズと下のサイズ、つまり3通り全部オーダーしてください。そして自宅で『試着』していただいて、合わないものはすべて返品していただいて結構です」と、ネットでの新しい買い方をもってして顧客を促したのだ。

でもそればかりではない。靴を買うには相談する相手が欲しいだろうと、コンタクトセンターを大々的に運営した。24時間営業、年中無休のコンタクトセンターである。2004年に、それを実現するために、本社をサンフランシスコから、「眠らない街」ラスベガスへと移転した。年商200億円にも満たない「ネット通販会社」が24時間営業年中無休のコンタクトセンターを運営する。どう考えても正気の沙汰ではないように思えた。


「人が要らない」ネット通販へのアンチテーゼ

ネットの普及が始まった頃の「ネット通販ビジネス」の、起業家や投資家にとっての価値提案とは、「人が要らない」ことだった。そして店舗もいらない。つまり、コストを最小限に抑えられる。だから、当時はコンタクトセンターを持たないネット通販ビジネスも多かった。

しかしザッポスは、サイトの左上に大きな文字でフリーダイヤル番号を表示して、「いつでも電話をかけてください」と宣伝したのだ。

一般的に、ネット通販の受注チャネルというのは、「ネット」がメインである。ザッポスもこの類にもれず、今も昔も、ネット経由での受注が全体の95%程度、電話での受注は5%未満だ。売上を創出しないコンタクトセンターは、「コスト・センター(コストを生むだけのもの)」のようにも見える。だからごく一般のネット通販会社はコンタクトセンターに力を入れていなかった。たとえばアマゾンを例にとれば、顧客はアマゾンに電話をかけることはできなかった。(今はかろうじてサイト内のお問合せフォームから顧客サービスに連絡すると折り返し電話をしてくれる仕組みがある。)

でも、ザッポスは、顧客がわざわざ電話をかけてきてくれる機会を、またとない好機だと考えた。「売上」は獲得できないかもしれない。でも、顧客を感動させるWOWのサービスを提供して、ごく個人的かつ感情的なつながりを築き、「生涯顧客(ライフタイム・カスタマー)」を獲得することができるのならどんなコストも安いものだ。


アマゾンを超越し続ける、革新的経営の実験場、「ザッポス」

アマゾンは効率主義の会社である。悪くいえば冷酷な会社でさえある。方針に合わないことにはさっさと見切りをつける。アマゾンに買収された会社の中には、ザッポスほどラッキーでなかった会社もある。たとえば、「ダイパーズ・ドット・コム(Diapers.com)」で知られたクイッツィ(Quidsi)社は、ネットでの紙おむつの販売を巡る熾烈な価格競争の末アマゾンに売却することを余儀なくされ、その後事業閉鎖の憂き目を見た。ザッポスとは違い、クイッツィを独立事業として存続させておく気はアマゾンにはなかったのだろう。

ザッポスがアマゾンに買収されて(「ザッポスとアマゾンが結婚して」とザッポスは表現する)はや11年。「独立した経営を続ける」という買収時の約束通り、ザッポスは依然として独自路線を行っている。「ザッポス・カルチャー」も健在なように見える。アマゾンが「ザッポス化」したということも、ザッポスが「アマゾン化」したということもない。この11年の間に、ザッポスのトニー・シェイは「ホラクラシー=セルフ・マネジメント」という新しい組織体制を導入し、称賛と同じくらいの批判も受けてきた。「社会的実験」と揶揄されることも多い「セルフ・マネジメント」だが、特に干渉することもなく、その自由な実践を許していることからも、ザッポスに対するアマゾンの尊敬の念は明らかであるように私には思える。

ネット通販において、「システム=IT」を究極にまで磨き上げることによって、ミスをなくし、顧客がそもそも企業にコンタクトしなければならない理由をなくすというのが、「顧客サービス」に対するアマゾンの初期の哲学であり、アプローチであった。生身の人間の力を最大活用するという、まったくの対極にあるザッポスのアプローチを社内に取り込み、観察および研究するというのが、アマゾンによるザッポス買収の思惑ではなかったかと今となっては思える。そしてその「観察および研究」というのは今でも続いているように思う。アマゾンCEOのジェフ・ベゾスは宇宙旅行の商業化を夢見てブルー・オリジン(Blue Origin)に出資しロケットを飛ばし続けるが、それと同様に、人の力を最大限に解き放つ組織の在り方を実験観察する目的で、「ザッポス」という名のラボに投資をしているようにも思えるのだ。そういった意味では、買収から11年が経った今でも、ザッポスはアマゾンを超越した存在なのである。

アマゾンを超越し続ける「ザッポス」という存在