(柳原 三佳・ノンフィクション作家)

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 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、横浜港で停泊していた大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」。隔離対策が長期にわたり、乗客の不安とストレスが高まる中、2月19日、感染が確認されなかった約500名の方々の下船がようやく始まりました。

 しかし、翌20日には以下のような残念なニュースが報じられています。

『クルーズ船の乗客2人死亡 新型コロナ感染確認の80代の男女』
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200220-00000033-mai-soci

 優雅な船旅を楽しむはずだったのに、一転、「目に見えないウイルス」に怯えることとなり、その上、命まで奪われてしまう・・・。

 船旅には想定外のリスクが隠れていることを、改めて突き付けられた思いです。

幕末の船旅も「病」との闘いだった

 長い洋上の旅、しかも、「船」という閉ざされた空間の中での病気や感染症への恐怖は、今も昔も同じでした。

「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、1860年、今から160年前の幕末に、「万延元年遣米使節」の随員としてアメリカに渡っているのですが、このとき彼が記した『訪米日記』の中にも、船中で病死者が出たときの興味深い記述が残されていました。

 それは、1860年、閏(うるう)3月9日のことでした。

 この日の日記から、一部抜粋してみましょう。

『昨夜中に水夫二人病死す。この船、数日アスペンヲルに停泊せるが、同所は気候も水もはなはだ悪しきによりて、船中病に臥すもの少なからざりしなり』

 アスペンヲル(アスペンウォール)とは、パナマ運河の西側にある現在のコロン港のことです。

 1860年1月、江戸からポーハタン号という艦船に乗って太平洋を横断し、パナマに到着した一行は、そこで船を降り、生まれて初めて目にする蒸気機関車パナマ地峡を横断します。

 当時はまだ運河は完成しておらず、船に乗ったまま大西洋側へ移動することができなかったのです。

 蒸気機関車で約3時間、ようやくアスペンウォールに着いた一行は、そこでアメリカ側が用意したローノーク号という艦船に乗り換え、ワシントンに向けて北上することになりました。

 しかし、蒸し暑い灼熱の港で長期間停泊していたこの船の中では、体調を崩すものが続出しており、そのうち2名が死亡してしまったのです。

亡くなった水夫を丁重に水葬

 佐野鼎の日記には、アスペンウォール港で亡くなった2人の葬儀の模様が克明に綴られていました。

『今日、水葬をおこなう。帆木綿にて人體を入れるべく袋を縫ひ、これに死者を入らしむ。この袋に體を入れ、板の上に載せ、上に布の幕をおおい、甲板上の中央に水夫大勢にて担(にな)い出し、台の上に据え置き、船中、将官らことごとくここに出でて冠を脱し、伶人(*音楽を奏する人のこと)等楽を奏す』

 船上での遺体の扱いが、実に細かく観察されています。

 牧師が祈りをささげる場面はこう記されていました。

『ときに僧官、読経をなすこと暫時にして、衆人皆涙を流す。引導わたして後、水夫ら大勢来り、彼の死者を両の舷に担い行き、銃玉を足部の方に着け、板の上より水中に投入するなり。この體を見て誠に哀傷を催さざるものなし』

 さらに佐野鼎は、こうも綴っているのです。

『彼らの妻子らは、定めて家郷にありて帰帆を待つべきに、空しく洋中の魚腹に葬るとは、はなはだ悲しむに堪えず』

 航海の途中で命を落とし、深い海の中へと沈んでいくアメリカ人水夫の亡骸を見送りながら、故郷で彼らの帰りを待っているであろう家族の悲しみにも思いを馳せる佐野鼎・・・。彼の優しさが伝わってくる一節です。

 水葬が終わった甲板では、すぐに亡くなった水夫らの遺品のオークションが始まりました。衣類や時計などを船員たちが競り合って買い取り、売上げた金は遺族に手渡されるのが習わしだったと言います。

身分で評価が割れた「水夫の死を悼む」ということ

 さて、この水葬の場面については、佐野鼎以外にも、複数の使節たちが日記等に残していました。ここで興味深いのは、身分によって、この出来事に対する受け止め方が全く違っていたことです。

 身分制度がはっきりしていた当時の日本では、下層階級の家来が死んだとしても、その死は犬猫の死と何ら変わりはありませんでした。つまり、将軍や大名など高位の人物が、下級の者の死を悼むことなどありえなかったのです。

 それだけに、一水夫にすぎない者の死を、ローノーク号の提督が「冠を取って」悼む姿は、日本人たちに大きな衝撃を与えたようです。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)の中には、初めて目にするアメリカ式の水葬を見て、批判的な言葉が飛び交うシーンが出てきます。

「水夫ごときが病気で死んで、その葬儀に提督まで出てくるとは、いやはや、メリケンという国には身分の区別というけじめがないのか」

まことに、礼儀を知らぬにも程がある」

 しかし、佐野鼎たち下級の従者は、まったく異なる驚きをもってその光景を見ていました。

「まさか、提督自らが最前列にお出ましになり、あのように弔意を示されるとは・・・。同じ艦に乗っている仲間同士、ここでは誰もが、同じ人間として扱われているのですな」

 一行はこの後、ローノーク号に乗って北上。日米修好通商条約の批准書を当時のブキャナン大統領と交わすため、アメリカの首都・ワシントンへ向かいます。

 そしてその後、フィラルフィアやニューヨークも訪れ、さまざまな施設を視察し、カルチャーショックを受けるのです。

 しかし、アスペンウォールの港で見たこの水葬シーンは、

「これこそが、アメリカという国のあり方なのか・・・」

 という衝撃を、初めて彼らに与えた出来事だったのかもしれません。

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