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有数の高性能モデルを生み出していた

textMick Walsh(ミック・ウォルシュ)
photo:James Mannジェームズ・マン)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
第2次世界大戦が終了した頃、フランスタルボ・ラーゴは世界でも有数の高性能モデルを生み出していた自動車メーカーの1つだった。その最たるモデルの1つがT26グランドスポーツだろう。

フロントには排気量4.5Lの直列6気筒。グランプリ・チームに好まれ、ル・マンでの勝利を獲得するのに充分な性能を誇った。エンジンはツインカムに改良を受け、ブレーキは油圧システムに更新されていたが、ボディは戦前のデザインへ手直しを加えたものだ。

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タルボ・ラーゴT26グランドスポーツ・クーペ(1949年

作られたのはわずか29台。シャシーはフランスでも最も優れたコーチビルダーへ納入されたが、まだ戦後の経済は厳しく、経営に苦労していた。高級車に対し多額の課税を決定した政府によって、フランスの崇高なコーチビルド文化は徐々に廃れていくことになる。

コーチビルダーの1つ、フィゴーニ・エ・ファラッシ社がボディを製造したグランドスポーツは1台のみ。洋服についているジッパー(ファスナー)の製造で成功を収めた、ムッシュ・ファヨールが指定した職人集団だ。

イタリアまれのジュゼッペ・フィゴーニとオウィデオ・ファラッシが創業したコーチビルダーで、1930年代には優雅なオーダーメード・ボディの製造で広く知られる存在となっていた。フランス自動車メーカードライエのクルマも多く手掛けている。

才能あふれるフィゴーニのスタイリング

フィゴーニは第2次世界大戦後も、フルサイズモデルを職人が叩く前に、クレイモデル(工業粘土のスケールモデル)を自らスタイリングし続けていた。50才を過ぎて全盛期は終わったとの声もあったが、1949年のパリ・サロンに出展したグランドスポーツ・クーペはグランプリ・エレガンス・エド・コンフォートを獲得。彼の才能を裏付けた。

ジッパーキングことファヨールが、グランドスポーツスタイリングにどれだけ口出しをしたのかは不明だが、フィゴーニが手腕を奮ったという評価がもっぱらだ。ファヨールの業績を称えるため、フロントグリルの上にジッパーをモチーフにしたクロームメッキのトリムを思いついたのが誰かわかっていない。

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タルボ・ラーゴT26グランドスポーツ・クーペ(1949年

それでも、全体的なスタイリングは、フィゴーニらしい大胆な特徴が表れている。ティアドロップ形状のサイド・ウインドウなどは特に。

伝統的なコーチビルダーはどこもそうだったが、フィゴーニもフェンダーとボンネットが滑らかにつながるポンツーン・ボディの流行と対峙した。彼はそこへ、大胆なディテールを与え、華やかに仕上げている。

ファストバックのボディラインを強調するように、サイドシルからリアフェンダー後端へと伸びるクロームのトリムが豪華。フロントは、1灯のヘッドライトが垂れ下がったグリルの両端に付く2灯のスポットライトと呼応する。

全体的に水のような質感を感じさせるフロント周りだが、フランスの雑誌はサメと表現した。フィゴーニはこのフロントノーズのデザインを、様々なシムカにも与えている。

カリフォルニアで救われたグランドスポーツ

完成したグランドスポーツは、ファヨールの元へ1948年10月8日に納車される。彼のガレージには、フィゴーニがボディを担当したタルボ・レコルドが既にあり、そこへ加わるかたちだった。

見事なボディをまとったグランドスポーツだったが、フランスで当時人気だったコンクールイベントには姿を見せなかった。ファヨールは少しクルマに疲れていたようだ。ジッパー・ビジネスの利益が急激に悪化し、請求書の支払いが難しかった。

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タルボ・ラーゴT26グランドスポーツ・クーペ(1949年

1年後、クルマコーチビルダーのフィゴーニの元へ返ってくる。1949年のパリ・サロンへ展示されると、こちらも優雅なドライ175コンバーチブルと共に大きな話題を巻き起こした。

タルボの歴史に詳しいピーター・ラーセンによれば、フィゴーニ・グランドスポーツが、1950年代にカリフォルニアへ持ち込まれるまでの詳細はわからないままだという。だが、グランドスポーツは、ロジャー・バーロウによってアメリカに輸入されたと考えられている。

彼はハリウッドを拠点にする輸入車の専門店、インターナショナルモータース社の人間だった。本来はオーナーに渡るはずだったのだが、実際それから先の命は、リンドレー・ロックの手に委ねられた。

UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の技術者で、フランス語も流暢に話せたリンドレー。フランスコーチビルド自動車への情熱も高かった。

1950年から1960年にかけて、リンドレーは中古車情報を調べて足を運び、廃車置場に置かれていたタルボを救っていた。多くは安価に購入し、ボディの良くないものはロサンゼルスの倉庫へ保管していた。

一度は諦めかけたタルボ・ラーゴ

フランスコーチビルダーが生み出した美しいボディたちは、この場所で2001年にリンドレーが亡くなるまでひっそり残されていた。そのことが明らかとなったのは、彼の死後、妻のベディが倉庫の整理を始めたことがきっかけだ。

一方でチェコ共和国では、フランティシェク・クデラと彼の息子、ロバートグランドスポーツの復元を長い間夢見ていた。彼らの自動車への熱い思いは、クデラが初めて手に入れた、戦前の998cc 2気筒エンジンを積んだエアロとさかのぼる。

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タルボ・ラーゴT26グランドスポーツ・クーペ(1949年

「父は50年以上もクルマを収集しています。メルセデス・ベンツ500Kと同時に、グランドスポーツスタイリングをとても気に入っていました。家業から引退したことをきっかけに、ワークショップを作り、タルボ・ラーゴの復元車両を探し始めたのです」 とロバートが話す。

そんな中、2010年クラシック・コレクションのオークション情報を知る。その中に含まれていたのが、ジャックソーチク社のボディをまとった、シャシー番号110109グランドスポーツ。一度は復元の希望を抱いたそうだ。

「その短いシャシーは極めて珍しいのです。述べ29台しか作られていません。入札しにレトロモービルへ足を運びましたが、悪夢に終わりました」 と振り返るロバート

クルマは酷い状態だったのにも関わらず、入札は荒れました。価格は上限を超え、最終的にスロバキアの人物が、信じられない価格で落札しました。わたしたちの夢は終わったかのように感じましたよ」

偶然見つけた3台のグランドスポーツ

翌日、クデラはタルボ・ラーゴ・グランドスポーツに関する高価な本を偶然にも購入する。「支払いを済ませると、男性はわれわれの肩を叩きながら、本を買ったことを感謝していました。それは、著者のピーター・ラーセンだったんです」

アドレスを交換していたので、手に入りそうなグランドスポーツが他にありそうか、後日メールしてみました。するとピーターから、少し調査すると返信をもらったんです」

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タルボ・ラーゴT26グランドスポーツ・クーペ(1949年

しばらくしてピーターは、非常に珍しいグランドスポーツの3台が、カリフォルニアにあることを発見。それを聞いてクデラは興奮した。

1960年代に先のリンドレーが保管していたクルマだった。彼のコレクションの多くは既に売れていたが、3台のグランドスポーツは幸運にもまだ残っていた。

その1台は、ユニークなフィゴーニがボディを手掛けたクーペで、シャシー番号は1101031960年代の初め、ロサンゼルス北東部のパサデナでテスト中、メカニックによってクラッシュしてしまったクルマだった。

特徴的なフロントは、街路灯にぶつかってひどい状態。当時のオーナーだったロン・アルクビーはタルボを見捨ててしまい、リンドレーが事故車として安価に手に入れていた。クデラがフィゴーニ・ボディを含める2台のグランドスポーツの購入を決めるまで、タルボを目撃した人は、50年間ほとんどいなかったらしい。

その後のレストア作業は後編にて。


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