暖流の黒潮が洗う海洋性気候で、冬は温暖な避寒地、夏は穏やかな避暑地となる千葉県勝浦市。南房総国定公園の中に位置し、リアス式海岸と関東随一の透明度の海、豊かな海産と400年の歴史を刻む朝市などで知られる観光地です。
例年だと、2月下旬の今頃から「かつうらビッグひな祭り」でにぎわう時期なのですが、今年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への懸念から、開催が中止となりました。中止は残念ですが、来年以降、必ず復活することを信じて、「かつうらビッグひな祭り」から見えてくる勝浦の興味深い歴史を掘りさげてまいりましょう。

勝浦の海は知る人ぞ知るダイビングの穴場です

勝浦の海は知る人ぞ知るダイビングの穴場です


「かつうらビッグなひな祭り」はなぜはじまったか?その秘められた歴史とは

「かつうらビッグひな祭り」。2001年にはじまったので、無事に開催されていれば今年は20周年を記念する年でした。なぜ、勝浦市ビッグひな祭りが催されることになったのでしょうか。日本で最初にこの催しをはじめたのは、徳島県の勝浦町。1988年に子供の成長などで飾られなくなった雛人形を全国から譲り受け、人形文化交流館で大規模一斉展示イベントをはじめたのです。その後、全国勝浦ネットワークを通じ、西と東とでビッグひな祭りを行おうというアイデアが生じ、先述の通り2001年から千葉県勝浦市でのビッグひな祭りが開催されることになりました。その際徳島県の勝浦町から雛人形7,000体が里子として勝浦市に譲り渡されています。
さらに、2012年には、和歌山県那智勝浦町でも、千葉県勝浦市徳島県勝浦町・和歌山県海南市からおよそ5,000体の雛人形が譲り渡され、「南紀勝浦ひなめぐり」がはじまります(今年2020年の開催は、残念ながらこちらも見送られています)。
奇しくも太平洋岸の三つの勝浦でビッグひな祭りが開催されることになったわけですが、この三つの市町に共通する「勝浦」という名称は、たまたま偶然同じ地名だった、というわけではありません。ここには、浅からぬ因縁が実はあったのです。
勝浦郡を含む徳島県東部と、徳島と海峡を挟んで向かい合う和歌山県、そして房総半島南部には、多くの共通した地名が見られます。「勝浦」もその一つですが、徳島地方の「阿波」と千葉県南端の「安房」、和歌山と千葉、そして徳島県の「白浜」、徳島と和歌山の「那賀」などです。
これらの地名が示すものは、古代氏族「忌部(いんべ・いみべ)氏 ※斎部とも」の存在です。

遠見岬神社石段のひな壇飾り

遠見岬神社石段のひな壇飾り


「勝浦」の地名は、黒潮がつないだ古代氏族・忌部氏の足跡だった

忌部氏は、四国吉野川流域を本拠とし、弥生時代後期から古墳前期(3~4世紀ごろ)の倭国王権の成立に大きく関与し、さらには農業技術、土地改良や建築土木、製紙、織物、製鉄などに長けた職能集団「品部」を包含・統率して、日本各地の生活文化の向上に尽力した古族です。古事記に登場する天太玉命(あめのふとたまのみこと)が祖とされ、幣帛(へいはく)、木綿垂(ゆうしで)などの原料となる麻や楮(こうぞ)の生産と加工、また碧玉や瑪瑙(めのう)を加工する玉造りの優れた技術を有していた忌部氏は中央政権では祭祀を担う名族でした。しかし権力の中枢に巧みに取り入った中臣氏(藤原氏)に次第に祭祀のポストを奪われ、奈良時代ごろには王権の中枢から駆逐されていきました。この興味深い古族「忌部氏」と阿波文明については、いずれ詳しく取り上げたいと考えています。
そんな忌部氏にまつわる史跡・痕跡が、全国でもっとも色濃く残るのが、本拠地の徳島を除けば千葉県なのです。
忌部一族である斎部(忌部)宿禰広成が天皇に撰上した『古語拾遺』(大同二年/807年)によれば、始祖天太玉命の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)は、阿波忌部一族を引き連れて、より肥饒なる地を求めて太平洋を東に向かい、関東のとある半島にたどりつきます。そして、麻や穀(かじ 楮/こうぞのこと)を播種し、よく麻が育ったこの地を「総の国」と名づけ開拓をはじめたのです。この天富命を祀る神社こそが、石段ひな飾りの遠見岬神社。房総各地には忌部氏ゆかりの神社が数多く点在するのです。
房総には日本武尊やまとたけるのみこと)の東征伝説も多く残りますが、これらもあるいは忌部氏の東征上陸の痕跡であったものが、上書きされたものだとも考えられます。阿波忌部の祖は天日鷲命(あめのひわしのみこと)とされますが、『古語拾遺』によれば遠祖天太玉命のもとに従う四柱の神のうちの一柱で、この天日鷲命は、関東地方に広く分布する鷲神社/大鳥神社の祭神であり(ただし、天日鷲命の名が削られている神社も多いのですが)、酉の市で有名な浅草の鷲(おおとり)神社も、祭神は天日鷲命(後に日本武尊が合祀されています)です。さらに鷲神社の神紋は、千葉県の豪族・千葉氏の月星と九曜紋。ここから、房総に上陸した阿波忌部氏がいかに千葉と縁が深く、また関東で大きな影響をおよぼしたかをうかがうことができます。

勝浦海中公園付近の美しいリアス式海岸

勝浦海中公園付近の美しいリアス式海岸


勝浦は水戸黄門の父、暴れん坊将軍のご先祖を産んだ姫君の故郷でもあった

時代は下り、安土桃山時代。勝浦港の南端、太平洋に突き出た懸崖の地・八幡岬には安房正木氏(あわまさきし)の居城・勝浦城がありました。天正十八(1590)年、豊臣秀吉小田原城攻略に際し、後北条家の眷属であった正木氏は、徳川家康配下の植村泰忠、本多忠勝に攻められ落城。城主正木頼忠の息女・十四歳のお万は、炎上する城を脱出、弟・為春を背負って、母とともに伊豆・韮山に逃れたと伝わります。海に面した高さ40メートルの断崖絶壁を、白布をたらして滑り降りたとされ、この故事からこの断崖は名勝「お万の布さらし」と呼ばれています。
このお万、母親が伊豆の土豪・蔭山氏と再婚、沼津本陣で自身の父を殺した勢力の頭目である徳川家康に見初められ、側室に迎えられるというどんでん返しの運命が待ち受けていました。ときに十七歳。「蔭山殿」「お万の方」として、徳川御三家のうちの二家にあたる紀伊徳川家(八代将軍吉宗の家系)の祖・頼宣、水戸徳川家の祖・頼房(水戸光圀=水戸黄門の父)を生み落とします。
一方で、こんな武勇伝も。浄土宗信者で日蓮宗を目の敵にしていた家康は、当時浄土宗派と日蓮宗派でたびたび行われていた宗論(他宗派同士で行われる討論)で、圧倒的な弁舌で知られていた日蓮宗の日遠を疎ましく思っていました。宗論に登壇する予定だった日遠の弟子の論者を家康の家臣が襲撃し怪我を負わせ、宗論に不当に介入したとして日遠が激怒し、家康を真っ向から非難したことで獄門になることに。日遠の信者であったお万は「日遠を殺すなら自分も死ぬ」と死装束で抗議、天下人家康を翻意させ、周囲を驚かせたとか。
家康死去後は四十歳で仏門に入り、法号養珠院となります。勝浦城址の八幡岬公園には、「養珠夫人立像」が据えられ、江戸時代の本物の「お姫様」の波乱の生涯をしのぶことができます。
勝浦の町は正木氏滅亡の後、植村氏の領地となり、植村泰忠が領民のために開いた市が、現在の勝浦朝市にまで引き継がれています。勝浦朝市は日本三大朝市とされ、地場鮮魚や野菜を売る露店が早朝から立ち並びます。カツオやイセエビはもちろん、なんとときにはマグロが丸ごと売られています。この豪快さは、勝浦朝市ならではでしょう。

勝浦港と八幡岬

勝浦港と八幡岬

勝浦の海は関東随一の透明度を誇り、また暖流と寒流の混じりあう海は熱帯系の魚から大型回遊魚、寒流系の魚介まで種類が豊富で知る人ぞ知るダイビングスポット。独特の海食洞穴が有名な興津地区、日本有数のサーフスポットとして知られ美しいビーチが広がる部原エリアなどで磯遊びも楽しめます。全国有数の水揚げのカツオばかりではなくクロマグロなどのマグロ類も多く揚がります。勝浦タンタンメンまぐろカツ、マヒマヒ丼、釣りキンメ、タイのなめろう、地酒腰古井など、ご当地グルメも豊富。「花の房州」の季節もはじまっています。暖かい勝浦は「花も団子も」楽しめますよ。

参考・参照
古語拾遺 斎部広成 岩波文庫
2020かつうらビッグひな祭りは、中止となりました。
阿波勝浦 元祖ビッグひな祭り
南紀勝浦ひなめぐり
一般社団法人 忌部文化研究所
浅草鷲神社(おとりさま)

勝浦港に揚げられたマグロ

勝浦港に揚げられたマグロ

マリンレジャーと海産グルメで知られる風光明媚な勝浦は、奥深い歴史の宝庫だった!