(安田 峰俊:ルポライター)

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 昨年(2019年)12月に中国武漢市で発生した新型コロナウイルスCOVID-19は、中国政府の懸命の抑え込みにもかかわらず流行が内外に拡散。2月なかばからは日本国内で感染経路が判然としない感染者が続々と見つかるなど、すでに日本も流行地に飲み込まれつつある。

 COVID-19については、中国の習近平政権が事態をおおやけにした1月20日すぎから囁かれている噂がある。すなわち、このウイルスは人為的に作られたもので、武漢市に設けられた世界レベルバイオ研究施設「武漢ウイルス研究所」から流出した“バイオ兵器”であるという説だ。同研究所は人民解放軍と関係が深いともみられている。

・・・もっとも、この説はまず事実ではないと考えていい。たとえば世界で最も権威がある査読制の医学雑誌のひとつ『The Lanset』が2月19日に発表した「COVID-19と闘う中国の科学者、公衆衛生専門家、および医療専門家を支援する声明」を読むだけでもそれは明らかだ。

 この声明は、COVID-19が人為的に作られたとする説を、恐怖とデマと偏見を広めるだけの「陰謀論」だと強く非難し、ウイルスが野生生物に由来することを論じた学術論文のリンクを多数提示している。

 この問題は高度に専門的な分野なので、(私を含めた)素人は学術的知見を尊重して判断をおこなうべきだろう。すくなくとも2月23日現在において、COVID-19バイオ兵器であることを示す有力な根拠は見つかっていない。

「バイオ兵器」説のソースは怪しい

 そもそも、COVID-19バイオ兵器説に初期に言及したのは、統一教会系のアメリカの新聞『ワシントン・タイムス』(有名な『ワシントン・ポスト』とは別)や、アメリカ亡命中の中国人大富豪・郭文貴の自前のメディア『GUO MEDIA(郭媒体)』などだった。

 さらに2月上旬から熱心にこの説を伝えたのが、中国共産党と対立する新宗教法輪功系の『大紀元』『新唐人』といった媒体である。

 統一教会法輪功はいずれも反共的な政治色の強い新宗教で、必ずしも客観的に正確な情報を出すとは限らない。また、郭文貴は2017年にYouTubeを通じて中国共産党高官のスキャンダルを次々と暴露して話題になった人物だが、その情報が虚々実々なのは関係者の間では有名だ。しかも2018年に入るころから「ネタ切れ」ゆえの飛ばし情報がいっそう増えている。

(なお、私は2017年12月にニューヨークで郭文貴本人に会ってインタビューをおこなったほか、2018年5月から翌年1月までは『SAPIO』誌上で郭文貴の連載を編訳していた。詳しくは拙著『もっとさいはての中国』をお読みいただきたい。)

 いずれにせよ、COVID-19バイオ兵器説はかなり怪しいメディアばかりが出所で、情報の受け手のリテラシーが問われる試金石だとすらいえる。日本ではそうしたソースをもとにバイオ兵器説を肯定的に論じる政治家やジャーナリストが何人かいるが、彼らの名前はよく覚えておいたほうがいいだろう。

陰謀論を必死で否定する不思議

 もっとも、世間の陰謀論には2種類がある。すなわち「アポロは月に行かなかった」「東日本大震災は未知の地震兵器のしわざ」といった完全に荒唐無稽なトンデモ説と、「ケネディ暗殺者は複数犯だった」「オウム真理教北朝鮮と協力関係があった」など、すくなくとも状況証拠としてはつじつまが合う部分があったり、当事者の証言などが出ればひとつの解釈として検討可能だったりする仮説のふたつだ。

 正直なところ、私は今回のCOVID-19バイオ兵器説について、当初は前者の立場だったが、最近はすこしだけ後者に傾いた。つまり陰謀論である点は揺るがないとはいえ、話に「尾ひれ」がつくに至ったなんらかの元事情くらいは存在するかもしれないと想像するのだ。

 理由は、他ならぬ中国側が妙に、バイオ兵器説やウイルス漏洩説の否定に躍起になっているからである。

 たとえば2月2日、党機関紙『人民日報』の傘下紙『環球時報』は、アメリカでバイオ兵器説を主張していた上院議員のトム・コットンの言動に猛烈に反論する記事を掲載。さらに数日後にもバイオ兵器説を否定する内容の長文の社説を掲載した。

 もっとも、1~2回くらいデマを否定するだけならば理解ができる話だ。むしろ気になるのは、その後の動きである。やがて2月15日前後に、中国ではなぜか武漢ウイルス研究所やバイオ兵器にかかわる話題が妙に増え、当局の影響が強いメディアが必死で火消しに回る光景がしばしば見られたのだ。

 仮に荒唐無稽なトンデモ説ならば、最初にガツンと1回否定したあとは放置して一笑に付せばいい。なのに、それをスルーできずに神経質に潰して回る様子が、どうも不自然さを感じさせるのである。

真の感染者第1号についての噂

 たとえば2月なかばには「新型コロナウイルスの第一の感染者」とされる人物の名前がネット上で囁かれる騒ぎがあった。

 フランスの政府系国際放送局『ラジオ・フランスアンテルナショナル』中国語版によると、この人物は武漢ウイルス研究所に所属する「黄燕玲」という名前の女性研究員で、実験室での研究中にウイルス漏れ事故により感染死。遺体を火葬する際に葬儀関係者にウイルスが感染していった――、と噂されていたという。

 また、中国国内のネットユーザーは武漢ウイルス研究所のホームページ上に黄燕玲の名前が見られたにもかかわらず、なぜか細かいプロフィールが削除されていることも確認している。黄燕玲は2012年に同研究所の修士課程に入学した人物だったのだ(中国でこの手の研究所の研究員は本来、修士課程入学者でもそのまま同じ研究所で勤務を続ける例が多い)。

 いっぽう、北京の夕刊紙『新京報』が2月15日夜に武漢ウイルス研究所研究員の石正麗と陳全姣に対しておこなった電話取材では、2人はともに黄燕玲という名の研究員の存在について「把握していない」と説明。反面、「現時点では研究所関係者で誰ひとり新型コロナウイルス肺炎に感染していない」と回答していた。

異常にナーバスな武漢ウイルス研

 さらに奇妙なのはここからだ。武漢ウイルス研究所は2月16日に声明を発表し、前日の石正麗たちの証言をひるがえす形で、黄燕玲が「2015年に」修士課程に属し、バクテリオファージ溶解素の機能及び抗菌広域スペクトルを研究分野とする研究員だったことを認めたが、彼女は他の省ですでに職を得て武漢には戻っていないとした。

 武漢ウイルス研究所からのデマ訂正メッセージは、あまりにも素早く出されたうえ、中国国内における報道の扱いも大きい(例えば2月17日には『中国網』日本語版で、日本語に訳された内容まで出ている)。中国の報道をウォッチし慣れた者の目にはかえって不自然な印象も与えなくもない。

 すくなくとも、当局が武漢ウイルス研究所に疑いを持たれることにかなりナーバスであることはわかるだろう。

 ちなみに研究所が2月16日に出した声明は「感染対策の重要な時期におけるデマは、当方の科学研究活動を強く妨害した。当方は法に基づき法的責任を追及する権利を留保する」といった文言で締めくくられており、ずいぶんものものしい雰囲気である。

なぜか生物災害防止分野を諜報機関へ

 さらに、これに先立つ2月14日には、習近平がトップを務める中央全面深化改革委員会の会議上でも動きがあった。

 習近平が講話のなかで、バイオセーフティ(バイオハザード [=生物災害] の防止対策)関連の法整備と、バイオセーフティ分野を国家安全部の管轄下に置くように講話をおこなったのだ。国家安全部は主に対外諜報を担うインテリジェンス機関であり、ずいぶんきな臭いところにバイオ研究機関の舵取りを任せることになったのである。

 習近平はなぜわざわざ、COVID-19についての陰謀論が流れる時期にこんなことを言いはじめたのか。中国内外のネットユーザーを中心に、不思議がる声は小さくない。

別の研究所がCOVID-19の発生源?

 こうした騒ぎの極めつけは、華南理工大学生物科学・工程学院教授の肖波涛が2月6日、国際的な学術情報シェアサイト『Research Gate』上に投稿した「新型コロナウイルスの考えられる原因」と題するレポートにまつわる顛末である。内容は今回のCOVID-19の発生源が武漢市内の海鮮市場であるとする従来の通説に疑義を呈したものだ。

 今回のウイルスはコウモリが宿主とされるが、肖のレポートによれば、武漢にはコウモリを食べる習慣がなく海鮮市場コウモリを取引していた形跡もない。おそらくその原因は海鮮市場からたった280メートルの距離にある「武漢市疾病予防コントロールセンター」であろうという。

 レポートによれば、このセンターは動物実験を目的に、湖北省で155匹、浙江省で450匹のコウモリを捕獲していた。捕獲に携わる研究員は2017年から2019年にかけてさまざまなメディアの取材を受けており、そのなかで、捕獲の際にコウモリの血液を浴びたことがあり、感染症の危険性があることから2週間の自主隔離をおこなった経験があること、さらに別のときにはコウモリの尿を浴び、やはり自主隔離をおこなったことなどを述べていた。

 ゆえに肖は、武漢市疾病予防コントロールセンターから、こうしたコウモリにかかわるサンプルや汚染物質が適切ではない形で遺棄されたことが、今回の新型コロナウイルス発生の真の原因ではないかという仮説を立てたのである。

発表者は失踪、レポートは削除

 もちろん肖のレポートは『Research Gate』上の投稿に過ぎず、専門家による査読を経た学術論文ではない。現在はCOVID-19について、全世界でかなり怪しげな論文やレポートの発表が横行しており、肖のレポートを無批判に信じることは危険である(そもそもCOVID-19バイオ兵器だとする説も、インドの研究者による粗雑な論文が根拠のひとつとなったものだ)。

 ただ、現在までにほぼ確定したCOVID-19の特徴――。すなわち、「人為的に作られたウイルスでは“ない”」「コウモリが宿主だったとみられる」「人口1100万人の大都市・武漢のほぼ中心部(漢口)に突然あらわれた」といったファクターを合理的に説明するうえでは、肖レポートの仮説はかなり説得力がある。

 野生のコウモリを捕獲して実験をおこなう機関が市内にあったから、天然物のウイルスであるCOVID-19が、農村部や近隣の小都市を経ずにいきなり大都市のどまんなかに出現することになったのだ。

 もっとも香港や韓国・ドイツなどの各メディアによると、論文発表者の肖はすくなくとも2月15日ごろまでに連絡が取れなくなり、該当のレポートも『Research Gate』から削除されてしまったようだ。

 この時期はちょうど、上記の「真の第1感染者」デマが生じたり、習近平バイオセーフティ関連の講話をおこなった時期と一致する。もしかすると中国当局が異常なほどセンシティブになっているのは、荒唐無稽なバイオ兵器説が広まると困るからではなく、武漢市疾病予防コントロールセンターの実験廃棄物からウイルスが漏れてバイオハザードに至ったという、COVID-19の「真の裏事情」を知られたくないからかもしれない。

フェイクニュースに騙されないために

 もっとも、仮に肖レポートの推測が正しかったところで、中国共産党の支配体制が崩壊でもしない限り、真実は永遠に明かされることはない。現在もっと重要なのは、すでに日本社会をも飲み込みつつある未知のウイルスの性質をより正確に理解して適切な警戒心を持ち、感染の予防と社会混乱の阻止に務めることだ。

「正しく理解し正しく怖がる」行為とは、マスク着用や手洗いの徹底、医療機関のキャパシティへの配慮や感染者への差別の抑制といった部分のみにとどまらず、明らかに事実とは異なる(しかも特定の宗教的信念や政治的イデオロギーに基づいて流布されている)フェイクニュースの拡散に加担しないことも含まれている。

 今後も混乱が予測される情勢だからこそ、可能な範囲で冷静に対処していきたいところだ。

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中国・武漢市の病院で患者のための薬を用意する看護師(2020年2月16日、写真:AP/アフロ)