2021年の1月に実施が予定されている新しい「大学入学共通テスト」。

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 この国語の問題に関して、出題を担当する分科会の複数の委員が、2019年夏の時点で、導入が予定されていた「記述式」問題に関する例題集を民間の出版社から発行、利益を受け取っていたことが発覚、利益相反などの疑念を指摘されて辞任していた事実が、2月16日に明らかになりました。

 これがどのくらい滅茶苦茶で、決してあってはいけない事態であるか、常識の源流に立ち戻って検討してみたいと思います。

大学入試の死んでも守るべき掟

 まず最初に、社会が一番理解していないポイントの一つ「大学入試問題作成者」側からの視点と、その「掟」を確認しておきましょう。

 入試の問題作成者になった人は、少なくとも当該年度の間は、出題の事実を口外してはなりません。また、職務上知り得た秘密は、生涯にわたって守秘する誓約書を書かされる場合があります。

 これは重い責任です。

 しかし、それに見合うだけの報酬などがあるか問われれば、これも「守秘」の対象なのかもしれませんが、およそ実入りの良い、割の合う仕事である保証など、どこにもありません。

 ちょっと頭を働かせて考えてみれば、これは自明のことでしょう。

 入試の出題者になれば、問題作成から採点まで、様々な大学入試の舞台裏をほぼガラス張りで見ることになります。

 そこで知り得た内容は、翌年以降の入試でも継続して用いられる可能性があり、みだりに口外などして、中途半端に社会に広まるようなことがあれば、税金で賄われる公的な入試の公正性が根本から揺らいでしまう。

 もし公表すべき内容があれば、願書などに一律で印刷、ポータルサイト公開などして、全受験生が平等にチェックできるよう準備せねばなりません。

 そうでないなら、一切表に出さないのが「平等」の原則を守る絶対的な条件になります。

問題作成」という入試の最も深い「虎の穴」に一度入ってしまったら、そこでの「掟」オメルタは絶対的です。

 掟を破れば「死」あるのみ、というのは、白土三平描くところの忍者か「隠密同心」あたりのことかもしれませんが、それこそ「死して屍 拾うものなし」という、かなりの覚悟が必要であるのは間違いありません。

「出題される側」の視点から

 にもかかわらず、私のコラムのバックナンバーを見ていただけると、いろいろな観点で入試に言及しているものが少なくないのがお分かりになるでしょう。

 なぜか?

 守秘の必要のない、入試への「結果的なコミットメント」があるからです。

 もっと簡単にいうと、最近はどうか分かりませんが、ここ10年来、私は「大学入試現代国語頻出筆者」になっており、そのため、この連載を中学高校生に読むよう、指導する学習塾すら存在するらしく聞き及んだこともあります。

 ティーンの読者を念頭に、慎重な書きぶりになったり、教育的なトピックスを選んだりするようになった、大きなきっかけでもあります。

 一昨年の早稲田大学文学部を筆頭に、大きな大学でも私の文章を入試の問題文に採用しており、何というか、第一の感想は「恐縮」の一語なのですが、同時に、常に「違和感」というものが拭えません。

 つまり、私自身が書いた文章の一部の漢字がカタカナに直されていたり、空欄になっていたり、傍線が引いてあって「筆者はどのように考えているか?」などと設問が準備されている。

 また、択一式の解答の場合、私自身が思っているのとは相当ニュアンスがずれた「正解」が印刷されていることが少なくないのも、微妙に気持ちが悪いポイントです。

 さて、こういう「出題しました」という報告は、「昨年度の入試で出題されましたが、これを過去問集として出版してもかまいませんか? 印税は1000円しかありませんが・・・」みたいな、著作権照会の問い合わせを通じてになります。

 私の著作物ですから、当然私に著作権があり、それを言ってみれば「勝手に改竄」して入試問題化して出題し、〇だ×だといった議論がくっついている。

 私はあくまで「勝手に選ばれて問題を作られた」受け身の立場ですから、何を発言しても一切、守秘もへったくれもありません。ですから「今年の共立女子大学で出題された私の文章の問題は・・・」とか、普通に言及できます。

 翻って、これを作った先生は、一般的には、生涯にわたってその背景や内情、舞台裏を語ることが許されません。

 出題する側の人間が不用意に外部に漏らしてはいけない点は、以下の2つであるように思います。

作成委員が不用意に漏らせないポイント

 一つは「問題文」の選定にまつわるポイントです。早い話、私の文章を使うことが事前に漏れていてはいけない。

 学習塾などは「的中!」を売りにして、出題文章の予想を争います。

 本物の出題者がこの種の産業に参入してしまったら、さすがに同じ書籍の同じ個所は出題しないでしょうが、同一筆者による別の書籍、あるいは、同じ本の別の個所など、類推が可能な出題を混ぜ込むことができてしまう。

 そのような問題集を身を慎むべき出題者が発行するのも問題なら、それを通じて印税その他の利得を得るのも、明らかに利益相反に抵触しますから、やってはいけないことに属するでしょう。

 その特定の市販の問題集を買っていた人には有利で、それ以外の受験生には不利になるような情報を出題者自身が作成し、その事実を伏せているとはいいながら結果的に購入者の払ったお金の10%とか5%とかを出題者自身が著作権料、印税報酬として受け取るわけですから、アウトということになる。

 実際、該当する出版会社で問題とされた書籍の編著者として名前が挙がっている大手大学の常勤教員の方は、当該の委員を辞任されたと報道されているようです。

 問題文そのものの<的中>的な事前漏らしが論外なのは言うまでもないでしょう。

 しかし、ここではもう一つ、より本質的ながら、必ずしもマスメディアが指摘しないポイントを記しておきたいと思います。

最も自制すべき採点基準の漏洩

 不用意に漏洩してはいけない「問題文」そのもの以外のポイント、それは「採点基準」にほかなりません。

 マスコミの論調などを見ていると「問題を作った」同じ人が「問題集も作った」という表層を撫でて終わっている議論が大半です。

 しかし、実際に問題というものを作った経験のある人間なら、採点基準の漏洩の方が大問題であることを体で知っています。

 問題作成者は、常に問題と同時に「解答例」そして「採点基準」という3点セットで準備し、さらに現実の「採点」という肉体労働を自身も担当します。

 これは守秘でも何でもないので普通に記しますが、私たち大学教員は、ごく普通に定期試験の問題を作成します。この際、問題だけ作って、正解や採点基準がないということはあり得ません。

 採点基準がなければ、公正な採点など実施できるわけがない。まともな採点ができない問題は。実際に学生生徒に出題できる代物には決してならない。

問題作成者」とは「正解作成者」であり、さらに一番重要なのは「採点評価の細かな内情を知る当事者」である、ということです。

 採点基準というのは、「このように解答すれば点がつく」という、はっきり言えば得点のメカニズムの種明かしそのものです。

 解答にあたっての基本的な考え方は、問題文以上にこの「採点基準」に存在すると言っていい。それに沿って高い得点を得た人が、上位成績獲得者として採用されていくわけですから・・・。

「問題文」や「出題される文章」などは毎年変わっていきますが、むしろ一貫している可能性が高いのは、この「採点基準」構築の本質的な考え方です。

 これが最も重要、場合によっては最高度に守秘の対象にもなるものですが、マスコミ・ジャーナリズムの全般は、隔靴掻痒な記述ばかり目にするように思われてなりません。

 そこで、簡潔に結論を記しましょう。

「新テスト」はすべて作り直すのが適切

 いま、出題方式の急変などで揺れに揺れている「新テスト」ですが、それが本当に「新テスト」で、過去をご破算に願って、すべての受験者が平等一律にテストを受けるということであるならば、今回の不祥事は致命的です。

 すべてをご破算にして、つまり、今までの「問題」はもとより「採点基準」そのものから作り直すのが、一番安全かつ平等な解決策であろうと思います。

 コンピューターがおかしな挙動を示したら、リセット(リブート)するのが早道、というのと、少し似ているかもしれません。

 出題委員の中でも、中核を占めていたようなメンバーが、特定出版社から「問題集」を出していたことの一番の懸念は、「採点基準」に関わる本来なら生涯守秘とすべきかもしれない「本当の内情」を、仮に断片的であったとしても、結果的に記してしまっている可能性です。

 そのようなとき、取るべき安全策は「リセット」、つまりすべてを消去し、別メンバーで、よりきつい事前の誓約書なども取り直し、万が一漏洩があればそのような関係出版にはコミットしないと誓約させたうえで、すべてを作り直すのが、一番安全かつオーソドックスな方法と思います。

 善意に取るなら、今回名前が挙がった先生たちは、どのように対策してよいか分からないという学生や現場の声に押されて、「本当はこんなふうにしているんですよ」と、手の内をこっそり見せることで、水準の向上を狙ったのかもしれません。

 教育者の配慮として、これは分からなくもないのです。

 きちんとした努力を積んで高得点を上げてほしい・・・。一教員としては、普通に分かる親心でもある。

 学生に問題を事前に公開する大学教員などは決して少なくありません。勉強してほしいから、その分だけでもやってほしいという、実質的な得点の「下駄」をはかせている。

 かつて、東京大学教養学部全学必修文理共通「情報処理」の伊東教官の定期試験。

問1は、常に「クロードシャノンの定義に従って情報を確率量として数式を用いて定義し、観測者の役割について簡潔に記せ」に決まっていました。

 過去問解答集も出回っていましたが、間違った解答例も目にした経験があります(苦笑)。

 教員としては、生徒には正しく努力してもらい、1点でも多く成績出してやりたいものです。

 それが真の実力を反映するものであるなら、高得点とは私自身が伸ばしてやることができた子供たちの可能性でもあるわけだから。

 でも、それを公共という観点、そこにおける機会均等とか、税を原資に実施される公共事業の各種倫理などに照らすとき、必ずしもその手の議論に馴染まない「民間有識者」の中には、悪意がなくとも逸脱した行動をとってしまう場合がありうるわけです。

 今回の問題は、そのようなケースなのではないかと思われました。

 違っているかもしれませんが、悪意はなかったように思いたい。そのうえで、今までの、中途半端に漏洩している可能性がある問題も採点基準も、すべてをシュレッダーに送ってほしいと思います。

 限られた時間ですが全部を再スタートさせるのが、真の意味での「公共」的な「新テスト」に求められる公正と平等の最低基本条件であるように思います。

(つづく)

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