今回は最初に結論を記しておきます。

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 稲田伸夫検事総長(1956年8月14日生)は、状況により、65歳の検事総長正規定年まで在職し続ける選択肢を考慮すべきと思います。

 明らかに制度を捻じ曲げた、おかしな「東京高検検事長定年延長の閣議決定に対抗するには、良い意味での「法令の遵守」を徹底し、根拠不明の「慣例」は、これを「検察一体の原則」から相対化して、ことに当たるのが正解と思います。

 加えて先週後半には当該案件を法務大臣が「口頭で決済」した、という文書主義の日本の官僚機構において、前代未聞、明らかに進退に関わる、とてつもない乱脈行政の実態が明らかになってしまいました。

 一連の問題を具体的に考えてみましょう。

しどろもどろの国会答弁

 閣僚や内閣総理大臣であっても逮捕、刑事訴追できる「検察」。

 その権力と正義は、その時々の政権や政治的思惑から超然として、常に法の下に公正、平等であるべき。

 こうした原則的な考え方を「検察一体の原則」と呼ぶようです。

 元検察官である山尾志桜里衆議院議員の在職時代に受けた研修・教育のたとえは、非常に分かりやすかった。

 検察というのは、金太郎飴のような組織であるべきで、またそうでなければならないというのです。

 どういうことか?

 例えば、ある刑事事件があり、訴追されて刑事裁判が開廷しているとしましょう。

 5年、10年といった長い裁判になることもある。私もコミットしたオウム真理教事犯の法廷は15年以上に及ぶ長大なものでした。

 この間、担当する検察官の部署が変わったり、人事異動があったり、あるいは定年を迎えた検察官も間違いなくあったでしょう。

 そのような「属人的な変化」によって、ダイレクトな影響、もっといえば「揺れ」のようなものが、厳正たるべき司法の場、公正に問われるべき刑事司法の場に許されてよいのか?

「何か、担当の検事さんが変わったら、すっかり裁判手ぬるくなっちゃって・・・」とか「年度が替わって担当官が交代したら、いきなり厳罰を求め始めて、いったいどうなってるんだ」とか、そんな裁判になってしまったら、それは「法治」と言える体制なのか?

 あり得ないでしょう?

 というか、あってはいけないこと。曲がりなりにも立憲的な政体、つまり基本法典が国家権力の行き過ぎを規定し、それに従って厳密に統治がコントロールされるべき文明国にあっては、絶対にやってはならないことです。

 もし担当者によって刑事検察のガバナンスに変化や手心が加えられるなら それは法治などではなく、いわゆる「人治」の、最悪の典型といわねばなりません。

 山尾志桜里議員などの原理原則的で明解な質問に対して、本来は弁護士で分かっているはずの法相やら、本当は頭脳明晰であると思われるのにどうしようもない答弁を繰り返す人事院の女性局長やらの姿は、子供には絶対に見せられません。

 まさに魚は頭から腐るを地で行く国会の模様を目にして、ただただ言葉もありません。

 山尾元検察官の表現を借りるなら「検察一体の原則」であるし、團藤重光先生の表現を拝借するなら「精密司法」という表現が当たると思います。

 つまり、担当者によって解釈がどのようにでも捻じ曲げられてしまう、匙加減で左右されるような「あいまいな司法」は、必ず綱紀に乱れを来たし、ゆくゆくは戦前の「あの状態」の二の舞につながりかねない。

「属人的な斟酌の入り込む余地がない程度に、精密に織り上げられた法治のタペストリーを徹底することで、正義が担保され、文化としての法治国家、ベッカリーア以前のような法規の恣意的濫用を超えた「近代の」司法となる」

 明治維新の記憶の残る指導教官たちから手ほどきを受けられた團藤先生の一言一言は、欽定憲法下での刑事司法と、敗戦後にそれを改め、刑事訴訟法のすべてを自ら書下ろしつつ GHQと戦われたご本人でなければ語り得ない真実に満ちあふれています。

 私のような司法の素人が、晩年の團藤先生と長い時間を過ごさせていただいたのは、本当にもったいないことでしたが、こうした具体的な局面にあたって「国家は何をしてはいけないのか」が明確に判断できる基礎を教えていただいたのだと、改めて痛感しています。

「閣議決定」で恣意的人事は違憲

 今回の、異例ずくめの「一般検事停年の、閣議決定による延長」に対しては2月3日の衆院予算委員会で、法務大臣から「東京高検管内で遂行している重大かつ複雑困難事件の捜査公判に対応するため」、当該検事長「でなければ対処できない」という、まさに「属人的な理由」が示されました。

 これに基づき閣議に付されて、定年延長が決定された、とされています。

 しかし、「重大かつ複雑で困難な事件」などは常に存在するわけで、その一つひとつで検事や検事長が変わるごとに検察の一貫性がなくなっていたら、それはすでに法治国家でもなければ、文明国でもない。

 野蛮な独裁の非人道的政体、国連加盟国として国際社会の承認が得られないような水準に近いと言わねばなりません。

 現に2019~2020年の米共和党末期政権や日本の自民党長期政権は、その域に達しつつある指摘を欧州などの冷静な批判者から受けています。

 法解釈の捻じ曲げについては、すでにほかの報道も多々触れていると思います。

 それ以上に、そうした捻じ曲げによって、内閣が閣議決定をもって、異例な検事の停年延長や、検事総長人事への介入などを企図するとすれば、単に違法というにとどまらず、違憲の可能性を憲法の専門家に精査してもらう必要があるように思います。

 愚かな誤解者は、検察といえども行政の一貫であり、行政府の長たる内閣総理大臣以下のガバナンスが「適切に権力を行使して」構わないと強弁するでしょう。

 しかし、法の条文を決定するのは立法府、議会であり、法の制定以降、40年近くにわたって当然と「解釈」されていた標準的な運用・適用を権力者が勝手に「変えて」、法規に反することが誰の目にも明らかな、属人的人事の専横に直接手を突っ込むなどということは、憲法裁判に持ち込めば、かなりの確率で「違憲」と判断されうる仕儀ではないかと思われます。

完全になくなった「改憲」の芽

 ただ、今回のなりふり構わぬ末期的な権力の濫用で、日本社会の誰の目にも明らかになったことがあるように思います。

 今の政権で、憲法に手をつけさせるなどということは、決してあってはならないということです。

 あのしどろもどろで支離滅裂、まともに意味の通らない国会答弁に終始する政府が、国民からの要望、請託など何もないところで、憲法で縛られねばならない行政・立法権力の側が、<憲法改正>を「悲願」などと言うこと自体が、本末転倒であり公私混同の最たるものでしょう。

 しかも、90%以上の国民が憲法改正に現実的なニーズを感じていないのです。

 こうした行為は、選挙で選ばれれば何でも権利は私できるもの、個人的な動機でおかしな振る舞いも正当化できると考えている如実な証左と言えます。

憲法改正」など、ただただあり得ない。もってのほかの一語で終わったと宣言してかまわないように思います。

 團藤先生なら何と言われたかを常に私自身は宗として考えるように努めています。

 さて、このような状況下、2020年夏に「慣例により」2年の任期で、稲田検事総長が辞職することは、状況によりますが、厳密に避けることが望ましいように思います。

 慣例は慣例に過ぎません。一方 法令は法令です。

 違法の疑いが濃厚な状況に対して、精密司法、検察一体の原則を徹底するうえでは、稲田氏が法に従って定年を迎える2021年8月14日まで、検事総長の任期をまっとうする可能性も、ポジティブな法令遵守の観点から、大いに検討されるべきかと思います。

(つづく)

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