(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

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 自然災害や大事件を、それが発生した月日の数字で表すことがある。2011年の東日本大震災原発事故の「3・11」や、2001年の米国の同時多発テロ事件「9・11」がその代表であろう。明日2月26日は、日本を揺るがした「二・二六事件」が起こった日である。

二・二六事件はオリンピックイヤーの出来事だった

 いまから84年前の1936年昭和11年2月26日のことだ。国家社会主義の思想家・北一輝の影響を受けていた帝国陸軍の青年将校たちが蹶起(けっき)、彼らが率いる部隊が帝都東京で反乱を起こし、日本をゆるがす大事件となったのだ。

 首相官邸や警視庁、陸軍大臣官邸などを占領し、陸軍中枢の陸軍省、参謀本部、陸相官邸を包囲し遮断、重臣たちが殺害されたテロ事件である。最終的に失敗に終わったものの、現在のところ日本近現代史上、実行された唯一の軍事クーデターである。

 翌2月27日には戒厳令が敷かれ、3日目には天皇の名で討伐命令が勅命として発せられた。蹶起部隊は反乱軍と規定され、下士官と兵に対する帰順工作が進められた結果、反乱勃発から4日目の2月29日に無血鎮圧された。東京湾には軍艦が集結して、艦砲射撃の準備もされていた。海軍陸戦隊による武力鎮圧も計画されていたとされる。もし、その作戦が実行されていたら、東京は大混乱を招いた可能性があった。

 首謀者たちはその後、弁護人なし、非公開、一審のみの特設陸軍軍法会議で裁かれ、死刑の判決が下された。判決が出てからただちに銃殺刑が執行されている。7月12日のことであった。処刑場所は、東京陸軍刑務所(当時)。東京・渋谷のNHK放送センターの近くに慰霊像があるが、まさにその場所である。今年(2020年)開催予定の東京オリンピック会場の新国立競技場からも近い。戒厳令は、7月16日になってようやく解除された。

 1936年は、今年と同じく4年に一度の「オリンピックイヤー」であり、閏年であった。ヒトラー政権下のドイツベルリンオリンピックが開催された年だ。ベルリン大会は、8月1日から16日まで開催され、日本人選手が大活躍している。このように時系列に並べて振り返ってみると、1936年という年が、いかに激動の年だったかがわかる。だが、この時点ではまだ第2次世界大戦は始まっていない。大戦が始まったのは1939年のことだ。

 ベルリン大会の次は東京が予定されていた。1940年の「紀元二千六百年記念行事」として準備が進められていたが、日中戦争激化などのため日本は開催権を返上して中止となり、「幻の東京オリンピック」となってしまった。だから、今年の東京オリンピックが無事開催されれば、幻の大会を含めると3度目ということになる。

2020年代と1930年代のアナロジー

 84年前の2月26日、東京は雪だった。異常に雪の多い年だったらしい。蹶起した青年将校たちは、1929年世界恐慌後の1930年代格差社会の矛盾を、クーデターによって一気に解決しようとしていたのである。閉塞感を打破する動きとして、国民からの支持もあったようだ。

 なぜ84年前に青年将校たちが蹶起したのか、その動機と真情、そしてその背景に経済格差問題があったことを現在の私たちが知るのは、けっして無意味ではない。

 なぜなら、現在もまた、1930年代のような重い空気が垂れ込めているからだ。閉塞感が強まるなか、社会に対する不満のガスが充満しつつあるのではないか。その意味でも、あらためて「2・26事件」の背景にあったものを振り返ることは意味があると思うのである。

悪化し続ける2020年代先進国の「格差問題」

 格差問題は、もはや世界全体の問題となっているといえよう。先進国を中心に「ミドルクラスの崩壊」はまったく止まることなく、最貧層からさらに搾り取る、いわゆる「貧困ビジネス」がはびこっている。

 2011年9月の「オキュパイ・ウォールストリート」(=ウォール街を占拠せよ)という抗議活動も記憶にあたらしい。「上位1%の富裕層」が富を独占し、それ以外の「99%」は「持たざる者」となって苦境にあえいでいるという主張である。

 2020年の現在では、米国の格差は「1% 対 99%」どころか、「0.1% 対 99.9%」という主張もあるくらいだ。米国の若者たちが大統領選でサンダーズ候補に代表される「社会主義」になびいているのは、そういう背景がある。この状況は、政治的な意味の右とか左とか関係ない動きだと理解する必要があろう。

2020年代」と「1930年代」とのアナロジー(類似)は、探そうと思えばいくらでもあげることができる。

 まず、どちらも「自由貿易」から「保護貿易」へのシフトが起きつつある時代である。1930年代には“自由がもたらす不安”から逃れるためにナチズムに代表される「全体主義」になびいていった人びとが多かった。また、難民や移民を排斥するムードも共通している。1930年代は、「ユダヤ人難民」が大量に発生しながら欧米先進国が受け入れを拒否した。「移民排斥」に関しては、第2次世界大戦開始とともに実行された米国の「日系人収容所」などをあげることができるだろう。

 歴史がそのまま繰り返すことはないが、似たようなパターンが繰り返し出現することはよくあることだ。

「昭和維新の歌」に見る1930年代の格差問題

 1930年代の世界と日本の様子をもう少し詳しくみていこう。

 1930年代は、米国が震源となった1929年の「大恐慌」が世界全体に波及した時代である。経済再建のため各国が「保護主義」に走り、自国の「国益」を守ることだけに集中して、自国の「生存圏」を確保するために血眼になった時代である。

 日本の場合は、さらに輪を掛けてひどい状況にあった。1923年には「関東大震災」が発生、経済に与えたダメージが完全に回復しない状態で世界大恐慌に巻き込まれ、1930年の「昭和恐慌」となって国民を苦しめることになったのである。

 この当時の日本の状況は、「格差社会」が問題とされる現在の日本よりも、はるかに「格差社会」だった。上位1%の富裕層の所得は全国民の所得の2割を占めていた。比率的には現在の2倍である。当時の富裕層は資産家であった。つまり給与所得ではなく、金融資産や不動産からの利子や配当で暮らしていたのである。いわゆる不労所得である。

「青年日本の歌」という軍歌がある。俗に「昭和維新の歌」と呼ばれるものだ。1930年に海軍の若手将校が作詞作曲したもので、「二・二六事件」で蹶起した青年将校たちの愛唱歌であったという。「二・二六事件」のあと禁止されたが、戦中もひそかに歌い継がれてきた歌である。歌詞の一部は、大川周明の作品から借用している。

 全部で10番まであって長いので、一部を紹介しておこう。

「二、 権門(けんもん)上(かみ)に倣(おご)れども/国を憂うる誠なし/財閥富を誇れども/社稷(しゃしょく)を念(ねが)う心なし」
「六、天の怒りか地の声か/そも只(ただ)ならぬ響(ひびき)あり/民(たみ)永劫(えいごう)の眠(ねむり)より/醒めよ日本の朝ぼらけ」
「九、巧名なにか夢のあと/消えざるものはただ誠/人生意気に感じては/成否を誰(たれ)か論(あげつら)ふ」

 意味は、なんとなく感じ取ることができるだろう。現状を憂えているなら、結果を顧みることなく立ち上がれ、という内容だ。「社稷」(しゃしょく)という漢字熟語はまず目にすることがないが、国家のことを意味している。

 戦後には鶴田浩二やアイジョージが歌っているので、どんな曲か知りたい人は、YouTubeで検索してみるといい。蹶起した青年将校たちの気持ちを代弁した内容であることがわかるはずだ。戦前はいまよりもっと荒々しい資本主義の時代だったから、現在よりもはるかに貧富の差は大きかった。そんななか青年将校たちは、社会矛盾に怒りを覚え、解決を目指して立ち上がったのである。

 1936年当時、東北の農村は疲弊しきっていた。1930年の昭和恐慌だけでなく、大飢饉が発生したため、娘が身売りされるなど悲惨な状況になっていたのだ。士官学校を出て隊付き将校として着任した陸軍尉官たちが「現場」で実感したのは、兵士たちのふるさとである東北の農村の疲弊状況だった。感受性豊かな20歳代前半の青年であれば、何も感じない、ものを考えないというはずがありえない。

 各種の兵器を扱う軍人は基本的にエンジニアであるが、「教養主義」時代ということもあって、ドイツ語でゲーテを愛読するような若者たちであったらしい。けっして無骨な軍人ではなかったのだ。

 とはいえ、社会科学の素養を欠いていたため、その情勢分析はかならずしも正しくなかったし、暴力的なクーデターに訴えるというやり方もけっして適切なものではなかった。しかも、クーデター後の見取り図もないままというきわめて稚拙なものであったことは否定できない。だが、青年将校たちの熱い思いは忘れてはならないのではないか。『憂国』や『英霊の声』を書いた三島由紀夫でなくても、現在の若者がそういう思いを抱いたとしても不思議ではないと思うのだが、いかがであろうか。

クーデターは「意図せざる結果」をもたらした

 二・二六事件は、日本の近現代史のなかでどのような歴史的な意味があったのか。

 当時の帝国陸軍には「皇道派」と「統制派」という2大派閥が存在し、蹶起した青年将校たちは皇道派に属していた。皇道派は「小国主義」と言い換えることもできるかもしれない。これと対峙していた統制派は「大国主義」である。

未完のファシズム-「持たざる国」日本の運命-』(片山杜秀、新潮選書、2012)の記述をヒントに整理してみると、次のようになる。

 皇道派は、財政負担の観点から国民を疲弊させず、あくまでも身の丈にあった範囲で勝てる見込みのある戦いしかしないという保守的な現状維持志向であった。財政均衡路線であり、石橋湛山の「小国主義」にも似た思想である。一方、統制派は、英米などの「持てる国」に対抗するために、自らが「持てる国」を目指し、そのためは無理にでも背伸びして国力を増強させる未来志向であった。「大国主義」であり、「拡張主義」と言い換えてもいいだろう。財政拡大路線である。

 クーデターが失敗に終わった結果、陸軍内部では現状維持派の皇道派がパージされ、拡大路線の統制派が陸軍中枢を握ることになった。その結果、なし崩し的に戦争へとなだれこんでいくことになる。国民の多くが、日本が「小国」であることを受け入れようとせず、「内にこもる選択」より「外に打って出る選択」を支持したことも日本を戦争に突き進ませたことは否定できない。

 しかし、日本は敗戦国となり、帝国陸軍という巨大官僚制組織そのものが解体されることになった。二・二六事件は失敗に終わったが、「意図せざる結果」を招いたうえで、結果的に日本の改革は果たされたということになる。戦争に負けたことで、財閥解体や農地改革、言論の自由や基本的人権の尊重、民主化や男女平等など北一輝の思想が、占領軍の下で実現されることになったのである。

不満が爆発するのは日本よりも中国か?

 二・二六事件は、「閉塞感」が強まっていくとき、日本人がいかなる行動をとるのかについてのケーススタディだと私は考えている。日本で再び「二・二六事件」が起きる可能性はあるだろうか。

 現在の日本は1936年当時のような人口増加傾向にあるどころか、むしろ人口増大のピークはとっくに過ぎて、現在では少子高齢化によって人口減少傾向にある。このことを考えれば、日本で二・二六事件のようなクーデターや暴力革命が起きる状況とは考えにくい。というのも、一般にクーデターや暴力革命は若年人口の爆発が真因であることが多いからだ。「ユース・バルジ」(Youth Bulge)は、ドイツの人口学者グナル・ハインゾーンが『自爆する若者たち-人口学が警告する驚愕の未来-』(新潮選書、2008)で呈示している概念だが、増大する若年層が人口構成に偏りを生み出し、地位やポジションを求めた野心的な若い男子が、「9・11」に代表されるようなテロや反乱の引き金を引くことが多いと指摘している。

 日本でも、いわゆる「上級国民」に対する怒りなど、 社会に対する不満が鬱積している。だが、生命保険会社が主催する「サラリーマン川柳」などに見られるように、そもそも日本人は茶化したり、自嘲的にガス抜きするのが得意な国民性をもつだけでなく、しかも現在では非暴力のデモすら他の先進国に比べてきわめて少ない国となっている。もし不満や怒りが顕在化するとしたら、選挙行動をつうじたポピュリズム政党支持などの動きであろう。もちろん、それですべてが解決するわけはないが。

 もしかすると、世界のなかで暴力的な反乱が起きる可能性がもっとも高いのは、中国かもしれない。すでに少子高齢化に入っている中国だが、それでも若年人口の絶対数が多く、しかも格差社会のなかでストレスをため、現状に不満をもつ若者は少なくないからだ。国家による情報統制が行き渡り、ガス抜きの機会が封じ込められているが、そのため爆発したときの衝撃は想定を超えるものになるのではないか。

 武漢で発生したコロナウイルスの感染爆発の対応で手一杯の中国だが、初期段階で情報隠蔽を行っていただけでなく、この期に及んでも情報統制を行う中国共産党に対する不満と怒りが高まっている。新型肺炎への対処にメドがついた段階で、国民の目を国内問題からそらすため中国共産党人民解放軍を使った対外的な積極策に出てくるのではないか? いや、もしかすると、中国共産党のコントロールを振り切って人民解放軍が暴発するかもしれない。2020年代の中国は、1930年代の日本に近いような気がしてならないのだ。

 最後に、先に引用した「青年日本の歌」の基調をなしているのは、古代中国の憂国の詩人・屈原の作品であることを書き添えておこう。

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