(柳原 三佳・ノンフィクション作家)

JBpressですべての写真や図表を見る

 新型コロナウィルスの感染が全国各地に広がっています。

 予定されていたさまざまなイベントが相次いで中止になる中、2月25日には国公立大学の二次試験が決行。しかし、同日、「ダイヤモンド・プリンセス」の乗船客から4人目の死者が出たという報道が・・・。

 恐れすぎてもよくないとは思いつつ、相手は目に見えないウイルスです。しかも、マスクも特効薬もないということになれば、人の多い場所に行く機会の多い方は不安な日々を過ごされておることでしょう。

 そんな中ではありますが、楽しみにしていた歴史講演会が中止にならず開催されたので、行ってきました。

 2月22日(土)、千葉県の東金文化会館で開催された『関寛斎生誕190周年記念講演会』です。

幕末から明治、波乱の生涯を駆け抜けた医師

 関寛斎(せき かんさい)という人物をご存知でしょうか。

 幕末、現在の千葉県東金市に生を受けた彼は、農民出身であったにもかかわらず医師となり、幕末から明治期の日本医学界に大きな足跡を残しました。

 まずは、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)より抜粋します。

<文政13年2月18日生まれ。佐倉順天堂で佐藤泰然に、のち長崎でポンペにまなび、文久2年徳島藩医。戊辰戦争では新政府軍の野戦病院長をつとめる。

 明治6年、徳島で開業。35年73歳で北海道にわたり十勝陸別町で開拓と施療に従事。大正元年10月15日死去。83歳。>

 佐倉順天堂とは、医学塾兼診療所として創設された学問所で、現在も千葉県佐倉市に当時の建物が残されています。

「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、文政12年(1829)生まれですから、関寛斎とはひとつ違い、ということになります。

「西洋砲術」と「医学」・・・、二人が目指した専門分野はそれぞれに異なりましたが、同時代を生き、若き日にはそれぞれ長崎へ遊学し、オランダ人教師から教えを受けていました。きっと、共通の知人は大勢いたことでしょう。

 関寛斎が医学を志し、順天堂に入学したのは1848年、19歳のときでした。その後、1860年には長崎へ遊学しています。1860年、と言えば、佐野鼎が万延元年遣米使節の随員として、アメリカに渡った年でもあります。

 30歳を超えたばかりの彼らは、日本の将来のために、懸命に学んでいたのですね。

「隔離」でコレラ対策に成功した関寛斎

 さて、関寛斎は長崎に遊学する直前まで、銚子(千葉県)で病院を開業していたのですが、このとき、日本に大流行したコレラの感染対策に奔走し、「地元の銚子では死者を一人も出さなかった」という驚くべき成果を上げていたことを、今回の講演で初めて知りました。

 この興味深いエピソードを語ったのは、講演者の一人である参議院議員の梅村聡氏です。自身が内科医でもある梅村氏は、なんと、関寛斎の5代目の子孫です。

 日本では、幕末と明治初期にコレラが大流行し、数十万人の人が亡くなりました。

 実は、佐野鼎も明治10年に大流行したコレラで死亡しており、そのときの話についは、本連載の29回目『明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック』(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59188)にも書いた通りです。

 関寛斎がコレラの対策に取り組んだのは、それより20年も前の幕末、安政の時代(1858年頃)のことですから、感染症に対する相当な知識を持ち合わせていたことが窺がわれます。

「大事なことは、医者が先に動くこと」

 梅村氏は講演でこう語りました。

「今でこそ、新型コロナウイルスの写真がテレビに映され、ウイルスという小さな生き物が人の身体の中で悪さをするのだということを我々は知っています。しかし、あの時代は何が原因なのかがさっぱりわかりませんでした。江戸の町では36万人がコレラで死亡したそうです。民衆がやったことと言えば、邪気を払うために豆まきをしたり、家の前に松の飾りをつけたり、獅子舞に舞わせたり、ということだったのです」

 民衆が迷信にすがる中、関寛斎はさまざまな医学書を読み込み、ある対策を実行します。それは、「病人と健康な人とを分ける」、つまり現在でいう「隔離」だったそうです。

 健康な者にはきれいな水や食べ物を与え、病人の排泄物からできるだけ遠ざける。

 さらに、江戸から大量の薬を取り寄せたといいます。それは現在のマラリアの薬と同じもので、梅村氏によれば、「その薬はコレラに対してはストライクではなかったものの、炎症を抑える効果はあったはず」とのことです。

 そして、関寛斎はこうも言ったそうです。

「幕府の役人に任せると、話し合いばかりしてなにも決まらない。こういうときに大事なことは、先に医者が動くことだ」

 ちなみに、ドイツの細菌学者・コッホが、コレラ菌を発見したのは、このときから20年以上後の1883年です。

 関寛斎がいかに凄い医師であったかが、よくわかるエピソードです。

73歳で北海道へ移住し開拓事業に乗り出した関寛斎

 佐野鼎は、現在の開成学園の前身である共立学校を創設してから、わずか6年後、49歳という若さで亡くなりました。コレラに感染し、主治医が行政府に届け出を出した翌日のことでした。

 関寛斎が10年も前に取り組んでいた「隔離対策」が、なぜ明治の東京で生かされなかったのか・・・、残念でなりません。

 関寛斎はその後、徳島へ移住し、現地で30年以上にわたって医療活動に取り組みます。そして、73歳になってから北海道の陸別へ移住し、余生を極寒の地で開拓に捧げました。

 大正元年に83歳で自決するまでの人生は、まさに波乱万丈で、興味が尽きません。

 彼は、その生きざまを象徴するような、以下のような格言を残しています。

『空しく楽隠居たる生活し以て安逸を得て死を待つは、此れ人たるの本分たらざるを悟る事あり』

 東金文化会館の常設展示室では、現在、『関寛斎とその周辺』と題した企画展が開催されています。

 今年の秋ごろまでは続くようですので、ぜひ足を運んでみてください。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

[関連記事]

明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

日本超えた韓国の感染者、背景に新興宗教信者の暴挙

軍服姿の関寛斎