日本が独自に開発し、絶やさず発展させてきた飛行艇の技術ですが、太平洋戦争中に開発された二式飛行艇と戦後のPS-1対潜飛行艇のあいだに、1機の実験用飛行艇の存在がありました。岐阜県の博物館で保存展示されている機体を紹介します。

新明和製飛行艇50機にカウントされていない実験用飛行艇

2020年2月20日(土)、新明和工業は、海上自衛隊US-2救難飛行艇7号機の完成によって、飛行艇の製造が50機に到達したことを発表しました。同機の源流は、1967(昭和42)年に完成したPS-1対潜飛行艇ですが、これを開発するにあたり、新明和が用いた実験用飛行艇がありました。その名は「UF-XS」、太平洋戦争後、日本の飛行艇が復活する先駆けとなった機体です。

UF-XS実験用飛行艇は、PS-1対潜飛行艇に導入する予定の新技術を実証するための機体で、アメリカ製のUF-1飛行艇を基に、新明和工業が大改造を加えて作り上げたものです。

UF-XSが製作されたのは1960年前後のことです。1950年代から1960年代にかけてのこの時期は、原子力潜水艦の登場などで世界的に潜水艦の性能が大きく向上したころで、対潜哨戒機などもそれに対応できることが求められました。

そのようななか、アメリカや日本などでは、海面に離着水できる飛行艇潜水艦探知用のソナーを搭載することを考えます。海面に降り艇内からソナーを海中に降ろし敵潜水艦を探り、これを繰り返すことで見つけ出し、撃破するという運用方法です。

このような運用をする場合、対潜飛行艇はある程度、荒れた海でも離着水できる性能が求められ、そのために生み出した新技術をUF-XSでテストしようとしました。

アメリカは、自国の開発が上手くいかなかったこともあって、日本の技術に対して非常に興味を持ち、なおかつ期待も抱いていました。そこで日本が開発した際に技術開示することを条件に、「UF-XS」のベースになるUF-1飛行艇1機と、自国が開発した対潜飛行艇用の各種装備を供与したのです。

アメリカ製飛行艇に新機軸をてんこ盛り

アメリカ海軍のUF-1飛行艇1機が1960(昭和35)年12月6日神戸市東灘区にある新明和工業の甲南工場に搬入され、翌年4月から改造工事が始まりました。

改造は大規模なもので、あらゆる場所に手が加えられました。原型のUF-1はエンジン2基の双発機ですが、左右のエンジンの外側に1基ずつエンジンを増設して4発機にし、水平尾翼は海水の飛沫を避けるために垂直尾翼の上端に移設しT型配置へ変更、これにともない垂直尾翼の形状も大幅に改められています。

また機体下面(艇底)は一新され、飛沫防止のための波消し装置や波押さえ板、水上滑走時の安定性を高める水中安定板なども新たに設置されました。

このほかにも低速時の操縦安定性を確保するため、日本初のコンピューターによる自動飛行安定装置を搭載したほか、短距離離着水を実現するための揚力向上装置として高圧空気吹き出し用のガスタービンエンジンを2基増設しています。

この大改造は、原型であるUF-1飛行艇の面影が操縦席周りにしか残らないほどで、完成まで1年半以上かかりました。UF-XSは1962(昭和37)年12月20日に初飛行し、翌年3月30日から長崎県で各種試験を開始、約2年間テストに供された後、PS-1初号機の完成と入れ替わる形で1967(昭和42)年10月に用途廃止となりました。

最新技術を集めたPS-1対潜飛行艇はそののち、陸上哨戒機の探知能力向上や、飛行艇そのものの運用の難しさなどから、1989年平成元年)3月で退役しています。しかし、海上における優れた離着水性能などを実現するために培われた技術は、のちのUS-1救難飛行艇や現用のUS-2救難飛行艇へと生かされ、継承されています。

UF-XS実験用飛行艇は、新明和工業が製作した50機の国産飛行艇にはカウントされていないものの、その存在は意義あるものだったといえるでしょう。

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館で展示されるUF-XS。内側のエンジン2基は3枚プロペラ、外側のエンジン2基は2枚プロペラである(2009年3月、柘植優介撮影)。