沙知代夫人が亡くなったあと、野村克也元監督(「ノムさん」では気安すぎる)は腑抜けのようになった。ちょっと意外に思い、どうしてだろうと気になった。

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 ときどきテレビスポーツ番組などで見かけることはあったが、以前のような活気や活力は感じられなくなった。野球のワンポイント解説の仕事なども、しかたなく応じているように見えた。無理もない。長年連れ添った夫人を失ったうえに、年齢も80歳を超えていたからである。

 野村元監督といえば、投球論や野球論で独自の理論を確立し、理論派とみなされた人である。データを重視した「ID野球」という言葉は野村の代名詞となり、落ち目の選手を復活させる手腕は「野村再生工場」と評された。わたしはIDをずっとidentificationの略語だと思っていた。そうではなくてimportant dataの略だった。

 野球だけではなく、組織、リーダー、人間の成長、人生までも縦横に論じて百冊以上の書籍を著し、その多くはベストセラーになった。監督としてリーグ優勝4回、日本一3回という実績は、かれの言葉の立派な裏付けとなった。

「さびしい、たださびしいだけ」

 それだけに、夫人の死後のあまりの落胆ぶりや脆さは意外だったのである。臆面もなく「さびしい」とテレビで公言した。「さびしい、たださびしいだけ」「女房がいなくなって初めてわかるね、男の弱さが。それをいま痛切に感じて毎日生きてますけど、だれもいないモヌケのから」「“おかえり”って声がかかるのとかからないのじゃ、全然違うわね」(「目撃! にっぽん ひとりを生きる野村克也84歳」2020.2.2。NHK)。こうまであっけらかんといわれると、むしろ清々しい。

 周りに人がいればさびしさもまぎれただろう。だがかれは夫人の死後、息子の克則家族とは同居しなかったようである。住み込みのお手伝いさんがいたというが、詳しいことはわからない。自分で自分を孤独に追い詰めたようなところがある。

「男は弱いものだなとお前がいなくなった今、しみじみ感じている。だれもいない家に一人でいるのは、さびしくて仕方ない。いるとうるさいと思ったのに、いないとさびしいんだ。(略)今も家に帰ったとき真っ暗だとさびしくて、電気をつけたまま家を出てるよ」(『野村克也からの手紙――野球と人生がわかる二十一通』ベースボールマガジン社)。自宅にはいたる所に沙知代さんの写真を飾った。「これからどう生きていけばいいのか」と途方にくれた。

 かれは昔の男だから、選手が茶髪にしたり、顎鬚をはやしたりしていると、気に入らないといった。直接、選手を叱ったりもした。昔の価値観の男である。そんな自分の考えがはっきりしている男でも、自分のこととなるとまるっきり思考力が働かない。思考や理論は消失し、感情に手もなくしてやられた。弱音は吐かない、泣き言はいわない、という意地がなにひとつなかった。「男は弱いものだ」・・・自分が弱かったのではないか。

野村-沙知代=0

 野村元監督は今年2月11日に死去した。84歳だった。沙知代夫人が死去したのは2017年12月8日で、その死から2年3カ月後のことである。マスコミは恒例のように、かれの華々しい業績を報じた。三冠王1回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、最多安打1回、ベストナイン19回、ダイヤモンドグラブ賞1回。ホームラン数は王選手に次いで歴代2位など。監督としての結果も含めて、押しも押されもせぬ輝かしい成績である。しかし夫人を失った晩年の野村にとっては、もはや野球において達成した成績などどうでもよかったことだろうと思う。

 成績や業績が意味があるのは当人が現役のあいだだけである。せいぜい仕事を辞めて数年までである。ふつうの会社員でもおなじであろう。こんな大きなことをやった、こんな難題に挑んだ、という業績も晩年にあってはむなしい。

 NHKの「72時間」という番組で、家庭を顧みなかった刑事が語っていた。定年後妻と旅行をするのを楽しみにしていたのに、定年後にその妻が死んだ。そのとき、卒然と悟った。「バカでしたね、本当に。仕事なんかどうでもよかったんですよね」と。つまり、仕事などは自分でなくても、代わりはいくらでもいたのだ。後悔したが、もう遅い。

 妻を失ったことに比べれば、世間での業績や偉業など、どんなに大きなことでも取るに足らないものである。けれど、妻を亡くして、だれもが野村のように「さびしい、たださびしいだけ」とか「これからどう生きていけばいいのか」と嘆いたりするとは思われない。

 だが野村はその感情にどっぷり漬かり、自分で自分を弱めたように見える。ただ背骨を抜かれたようにくしゃくしゃになった。さびしいからどうした?とは思わなかったのだろうか。

 かれはよく、野村-野球=0だ、といっていた。自分から野球をとればあとはなにもないというのである。しかしのちに訂正した。野村-沙知代=0だと。もちろん額面どおりに受け取ることもないわけだが、それにしてもこれはちょっと異常である。自分の中身は全部、夫人で満ちているというのだから。野村の孤独はいささか特殊である。「さびしい」といっても、ただ自分を追い詰めるだけである。さびしくなくなるわけではない。それを聞かされた人間が、なんとかできるものでもない。

「世の中に偉い人なんかいない」

 沙知代夫人は素晴らしい考えをもっていた。彼女は、「世の中に偉い人なんかいないわよ」が「口ぐせ」だったという。これはなかなかすごいことである。こう考えている人は驚くほど少ない。夫人は、相手の身分や職業で人を判断しなかったのである。

「『何かに優れた人はいても、偉い人なんているわけない』とお前が言うのを聞いて、なるほどなと思ったよ。そして、俺をこう戒めてくれたよな。『だから、あなたも気をつけなさいよ。人よりちょっと野球がうまいだけで、偉くなんかないんだよ』」(前出『野村克也からの手紙』)

 しかし彼女は勘違いしていたようである。中曽根元首相に会ったときは「あんた」と呼んでいたという。「偉い人」はいなくても、相手を小ばかにしていいわけではない。彼女はこの考えを自分に適用はしなかったみたいだ。

 夫人は「凡人に対しては冷酷だった」と野村は書いている。他人は「凡人」だが、自分は「偉い人」だと勘違いしたようである。自分だけは別、というやつである。その勘違いがさまざまな問題を起こしたのである。とかくの批判にさらされたが、しかし野村は夫人をかばいつづけた。

 沙知代夫人が原因で、1977年、野村は南海ホークスをクビになった。「野球を取るのか、女を取るのか」と詰め寄られた野村は、「女を取ります。仕事はいくらでもあるが、伊東沙知代という女は1人しかいない」といった。

 のちに夫人が脱税事件を起こしたときも「(ふたりのための)老後の蓄えを、と始めたこと」とかばった。身内としてはある意味立派なことである。だが、家ではいい妻や夫だが社会的にはその逆、というのはだめである。そこに非があるのなら、やはり非は非として認めなければならない。

自分を牽引してほしかったのか

 南海を馘首されて「すべてすっからかん、何もかも失ってしまったような気持ちになっていた。人生のどん底だったと言っていい」。意気消沈して「これから何をして生きていこうか」とつぶやく野村に「あっけらかんとした声で、こう言った。『なんとかなるわよ』」「あれほど強く、勇気づけられた言葉は、今までの人生でほかにない」「『すごい女だな』と改めて感心した。あんな状況で『なんとかなるわよ』と言える女性はなかなかいないだろう。あのとき『ああ、この人についていくしかないな』と思ったんだ」(前出「目撃! にっぽん」NHK)。

「おれをリードしてくれた」とも野村はいっていた。通常は投手をリードする役割の捕手であったのだが。夫人に対する全面依存であり全面降伏である。マスコミは「沙知代さんへ貫いた40年愛」などと甘ったるいことをいうが、ふつうの夫と妻ではない。世間的に問題を引き起こしても、夫人は「俺にとっては、間違いなく『いい奥さん』だった」のである。沙知代夫人なしでは生きられなかったのである。

 野村は父親を知らない。3歳のときに戦死した。だから自分が父親になったとき、どう父親をやっていいのかわからなかったという。3歳年上の沙知代夫人は父親代わりの心棒だったのかもしれない。自分を牽引してくれるチカラを求めたように見える。

 しかしその手綱が切れた。取材陣に「さびしい、たださびしいだけ」と話すことができる野村は無類に正直である。老残を見せることに躊躇がない。男の沽券などとくだらぬこともいわない。強がりもなにもないのだ。かれは死によって、やっと「さびしさ」から解放された。

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