■主に「女の一生」を描いてきたNHK朝ドラの保守的な家族像や女性像

NHK朝ドラ連続テレビ小説)が苦手だ。1961年の放送開始以来、朝ドラが描いてきたのは基本的に「女の一生」で、いくつかある男性主人公の作品(次回作の『エール』は、窪田正孝演じる作曲家・古関裕而二階堂ふみ演じるその妻・古関金子の二人の物語を描く)でも主要なテーマになるのは、いささか保守的すぎる「家族」のあり方だからだ。

時代が進むにつれ、『私の青空』(2000年)で初めてシングルマザーが描かれ、『あまちゃん』(2013年)などでは恋愛・結婚を重視しない主人公がフィーチャーされるようになり、多様な生き方が示されるようになったが、それでも「成長→恋愛→結婚→出産→子育て→子どもの自立→老い」という、社会一般が抱いている理想の家族像・女性像のステレオタイプを打ち破るまでには至らない。

いろんな意味で問題作だった北川悦吏子脚本の『半分、青い。』(2018年)が、主人公の鈴愛(すずめ)の、漫画家100円ショップ店員→実家の五平餅屋→起業家と、まともに計画も立てないまま職業をとっかえひっかえして「でたらめに生きる(生きられる)自由」を肯定的に描いたことに筆者は密かに喝采を挙げていたのだが、SNSなどでの評価は散々で、その次の『まんぷく』(2018年)がチキンラーメンの創始者である安藤百福を献身的に支える妻・仁子(まさこ)をモデルにした夫婦物語で好評を得たことを思うと、視聴者NHKも、多様な生き方を謳歌することにけっして甘くはない。

『半分、青い。』のような例外的な逸脱をときに許容しつつも、大きくは日本の「家族」や「国家」の共同幻想を強化・維持し、そしてそのなかに女性を留め置く装置として朝ドラはあるとも言えるだろう。逆に、NHKのもう一枚の大看板である大河ドラマが主に「男たちの歴史」を追認するものであることを思えば、月曜から土曜までの朝と日曜夜にお茶の間に届けられる家族と国家の物語によって、日本人は「女らしさ」や「男らしさ」の規範を植えつけられてきたとも言える。

しかし、ここまで書いておいてなんなのだが、筆者があらゆるテレビドラマのなかでもっとも見続けてきたのも他ならぬ朝ドラである。先述した『あまちゃん』では、アイドルに憧れながらも故郷の北三陸市を離れないことを選ぶ足立ユイの立ち位置に批評性を見出し、『ちりとてちん』(2007年)では落語家一門の疑似家族的性質に惹かれ、小説家・田辺聖子の半生を描いた『芋たこなんきん』(2006年)ではアクの強い関西人の群像劇に大笑いした。朝ドラが描く家族像の保守性を嫌う一方で、そこから目を離すことができずにいる自分自身の矛盾は、やがて「私にとっての家族とは何か?」を問う契機ともなる。かくして、このコラムも最新作の『スカーレット』(2019年)へと筆を移すことになる。

主人公の陶芸作家としてのキャリアと、個人としての人生を同時に追いかけていく『スカーレット

今週で最終回を迎える『スカーレット』が題材としてきたのは、戸田恵梨香演じる信楽初の女性陶芸作家・川原喜美子の半生だ。

敗戦の混乱収まらぬ1947年。家族と一緒に夜逃げ同然に滋賀県・信楽に移り住んだ喜美子は、負けん気の強いガキ大将として成長し、やがて女中として働きに出た大阪で絵画の道を志す。しかし、生活能力に欠ける父・常治(ジョージ)にその道を断たれて信楽に連れ戻され、地元の主産業である陶業の絵付け師の見習いとしての生活を始めることになる。物語は、喜美子がいかにして陶芸の道を究め、作家として自立していくかを描くと同時に、先輩陶芸家・八郎との結婚と離婚、家族との死別、自分を追いかけるようにして陶芸家を志す一人息子・武志の成長、そして白血病を発症した武志と過ごす最後の日々……つまり芸術家としてだけでない個人としての人生も追いかけていく。脚本の水橋文美江は『スカーレット』を特集したシナリオ専門誌『ドラマ』(映人社)のインタビューでこう語っている。

陶芸を描くのではなく、あくまでも川原喜美子という女性の人生を描いていく、その過程で女中から絵付け師、陶芸家になるということです。陶芸のノウハウを伝えるドラマではなく、人間を描くということで、そこは気を付けました。

モデルとなった陶芸家・神山清子。骨髄バンクの発足に奔走するなどのエピソード

インタビューでは語られていないが、喜美子にはモデルとなる実在の人物がいる。劇中に登場する陶芸作品の提供者でもある、陶芸家・神山清子だ。信楽を拠点とする神山は、自宅に穴窯を自ら築き、失われていた古来の製法「自然釉」を甦らせ、男性中心だった陶芸の世界に新風を起こした芸術家である。だが、それに留まらない生き方を選んできた人でもある。

ドラマで描かれている白血病になった武志のエピソードはほぼ事実で、神山の実子・神山賢一は29歳のとき慢性骨髄性白血病の宣告を受けている。息子の発病を受けて、神山は当時日本にはまだなかった骨髄バンクの発足に奔走し、わずか1年で骨髄移植推進財団(現在の「日本骨髄バンク」)の設立を実現させた。このほかにも、平和憲法を守る市民活動に参加し、陶芸の文化史において日本と深いつながりを持つ韓国との国際交流に力を入れるなど、芸術と日々の営みの連続性のなかで生きてきた人物が、『スカーレット』の喜美子のモデルである。芸術の深奥に挑む個としてのストイックさを持ちながら、女性として、母として、子としての生き方にも開かれた人間としての喜美子は、このような背景を持って描かれているのだ。

■信楽の地をほとんど離れることがなかった貴美子と、友人以上家族未満の人々との曖昧な共生

59年の長い歴史を持つ朝ドラにおいて、『スカーレット』はけっして逸脱的な物語ではない。しかし、誰しもが直面する現実の厳しさやなすすべのなさに対して、さまざまな迂回路や寄り道を示す物語ではある。行動力も知力も度胸もありながら、喜美子は10代後半の3年弱の大阪生活を除いて、信楽の地を出ることはなかった。また、少女時代から住む実家からすらも離れなかった。酒癖の悪い父を看取り、母・マツの穏やかな死を看取り、厄介ごとをもたらす妹たちが結婚して家を離れても、夫と別居・離婚しても、そしておそらく息子が息を引き取ったとしても喜美子はこの家を離れないだろう。

しかし、それと同じくらい、喜美子は家族以外の他者を家と自分に招き入れてもきた。喜美子の絵付けの師匠となる「フカ先生」こと深野心仙。はじめての弟子となるヒッピー風の美大生・松永三津。作品のファンだといって、なし崩しで同居生活を始めてしまう元女優の小池アンリ。その他にも、喜美子が苦境に陥るたびに現れて救いのヒントを与えてくれる元新聞記者で、のちに政治の道へと進む庵堂ちや子。世界的なアーティストであるジョージ富士川。そういった人々との、血縁や地縁に拘束されない友人以上家族未満の他者との緩く曖昧な共生が、信楽の土地に生きること、あるいは父に代わって家を守ることを選んだ喜美子を、つねに想像/創造的な「外」へと連れ出してくれている気がする。

■手軽に孤立できる「個」の時代、家や土地との関係を改めて考える

さて、ここから少しだけ筆者の個人的な話。ある現代のアーティストの話をしたい。

友人でアーティストの三枝愛は、自身のテーマを「これまで(自分が)関係を結んできたものが守られる仕組みをつくる」ことと述べ、自分の生地に関わる事物を題材にした作品を展開している。作家が「守る」という言葉を使うのは、主に2011年東日本大震災以降の変化で、生家で営んでいた椎茸の原木栽培が放射性物質の汚染によって成り立たなくなったこと、つまり「仕組み」の破綻に起因しているのだが、それ以前に、家制度に対する違和感が、創作活動の原点にあるようだ。

血や土地との結びつきの強い昔ながらの農家の家系に生まれ、長女である自分が家を継ぐ資格を与えられないかもしれないこと、土地を守る主体になれないかもしれない不合理、それゆえに見過ごさざるをえなかった土地や文化の衰えへの静かな怒りが、三枝の作品には通底している。京都を拠点に、長い歴史のなかで培われてきた保存修復の仕事にも関わりながら、ときにその技術を転用して作品を作る作家から筆者が学ぶことは多い。サラリーマン小学校教師の両親のもと都市部で生まれ育ち、固有の風土や縁戚との面倒さをともなう関わりから距離を置いて暮らしてきた自分にとって、それらは家や土地との関わりを再考させる契機になっている。

主にインターネットの普及によって、人は手軽に孤立することのできる「個」の時代の恩恵を享受しているが、例えば現在の新型コロナウイルスの流行による隔離的な生活や、親の高齢化や介護、経済的自立の問題に接したとき、それまでの自由な孤立が制限なしに与えられるものではなかったことを知るだろう。私たちが「在る」ためには、この足で立ち、ときに根付くことのできる土地が必要だ。これは、暮らしの営みや芸術に限らず、哲学や現在の政治とも関わる話だ。

■芸術と地続きにあった貴美子の人生。「不自由」によって開かれた逸脱の可能性

スカーレット』は家族というテーマに、密やかに土や土地の問題を重ね合わせてきたように思う。それは喜美子が人生の時間の大部分を捧げる、土をこねて焼き上げる陶芸の性質においても明らかだが、物語中盤において穴窯という容易に動かすことのできない窯を手作りで設えたあたりから、より鮮明になっていった。

周囲の反対を押し切って、誰も見たことのない陶芸への挑戦を始めたことで、喜美子はパートナーであった八郎との別れを決定的なものにしてしまうが、それと同時に彼女のもとに訪ねてくるのが先述した庵堂ちや子ら、大阪時代の友人たちだ。そうやって、信楽や陶芸や家族の「外」にも自分がつながっている人や土地があるのだと再確認することが、喜美子の人生を次の段階へと後押しする。しかしそれは、喜美子が何らかの不自由を選択したことによって開かれた可能性でもある。そう考えると、ジョージ富士川の芸術観を伝えるキメ台詞「自由は不自由やで!」は、けっして芸術のみに当てはまる言葉ではないだろう。喜美子にとって芸術と人生は地続きにあり、自由と不自由の背中合わせの関係を認めるところから、芸術と人生の逸脱は始まるのかもしれない。

次回の朝ドラエール』は数多くの戦時歌謡を手がけ1964年東京オリンピックの開会式で演奏された“オリンピックマーチ”、そして甲子園の“栄冠は君に輝く”を作曲した「国民的」作曲家の古関裕而、そして来年の大河ドラマでは「日本資本主義の父」とも呼ばれた渋沢栄一の人生が描かれることになる。これを昨今さかんに喧伝される「日本人すごい!」的な懐古主義への回帰と受け止めるか否かは視聴者に委ねられるが、そこに逸脱の可能性はあるだろうか? 近代オリンピックを題材にすることで当初「政治的なプロパガンダではないか?」とのそしりを受けた『いだてん~東京オリムピック噺~』(2019年)が、スポーツ競技の「勝者」ではなく、歴史や政治も含めた「敗者」に目を向けたような逸脱を目にすることはできるだろうか? 東京五輪開催を翌年に控えた『NHK紅白歌合戦』(これもNHKが誇る「国民的」番組だ。ところで3月24日東京五輪の一年延期が発表されましたね)で、『いだてん』が完全にスルーされていたのは「名誉な不名誉」だったと筆者は思う。

いつか朝ドラ大河ドラマで、セクシュアルマイノリティの主人公やポリガミー(複婚)の婚姻関係、「日本人」の属性や制度に包摂されることをよしとしない主人公たちが描かれる日が来てほしい。家族について描きながら、家族主義と個人の距離を測ってきた『スカーレット』は、その日を迎えるための助走なのかもしれない。そして、私たちは拙速にゴールを求めるばかりではなく、そこに至る長い長い歩みと迷いのプロセスをこそしっかりと見ていくべきなのだ。さて、完結まで残り2話である。

(文/島貫泰介)

NHK連続テレビ小説『スカーレット』