第2次世界大戦北アフリカ戦線の舞台は広大な乾燥地帯で、どの程度の規模の部隊がどこへ向かっているのかが敵からも丸見えでした。そのため、その問題を逆手にとった戦法が多用されます。すなわちハリボテなどを用いた欺瞞作戦です。

ロンメルはハリボテを使って戦いを有利に進めた

1941(昭和16)年の2月末から3月にかけて、第2次世界大戦北アフリカ戦線において大きな変化がありました。イタリア軍イギリス軍の戦場だった同戦線に、エルヴィン・ロンメル中将(当時)が指揮するドイツアフリカ軍団が参加したからです。

それまで同戦線はイギリス軍の優位に戦いが進んでいましたが、ロンメルが同戦線に関わるようになると、ドイツイタリアの枢軸軍が反撃に出ます。リビアでの戦線維持が手一杯だった枢軸軍は、最終的にはエジプト国境を越え、逆に攻める側に回るのですが、この戦線で特徴的な騙し合い合戦が起こりました、それが、「欺騙(ぎへん)」と呼ばれるハリボテなどを使った欺瞞(ぎまん)作戦です

北アフリカ戦線でおもな戦場となったリビアエジプトは、当時、地中海に面した沿岸部こそイタリアイギリスの整備した道路が存在しましたが、少しでも南に進むと砂漠などの乾燥地帯が広がっていました。そのため両陣営共に、沿岸地域を歩兵主体の部隊で攻め、相手の主力を拘束しているあいだに、砂漠地帯を戦車や装甲車などの機動兵力で進み、相手の側面や背面を突くという戦法を多用しました。

しかし、当然ですが砂漠などの乾燥地域には、遮蔽物となるものが少なく。航空偵察されると丸見え状態で、発見次第、阻止のために相手の戦車部隊や航空部隊が急行するという、さながら海戦のような戦闘が展開されました。

これを逆手に取ったのがロンメルで、彼の部隊は、自動車に板などを張り付けハリボテの戦車を作り、強力な戦車部隊がいるように度々見せかました。これにより、無駄な戦いをせずにイギリス軍を後退させたり、どの部隊が攻撃の主力なのかわかりにくくしたりすることに成功したのです。

イギリス軍は偽物の基地まで作って偽装!

ハリボテ」は単純な方法かもしれませんが、現在ほど高性能なレンズやカメラなど光学機器のなかった時代、砂煙や地表の熱による空気のゆらぎなどで視認が困難なケースも多かったのです。ちなみにロンメルは、ハリボテ戦車をわかりにくくするために、先頭には本物の戦車部隊を配置し、とにかく砂煙を沢山出すようにと厳命していたそうです。

ほかにも、偽装した燃料集結所、指令所に模した偽の家屋なども設置しました。これら欺瞞作戦がどれほど効果を発揮したかは意見が分かれるところですが、枢軸軍は、戦車の保有数で劣勢の局面が多かったにも関わらず、戦闘を優位に進めて、1942(昭和17)年7月にはエジプトのエル・アラメインまで軍を進めます。

一方イギリス軍も同じく、ハリボテなどを用いた欺瞞作戦を同戦線で活用しました。特に大規模だったものとして知られるのが、1942(昭和17)年10月から開始された「第2次エル・アラメインの戦い」です。このときイギリス軍のモントゴメリー大将は、枢軸軍を北側から攻撃することを計画していましたが、南側から攻撃するように見せかけるために、北側に集めた戦車をトラックに偽装し、南側にはハリボテ戦車のほかに、偽のパイプライン、偽の線路、偽の燃料や水を貯蔵する施設、さらには偽の建築音まで出して偽装しました。

こうした偽装の効果に加え、同地周辺の制空権、制海権をイギリス軍が維持していたこともあり、大規模な反撃が成功。疲弊していた枢軸軍を後退させ、以降、イギリス軍は完全に北アフリカの戦いでの主導権を握ります。

ハリボテを用いた欺瞞作戦は現在でも有効

こうしたハリボテを用いた作戦は、1944(昭和19)年6月6日に実施された、ノルマンディー上陸作戦の偽装工作でも使われました。イギリスはじめ連合軍は、大規模な戦車部隊や車両群をハリボテで作り、イギリス南部に展開し、上陸目標はノルマンディーではなくパ・ド・カレーだとドイツ軍に思い込ませたのです。

このときドイツ軍の欧州西方の守備を指揮いたのは、北アフリカの功績などで元帥にまで昇進していたロンメルで、ノルマンディーへの連合軍上陸の一報を聞き「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」とつぶやいたといわれています。

実はこうしたハリボテでの騙し合いは、現在でも状況によっては有効とされています。コソボ紛争にアメリカなどNATO諸国が介入する形で、1999(平成11)年3月から始まったユーゴスラビア軍に対する空爆では、同軍のダミー戦車を本物と間違って、かなりの数を破壊したことなどが報告されています。また、アメリカ陸軍では近代的なダミー戦車の研究も行っているようです。