―[連載「ニュースディープスロート」<文/古谷経衡>]―


デフレのせいで炎上した『100日後に死ぬワニ

 ツイッター漫画『100日後に死ぬワニ(以下100ワニ)』が大炎上した。連載が終わったと同時に映画化、書籍化、グッズ販売の三点セットが発表されたからで、ツイッター民は「電通のステルスマーケティングにやられた」「これでは感動が台無し」と憤っている。だが、私たち漫画フリークから言わせると、100ワニはそもそも「台無し」になるほどの感動を提供していない。「○○日後に死ぬ」という一点で引きつける話の推進力は、伊丹十三監督の『大病人』(’93年)ですでに行われており、特段目新しくもない。にもかかわらずこの作品がそこまで耳目を引いたのは、「100日後に死ぬ」という設定が昨今目新しいと映ったからである。

 アニメや漫画作品に対する人々の接し方は、ここ四半世紀で劇的に変わった。その作品の商業的展開の裏に大手広告代理店がいるとわかっていても、それは「アーティストの利益になるのだからやむを得ない」という共通了解があった。例えば’97年に公開された『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版シト新生』。上映時間約100分のうち、新作カットは3分の1にも満たない28分で、続きは同年夏にやるという。今なら「博報堂の商業的な主義」と炎上しただろうが、当時そんな批判はなかった。

◆作者は涙ながらに電通との関わりを否定した

「商業姿勢はアーティストにとって当然に主張してよい権利である」と受け入れられる、ファンとしての余裕があった。’98年に放送されたTVアニメカウボーイビバップ』は、現在でもスペースオペラの金字塔として名高いが、地上波では全話の半分しか放送されず「続きが見たいならOVAを買え」という戦略が取られた。それを当時のファンは、その圧倒的なクオリティの前に容認した。「容認しなければこれだけのクオリティアニメを作り出すのは不可能」という、共通認識があった。

 爾来、デフレーションが20年続き、経済が成長せずゼロサムになり、またネットが普及して「嫌儲(けんもう)」というある種の反資本主義的姿勢が生まれた。作家やアーティストが作った作品は、慈善的に無料で供されなければならない、という発想である。

 中近世の欧州の音楽家や画家たちが、王侯貴族や初期資本家の保護のもと「芸術」を開花させたのと同じように、そもそも芸術とはカネにならない道楽の範疇であった。それが近代的資本主義の発展とともに、芸術そのものが資本主義システムの中に組み込まれ、やがてエンタメ業界として勃興していく。採算を度外視したパトロンでもいない限り、芸術そのものは自己で利潤を生まなければ継続しない――という当たり前の価値観を「嫌儲」信徒は無視している。これはデフレ不況が深刻化し、「すべては無料で供されるべきで、そこに利潤があってはいけない」という間違った観念を苗床にしている。

 とはいえ、やはり100ワニは「商業主義に値するだけの作品か」と問われればNOだ。同作を映画化するというが、そんなことなら大友克洋の『童夢』を一刻も早く映画化するのが先である。100ワニの前に、商用展開をするべき作品はいくらでもあるが、それをしようとしない商業勢力がいるのなら、これは芸術に対する審美眼が欠落した単なる怠惰でしかない。

古谷経衡
ふるや・つねひら。’82年、北海道生まれ。若者論、社会、政治、サブカルチャーなど幅広いテーマで執筆活動を行う一方、テレビラジオコメンテーターも担当。『愛国商売』(小学館)が発売中

―[連載「ニュースディープスロート」<文/古谷経衡>]―


最終回の公開後すぐにグッズや映画化情報が発信され、その商用展開の速さと電通が背後にいるのでは?という疑念から瞬く間に炎上。翌日作者が生配信で「電通さんは絡んでない」と否定した。(画像はTwitterより)