第2次世界大戦初期のイギリスは欧州から追い出され、ついに本土での防空戦をすることになります。「スピットファイア」や「ハリケーン」がひっきりなしに飛び立つなか、旋回機銃が主武装というひときわ奇妙な戦闘機がありました。

単発戦闘機なのに前方に武装を持たない野心作「デファイアント」

1940(昭和15)年7月、ヨーロッパ大陸から撤退し、本土をドイツ軍の爆撃にさらされたイギリス軍は、その空軍力を結集してドイツ空軍やイタリア空軍を相手に防空戦、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」を繰り広げます。

この戦いには、当時のイギリス戦闘機の代表格ともいえる「スピットファイア」や「ハリケーン」のほかにも、旧式機や従来の戦闘機とは別のアプローチで開発された戦闘機などが配備されました。

その代表格といえるのがボールトンポール「デファイアント」という戦闘機で、前方に固定機銃を一切持たず、攻撃手段が機体上部の多連装旋回銃塔という、「旋回機銃単発戦闘機」と呼ばれる異色の機体です。

当時の単発戦闘機というのは、一般的には昼間の戦闘を想定して生産されていて、乗るのはパイロットひとりで、機銃などの武器使用もパイロットが行っていました。しかし、「デファイアント」はパイロットと旋回機銃を操作する射手の2名が乗る単発戦闘機という珍しいものでした。

「デファイアント」は英語で「挑戦的な」という意味を持っていますが、この戦闘機は、その名前の通りイギリス軍が、第2次世界大戦前に考えていた“独自の”空戦理論を基に作られた挑戦的な機体でした。

画期的な戦闘機になるはずの「デファイアント」 まさかの低性能

1930年代の戦間期、イギリス空軍は、戦闘機がそれまでの複葉機などから徐々に低翼単葉機の時代に入るにつれ、戦闘機そのものの速度が上がっていったことから、そのうちパイロットが機銃の射撃を担当するのは困難になる場面が出てくるのではと予想しました。そこで思いついたまったく新しい空戦理論が、戦闘機に旋回銃座を搭載することで、パイロットと射撃担当をわけるというものでした。

これにより、速度が上昇し複雑な操作が増えたパイロットは操縦に専念でき、射手は前方固定火器よりも広い射角を持つ旋回銃座を使用することで、攻撃・防御両方で戦闘を優位に進められるだろうと、当時のイギリス空軍は考えたようです。

実は、第1次世界大戦イギリスはすでに、ブリストル F.2「ファイター」という旋回機銃付きでふたり乗りの戦闘機を運用しており、その機体も「デファイアント」のコンセプトに大きな影響を与えたといわれています。

ところが、ブリストル F.2「ファイター」は前方にも機関銃が装備されていました。同機を参考にしたならば、なぜ「デファイアント」では前方機銃を廃止したのか謎ですマッハ越えのジェット戦闘機運用が開始された直後の時代のように、速度が高くなるとそもそもドッグファイトそのものが発生しないと予想したのでしょうか。

ともあれ、その画期的な空戦理論を基にした戦闘機「デファイアント」は、1937(昭和12)年8月に初飛行しますが、いざ飛ばしてみると、普通の単座機より鈍重で満足な運動性能が発揮できないことが判明します。

さらに、期待されていた旋回銃座も7.7mm機銃を4門備え、1か所に火力を集中できることはよかったのですが、自機の垂直尾翼やコックピット、プロペラなどへの誤射を避けるため、自動的に射撃がストップする角度が設けられており、理論通りの広い射角を得られませんでした。

「デファイアント」の戦果は「ハリケーン」に誤認されたおかげ…?

配備前から懐疑的な面が多かったものの、1939(昭和14)年12月から軍で運用を開始した「デファイアント」は、1940年5月末に始まったダンケルク撤退戦などで、ドイツ軍爆撃機ハインケル He111急降下爆撃機のJu87スツーカ」といった撃墜実績をあげました。

しかし、肝心のメッサーシュミットBf109など戦闘機相手では、一方的に撃墜されることが多く、配備直後から早くも2線級の機体という位置づけになってしまいます。

それでも、第2次世界大戦におけるイギリス最大のピンチとなったバトル・オブ・ブリテンでは、戦える戦闘機は全て参加するという切羽詰まった状態だったため、本来の役目である昼間戦闘機として駆り出されます。この戦いにおいてかなりの損害を被り、本土での空戦がひと段落するころには、「デファイアント」は完全に昼間戦闘機としての役目から外されます。

その後「デファイアント」は、夜間戦闘機としての運用も模索されましたが、本格的な夜間戦闘機が登場すると、その役割も終えることになります。なお、ダンケルクからの撤退戦やバトル・オブ・ブリテンでは、戦闘機相手でもそれなりに戦果を挙げたとされていますが、その多くが、「デファイアント」を「ハリケーン」と誤認したドイツ軍機が後ろに回って逆襲されたものといわれています。そのようなミスを招いたのは、「デファイアント」が「ハリケーン」と同じエンジンを使っていたのが一因とも。

ちなみにイギリス海軍も、ブラックバーン「ロック」という同じようなコンセプトの戦闘機を生産・配備しました。こちらは艦載機として、機銃掃射と急降下爆撃を実施した記録が残されていますが、結局、画期的な空戦論を体現したはずの「旋回機銃単発戦闘機」という機種は、後に後継機が続くことはありませんでした。

しかし、ジェット戦闘機では一時期、パイロットひとりだけでは対応しきれないということで、レーダーや火器管制の担当者が同乗する複座戦闘機が多かった時代もありました。実はイギリス空軍の発想は、時期がものすごく早かっただけで、それほど間違いではなかったのかもしれません。

1940年8月、「バトル・オブ・ブリテン」に臨むイギリス空軍の「デファイアント」戦闘機(画像:帝国戦争博物館/IWM)。