4月17日(金)に拙著『積読こそが完全な読書術である』が発売される。この本のなかで筆者は、書物にとって積読の方が本来的な在り方であって、読書という行為はその一部に過ぎない、と主張している。
その理路の詳細は拙著を紐解いていただくとして、今回はその世界観を知ってもらう為におすすめのマンガを何作かセレクトしてみた。家から出にくい昨今、積んでもよし、読んでもよしなマンガをぜひとも堪能していただきたい。

文 / 永田 希

◆壮大な歴史ロマンと書物の深い繋がり『シュトヘル』と『ヒストリエ

人類史上最大の版図を手にすることになるモンゴル帝国。その征服の過程で滅ぼされた国や民族は軍に組み込まれ、さらに他の国や民族と戦うことになる。日本でも蒙古来襲として知られる元寇では、モンゴル帝国に征服された高麗の兵士たちが多く徴兵されていたという。
『シュトヘル』では、中国西北に位置するタングート族の国「西夏」がモンゴル帝国の手勢に滅ぼされ、西夏独特の文字「西夏文字」すらも失われそうになる。モンゴル帝国の大ハンの血を引きながら、その西夏文字を守ろうとするユルールと、そのユルールとともに生き抜くシュトヘルを主人公に、文化というものが背負う重みを描く作品だ。
物語のなかには西夏の図書館「番大学院」や、西夏文字の一覧「玉音同」が登場する。番大学院に所蔵された文献の数は数十万点、玉音同に記された文字は約六千文字。戦争で国が滅ぼされることによって、どれほど巨大な知的、文化的な蓄積が消滅するのかを噛みしめることができる。

ヨーロッパの起源は古代ギリシャにあるが、そのギリシャから見て東方の地域はアジアと呼ばれた。現代の日本で「アジア人」というと、朝鮮半島、中国大陸、東南アジアの人々を思い浮かべられることが多いのだが、ヨーロッパから見るとトルコより東はすべてアジアということになる。その「アジア」とヨーロッパが出会う場所であるギリシャで育ったエウネメスを主人公にして、後世のモンゴル帝国にも比肩する巨大な領域を征服した英雄・アレキサンドロス大王の時代を描くのが『ヒストリエ』だ。
作者の代表作である『寄生獣』を思わせる、「人間」というものの不可思議さや奥深さ、不気味さを的確に描きながら、『ヒストリエ』は「ものを書き残す」ことにもスポットライトを当てている。それは、若き日のエウネメスが養父の邸宅の図書室に入り浸ることにも明確に示されている。

『シュトヘル』には、書物に欠かせない文字が担う重みが描かれている。そして『ヒストリエ』にはさらに時代を遡っても、書物がいかに重要であるかが描かれているのだ。

◆懐かしさと妖しさを蓄える古書の世界『栞と紙魚子』と『あやかし古書庫と少女の魅宝

古来より書物が文化を担う重要なものであるということは、わざわざ宣言するまでもないことかも知れない。筆者の個人的な話をすると、その自明な重要さが権威的に思えて、たくさん本を読んでいると誇る態度に強い抵抗があった。いまでも、多読を誇る人や、筆者の「書評家」という肩書から「たくさん読んでいるんですよね」と持ち上げるように言ってくる人に対しては、「たくさん読んでいるからといって偉いわけではない」と言いたい気持ちを抱えてしまう。
たくさん読んでいるからといって偉いわけではないのに、なぜ人は本を読みたくなってしまうのか、そして時には読みきれないほどの本を買い集めてしまうのか。一言でいえば、本は読者を本の世界へと誘い込む魅力があるからだ。本を読めば読むほどに、その魅力は輝きと吸引力を増していく。

諸星大二郎の不条理ギャグシリーズ『栞と紙魚子』は、新刊書店を営む家庭の娘の栞と、古書店「宇論堂」の娘である紙魚子のふたりを主人公に、さまざまな怪奇現象が起こる世界がユーモラスに描かれる。栞の名前が書物に挟む「しおり」からきているのは誰でもわかるだろうが、紙魚子の名前にある「紙魚」というのは蔵書家を悩ませる、本の紙葉(ページ)を食べる害虫のことである。
紙魚子は稀少な古書のマニアで、普段はトラブルメイカーな栞にツッこむ立場なのに、書物が絡むと自分から面倒ごとに突き進んでいってしまう。
なお本作の作者である諸星大二郎の書痴ぶりは、諸星を含むホラー作家たちの執筆背景を題材にしたルポマンガ集『怪奇まんが道』で描かれている。

古書店が登場するマンガ作品はじつは結構あるのだが、そのなかでもおすすめなのはドリヤス工場『あやかし古書庫と少女の魅宝』だ。妖怪マンガの泰斗である水木しげるの画風を巧みに模倣しながら、水木が描かなかったポップでキッチュな世界を作り上げている。

主人公のイクオの実家が古書店なのだが、そこに隠された秘宝を巡って、どこかで読んだことのあるようなストーリーが展開される。イクオをはじめ、本作の登場人物たちはそれぞれ、いわゆる厨二病的な特殊能力を持っており、イクオの能力は相手の能力を一度だけ複製できる「コピーアットワンス」だ。お気づきの読者も多いかと思うが、この「コピーアットワンス」とは、映画やテレビなどの映像コンテンツを録画する複製行為に対し、それを一度だけ許可する仕様を指す技術用語から来ている。
いっけんしたところ脈絡のない水木しげる風のタッチと、異能バトルという現代的なストーリーは、古いものが集積され堆積している古書店が重要なモチーフとなることで、それをどのように継承していくかという文化的なものに対する姿勢において通底してくる。ただ単に、後ろ向きに古いものを愛好するのではなく、かといって軽薄に新しいものをただ追いかけるのでもなく、古いものを活かしつつ、新しい表現を試みている、とてもわかりやすい事例だろう。温故知新と言ってしむえば簡単だが、往年の名人の技を自家薬籠中の物として、なお単なるノスタルジーに甘んじないというのは簡単なことではない。

◆書物がうちに秘める、名状し難い恐ろしさ『クトゥルフの呼び声

さてここまで紹介してきた作品において「書物」は基本的に、重要な位置づけを与えられているとはいえ、どちらかといえば背景や小道具といった役割で登場することが多かった。しかし『クトゥルフの呼び声』は違う。
いまから百年ほど昔、二十世紀初頭にアメリカで活躍したラブクラフトという作家が構築し、のちに続いた作家たちが体系化した「クトゥルー神話」と呼ばれる物語群がある。既に紹介した『栞と紙魚子』にはこのクトゥルー神話ラブクラフトに着想を得たキャラクターが多数登場するが、この『クトゥルフの呼び声』など、漫画家の田辺 剛が描く「ラブクラフト傑作集」シリーズだ。

ラブクラフトの作品には、ある怪奇現象に遭遇した人物の手記をほかの誰かが発見し、それを読むことでその読者もまた怪奇現象に取り込まれていく構造を採用するという特徴がある。もちろんこれはラブクラフトの専売特許ではなく、詩歌と比べると文学のジャンルとしては新しい部類の「小説」の形式としては珍しくないものだ。しかし、ラブクラフトの作品を読む者は、作中人物が、ある恐ろしい出来事に遭遇した人の手記を読むことで、その手記を書いた人物と同様の現象におびやかされる様子を読むことになる。
現実世界の読者たる私たちにも、もしかしたら作中と同じような怪異が現出するのではないか、という恐ろしさは、この方法でしか描けない。
田辺が卓越した暗く陰影の濃い筆致で描き出すのは、そのような怪奇現象と、その怪奇現象に遭遇した作中人物の手記を読むキャラクターの姿だ。『クトゥルフの呼び声』が巧妙なのは、スリルとおぞましさを味わいながら読み進めた結果、結末で読者が「それまで読んでいたこと」が、あまりの禍々しさに「誰も読んではいけない書物」として封印される禁書の「内容」だったことを知らされるという仕掛けだ。
作中世界では「読んではいけない本」として存在している本なのだが、現実世界でその物語を読み進めてきた読者はその「内容」を読んでしまったことになる。罠といえば罠なのだが、物語にはこのように読者を恐怖に陥れる罠になることができる特性があるのだ。
危険で、おぞましく、恐ろしいはずのこのような物語にはしかし、否定し難い魅力がある。だからこそ『栞と紙魚子』にはクトゥルー神話のキャラクターが引用され、原作の刊行から1世紀を経ようというのに、コミカライズされた作品が繰り返し刊行されつづけているのだろう。

拙著では読者に積読を推奨しているのだが、その際に、書物はそれを手に取った者に「いますぐ読め」と「語りかけてくる」と繰り返し書いている。ひとではないモノにすぎない書物を、いたずら擬人化するのは避けたいところだ。しかし、書物をひとが読みたいと考えるよりも前に、書物が「読め」と呼びかけてくる、そのニュアンスがわかる人は少なくないのではないだろうか。
書物は、まず既に積まれている状態で存在している。読書よりも積読の方が先行しているのだ。このことを忘れている人があまりに多い。積読が読書よりも先にあるという書物の本来性に気がついたとき、いや、その本来性を思い出したとき、読者のみなさんの前には新しくて古い読書体験の世界がひらけていくだろう。

(c)伊藤悠/小学館
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「積読」こそが読書の本質である! 巣ごもり生活のお供にもおすすめな、「本」と「人」との関係を問い直すマンガ特集は、WHAT's IN? tokyoへ。
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掲載:M-ON! Press