青春をテーマにしたキラキラとした作品を見ていると、現実味がまったくないなぁと思って馬鹿にしてしまう。しかし同時に、誰もが青春と聞いて想像するような典型的な要素がたっぷり詰まっているせいで、私の中のそれらに対する憧れの呼び水になって虚しい気分にもさせた。あぁ、私の青春はなんてつまらないのか、こんなにも何事もなく過ぎていくのか、と。

関連情報を含む記事はこちら

「若さには何の価値もない」

 そう断言するのは、有名映画監督の押井守氏である。今回読んだ『凡人として生きるということ』(幻冬舎)の著者であるのだが、本書で語られる彼の価値観は、彼の作品から受ける印象とは違う。SF作品のイメージが強く、永遠に手に入れられないようなものを追求し、現実には物足りない何かを常に空想していたり、一歩抜け出そうとしていたり、そういったイタい人(すみません)かと思っていた。

 しかし、彼の持つ価値観は現実的過ぎるほど現実的で、現実の中に夢を見てる私たち若者の期待すらもものの見事に打ち壊していく。彼の作品は、現実に蔓延る様々なデマゴギーへのアンチテーゼなのだと思うと、すごく合点がいくのだ。見えないようにされている現実を剥き出しにされ、それを非現実と感じてしまう私たち。そんな私たちに、まんまと社会が作り出したデマゴギーに騙されていると彼は言う。

 話は戻るが、「若さには何の価値もない」というのは、若さだけを武器にしているような若者にとって、あまりにもツラい宣告である。特に現代の若者は、経験もスキルも常識もないことへの言い訳として振りかざすものも目立つからだ。ただ「何もできない自分」を認めることもできず、かといって未知のモノ達にベクトルを向けてみるエネルギーも持たない状況への免罪符。つまり、何でも自分で切り開いて手に入れていかなくてはいけなかった時代とは異なり、何もしなくてもどうにかなるだろうという風潮が現代の若者の多くに根付いてしまっているのだ。他人にも社会にも仕舞いには自分にも無関心だ。

 とはいえ、今よりも素敵な人になりたいとぼんやりと考えることもある。しかし、いつまで経っても過去に思い描いていた未来の自分には到底なれていない。これは今までずっと起こり続けてきた現象だ。小学生の時は高校生はすごく大人に見えたし、お洒落で楽しそうで自分もあんな風になるんだろうなと勝手に思っていた。でも、実際に高校生になってみると、なんてことない毎日の延長上にいて、特別何かが急に変わって輝き出すなんてことはなかったし、ましてやちっとも大人でもなかった。 大学もそう。ドラマで見ていたようなキャンパスライフ都市伝説なのかと思うほど、素敵な学生生活とは程遠かったのだった。それでも、過去を振り返ると美化された思い出がそれなりの輝きを持って見えてくるものだ。いつだって、遠い未来に理想を求め、遠い過去に美しさを求めるのだ。

 どうやら、「今」という地点に、「現実」に、しっかりと目を向けられていないらしい。本書では「世間の95%は凡人である」と語られている。圧倒的なこの凡人の私たちがすべきことは与えられた現実の中で、「自分の美学」(信念)と「情熱」を持って生きることだという。今のままでいい、今の自分で胸張って生きていく、ここで生きていく、という現実と向き合って決意を固められるかどうかという単純なことなのかもしれない。過去を振り返って若かりし頃の自分に留まり続けることも、今の困難や不自由さから無理に抜け出そうとすることも、どちらも無意味であるように思えた。自分を認めて、限りなく自分でいること。単純なはずなのに、こんなにも難しい生き方は他にない。

文=カナコ
(ダ・ヴィンチ電子ナビより)

『凡人として生きるということ』(押井守/幻冬舎)