長宗我部(ちょうそかべ)というのは珍しい名字ですが、元は「宗我部」氏といいました。土佐国(高知県)の香美(かみ)郡を本拠にした宗我部氏が「香宗我部(こうそかべ)」氏となり、長岡郡を本拠にした宗我部氏が「長宗我部」氏になったといわれています。

土佐平定、四国全域に勢力伸ばす

 土佐の守護は細川氏でしたが、応仁・文明の乱の頃は細川氏が上洛(じょうらく)続きで、その間隙(かんげき)をついて勢力を伸ばしたのが長宗我部氏でした。しかし、元親(もとちか)が登場した頃の土佐には、香宗我部氏のほか、安芸氏、本山(もとやま)氏、秦泉寺(じんぜんじ)氏、天竺(てんじく)氏、一条氏などがいて、群雄割拠の状態でした。

 1560(永禄3)年、本山茂辰(しげとき)との戦いで初陣を果たしたのが元親で、この戦いで勝ったことにより、長宗我部氏が急速に勢力を伸ばしていくことになります。1569年に安芸氏を討ち、1574(天正2)年には一条氏を土佐から追って、土佐一国の平定に成功しています。

 元親はその後も、土佐一国平定の余勢を駆って、伊予、讃岐、そして阿波にまで兵を進めています。はじめ、織田信長から「四国切り取り自由」といわれていましたが、本当に四国平定になりそうになったところで、信長から「待った」がかかりました。

 元親と信長をつなぐパイプ役を務めていたのが明智光秀で、このことが本能寺の変、光秀謀反の理由の一つともいわれています。

産業奨励で強国築く

 ところで、長宗我部軍の強さの秘密は何だったのでしょうか。

 よく、「一領具足を配下にしていたからだ」といわれることもあります。「一領具足」とは、農作業の際にも、ひとそろいの具足を田畑に置き、いつでも戦場に向かえるようにしていた地侍のことですが、それは何も長宗我部軍だけでなく、兵農未分離の家臣団の場合は基本的に一領具足と同じなので、それが理由とは考えられません。

 さらにいえば、土佐国は山が多く、耕地面積はほとんどなく、太閤(たいこう)検地のデータでも、土佐一国でたった9万8000石にすぎません。

 実は、元親は米の収穫量が少ない分、換金作物の栽培を奨励していたのです。元親の時代に作成された「長宗我部地検帳」によると、米以外の産物、例えば、漆・綿・茶・芋・大豆・小豆・桑などの記載が目につきます。また、山地が多い特性を生かし、木材産業も育成しています。このあたり、元親の着眼点のよさといってよいでしょう。

最愛の長男の死で、失意の晩年

 1582年6月2日本能寺の変が勃発したため、元親は信長には攻められずに済みましたが、次の天下人・豊臣秀吉には1585年に攻められ、その軍門に下っています。そして、そのことによって、元親にはつらい運命が待っていました。

 秀吉が九州攻めの軍を動かすことになったとき、元親は秀吉の命を受けて先遣隊として九州に渡ったのですが、1586(天正14)年12月12日の戸次川(へつぎがわ)の戦いで、一緒に出陣した長男・信親が討ち死にしてしまったのです。

 この戦いは、強兵で知られる薩摩の島津軍が相手でした。元親は慎重論を訴えましたが、軍監的立場の仙石秀久が主張する強攻策を取らざるを得ず、跡継ぎの信親を失ってしまいました。元親自身、人生の目標を失ってしまったかのようになり、それまでの名将ぶりが影をひそめ、精彩を欠く状態になってしまいました。

 もちろん、その後も秀吉の家臣として、1590年の小田原攻めや、その後の朝鮮出兵にも従軍はしていますが、四国平定にまい進していた頃のような覇気は感じられません。

 晩年には、次男、三男を差し置いて四男・盛親を家督に据え、それに反対する一族・重臣を誅殺(ちゅうさつ)しています。期待を寄せていた最愛の長男を失ったことで、そのショックから、人格が変わってしまったものと思われます。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

高知市にある長宗我部元親初陣銅像(高知市提供)