日本陸上界のスター「ストロング・クレイジー」は、和歌山の農家で生まれ育った。高校のインターハイにはアフロパーマで出場。いつもタバコをふかし、酒も毎晩ボトル1本。朝方まで女を抱いた後、日本選手権で優勝。そして幻にされた世界新記録――ノンフィクション作家の上原善広氏は、そんな「溝口のやり」を忘れられず18年以上も取材し続けた。溝口和洋氏の一人称で綴った執念のノンフィクション。(JBpress)

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(※)本稿は『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』(上原善広著、角川文庫)より一部抜粋・再編集したものです。

 私は大学生になってやり投げのために生きることを決意したときから、日常生活も含め、すべてをやり投げに結び付けてきた。箸の上げ下ろしから歩き方まで、極端にいえばセックスをしている最中でも、この動きをやり投げに応用できないかと考え続けてきた。

 45歳で農業を継ぐまで、私はやり投げ選手だったこともあるし、コーチをしていたこともあるし、パチプロとして生計を立てていたこともある。結局のところ、農業もパチプロも、根底はやり投げと共通している。

 もちろん農業には農業の厳しさがある。

 しかし、ついやり投げとつなげて考えてしまう。15で始めたときからこれまで、やり投げのことしか考えてこなかったのだ。自らの前半生を賭けたやり投げは、もはや私の思考の基礎となっている。

 しかしいま、私の手元には、やり投げに関するものが何もない

 トロフィーも表彰状も、何もない

 その代わり、私には、鮮明な記憶だけが残っている。

 何年の何月何日、どの試合の、何頭目が何m何㎝で何位だったか、今でも瞬時にそれを思い出すことができる。

 それ以上の勲章があるだろうか。

世界新記録

 1989年5月の米国西海岸サンノゼは、爽やかな陽気に包まれていた。爽やかな風が、右前方から流れてくる。4投目。やりを持つとピットに入り、やりを担いだ。そして肩関節をカチッと音がするくらいにキメると、すぐに助走に入った。

 助走はもちろん、全力疾走。イチかバチか、全速力で走る。

 クロス・ステップを始める箇所には、ピットすぐそばに白いテープを張ってマーキングをしてある。この目印を視界の端に確認したら、すぐにクロス・ステップに入る。

 クロスは5歩。その時、やり先は目の真横に付ける。

 傍目からは後ろにやりを引いているように見えるが、実際は違う。半身になっているだけで、ここにきてもカチッとキメた肩関節はそのままだ。

 やり投げでスピードが落ちるのが、このクロス・ステップの時だ。やりを構えるために半身になっているため、どうしてもスピードが落ちる。

 しかし、このスピードを殺したくない。重心を低くたもったまま、ダダダッと走り抜けるイメージで、ガニ股気味にクロスする。そしてラスト・クロス。

 他の選手はここで軽く跳んで、着地したときの反動を使って投げるが、全スピードを活かすため、私はラスト・クロスも決して跳ばない。助走で得たスピードを活かしたまま、スクワット230kg以上を挙げる右足を前方へ、思い切り全力で蹴りだす。

 ガンッという衝撃が身体に走った。

 左足による、完全なブロック

 猛スピードで真正面から電柱にぶつかり、一瞬にして止まった事故車のように、助走とクロスから右足によって全力で蹴りだしたパワーを、左足一本で一瞬にして止める。

 左手も固定して、左半身までも一瞬で止めてしまう。

 強烈な衝撃は左足から体幹を通り、右肩へと伝わっていく。

 その衝撃ですでに飛び出そうとしているやりを、ベンチプレス197.5kgを挙げる腕力でさらに前上方へと押し出してやる。

 目の横に付けていたやり先はこのとき、初めて上空を向いて離れていく。

 右肘は、あまりにも急激な衝撃に破ぶれたって構うことはない。全ての力を込めて、やりを上空へと投げる。バンッ、という音にもならない音をたてて、やりは空中へと投げ出された。

 全てのタイミングが合った。

 右手の指にはまだ、やりの重さが感触として残っている。何とかファウル・ライン手前2cmで踏みとどまる。全身が、強烈な痛みで悲鳴をあげる。

 ここで初めて、「ウッ」と声をもらした。

 グッと締めていたあごを上げ、やりの軌跡を追った。

 高く舞い上がったやりは、右前方からの風に乗り、そのまま頂点へ達すると、今度は山なりに落下し、鮮やかな緑色の芝生へと、吸い込まれるようにサクッと突き刺さった。

幻にされた世界記録

 アメリカ人の観客がドッと沸いた。

 やりが着地したのを見届けると、私はそのままピット後方から外へ出た。ファウル・ラインに座っていた審判が、ノー・ファウルを意味する白旗を挙げる。

 上着をはおり、ベンチに腰かけて、次の投擲のために体を冷やさないようにする。

 やがて計測結果が出た。

「エイティーセブン、シックス・エイト」87m68。

「NEW WORLD RECORD!」

 興奮して叫ぶ場内アナウンス。従来の世界記録は87m66だから、2cmの記録更新となる。観客は騒然、他の選手が「コングラッチュレイションッ」と、ぞくぞくと笑顔で私に握手を求めに来る。あまりの騒ぎと英語が聞き取れないので一瞬、何が起きたか分からなかった。

 とにかく途方もない記録が出たことだけは、感触でわかっていた。

 そのとき私は思った。

 全てをこの一瞬に賭け、自分はその賭けに勝ったのだと。

アンフェアなアメリカン・ドリーム

 大騒ぎになっているグラウンドをよそに、計測員たちが集まって何か相談を始めた。どうも様子がおかしい。しきりに首をかしげている。

 やがて世界新記録ということで、再計測が行われることになった。

 ビニール製の安価なメジャーを思い切り引っ張っての再計測を、私だけでなく、選手や観客たちも落ち着かない思いで見守っていた。

 そして二度にわたる計測の結果、最終発表は87m60となった。

 つまり、記録は当初の発表より8cmも短くなってしまい、世界記録ではなくなってしまったのだ。

「そんな馬鹿なッ、これでは世界記録に6cm足りない」トレーナーの村木さんが柵を越えて走ってきた。

溝口さん、あれは絶対に世界新ですよ。計測員がおかしい。抗議しましょう。世界記録をあんな安物のメジャーで測りやがって」

 そこで村木さんと一緒に、計測員に日本語で、「これはおかしいのではないか」と文句を言ったが、メジャー係の男は無視するだけだ。日本語は通じないだろうが、私の言わんとしていることはわかっているはずだ。

 村木さんがさらに英語で抗議したが、白人の計測員は無表情で無視を決め込んでいる。それを見て「これはアカン」と思った私は、村木さんを制してベンチに戻った。

「あんな測り方ってありますか。絶対にあれはおかしい」

 村木さんの気持ちは嬉しかったが、私はもう気持ちを入れ替えていた。

 冷静に考えると、いくら安物のメジャーを引っ張ったとして、それで8cmも縮むわけがない。おそらく芝生にいた計測員が、再計測のとき、故意に着地点をわずか手前にずらしたのだ。

 アメリカ人は、たまにこういうことをする。

 これが記録に厳格なイギリス、またはアジア各国や日本だったら、話はまた違っていただろう。

 そのうえ元々、このサンノゼの競技場はマウントが高い。一般の選手にはわからないかもしれないが、ピットから見ると、やりの着地点辺りが20cmほど盛り上がっているのだ。これが平地のグラウンドだったら、さらに記録は伸びていただろう。

 しかし「やり投げ屋」は、どこへ行こうが、どんな条件でも投げなければならない。そしてその記録は、受け止めなければならない。

 なおも抗議に行こうとする村木さんに、私は言った。

「まあ、こんなものでええか」

「えっ」と驚いた顔で、村木さんは私を見た。

 間近で計測を見ていたのだから、私だって計測員が不正をしていることくらいはわかっていた。腹が立たない、といえば嘘になる。しかし私には、まだこれ以上の記録を出す自信があった。

 私が賭けるべき一瞬は、ここではなかったのだ。まだこの先にあるのだと。

 どちらにしても、向こうがその気なら、こっちはその記録をさらに大幅に伸ばせばいいだけのことだ。たった8cmの差について、アメリカ人とあれこれ争うのは、私の流儀ではない。

 しかし試技を終えたあと、さらに彼らはとんでもないことをしてきた。

 2投目に投げた84m82の大会新記録が、81m82に書きかえられていたのだ。アナウンスでも84mオーバーと聞いていたし、それは会場にいた全員も聞いていたはずだ。私の投げた感覚からいっても、84mは確実に超えていた。一旦出た記録を、後で書きかえるのは明らかにおかしい。

 世界記録には諦めがついていたが、これにははっきりと抗議した。この日の最高記録が87mなのだから、2投目の記録なんかどうでもいいのではないかと人は思うかもしれない。しかし、これだけは譲れなかった。記録は全て、私の足跡そのものだからだ。

 しかし白人の記録係は「いや、これで合っている」の一点張りだ。

「こら、アカン。もう行こうや」私が呆れて言うと、

「なんて奴らだ......」と村木さんが吐き捨てるように言った。

 アメリカン・ドリームと口では言っておきながら、アメリカ人はこうして平気で外国人の足を引っ張る。こんな低レヴェルな奴らとこれ以上、関わりたくなかった。

 無然としたままベンチで着替えをバッグに詰めて、さっさと競技場を出ようとした時だ。

 興奮した観客が柵を越えて、次々とサインや写真を求めて私のもとに殺到してきた。

 私は嬉しかった。何より観客たちそれぞれが、計測員と私たちのトラブルを見た上で、私の実力をよくわかってくれていたのだ。

 疑問の多い試合だったが、自己ベスト更新でWGP初戦を優勝することができたではないかと、思い直すことにした。彼らの求めに応じてサインし、好き勝手に写真を撮らせた。

 言葉のわかる日本ではいつもサインも写真も断るのだが、ここにいる観客たちが、今日の試合を見て感動してくれている。わかってくれているのだと思うと気分が良くなった。

 競技場に立ちながら、私は自然と笑顔になっていた。

WGP最終戦

 WGPシリーズ最終戦は、フランスイタリアの国境に近いモナコでおこなわれた。

 WGPファイナル戦だから、有名選手も多くやってきた。やり投げでは、トップのスティーブ・バックリーとのポイント差は5点で、私は2位につけている。

 ファイナルだけは1位のポイントが倍になるので、この試合で勝てば、私の総合優勝が決まる。日本人初のWGP総合優勝は、目前だった。絶対に負けられない試合だ。

 調整はまずまずだったが、やりがとても重く感じる。やはり筋力が落ちてきているのだろう。

 競技場の受付で、いつも通り試合パンフレットを受け取ると「あれ」と思った。私が表紙になっているのだ。トレーナーの村木さんと思わず顔を見合わせたが、係の女性も満面の笑みで私を見ている。

 他の競技の世界記録保持者もみな、私が表紙になっているパンフレットを持っているので、信じられない気持ちでいた。

 知らない選手までが、そのパンフレットを持ってサインを求めてきたので、これには私も快く応じたが、村木さんが後で、「さっきの彼女は、長距離の世界記録保持者でしたよ」と教えてくれた。

 グラウンドで調整していると、地元メディアはもちろん、日本からも共同通信の記者などが詰め掛けて撮影会が始まってしまう。

 さらに各競技で世界記録を持つ選手たちも次々に私のことを指さすし、カメラを回して私を追っているコーチまでいる。

 体脂肪をギリギリに抑えた私の体重は、87kgにまで減っていた。ベストは88から89kgくらいだ。

 ロンドンで1位になったときも、2位のバックリーは195cmあるし、3位の選手も190cm以上あったから、1位の表彰台に立っても同じ背丈くらいになって恥ずかしかった。

 こんな小柄なアジア人がいきなりWGP(ワールド・グランプリ)ファイナルまでトップ争いをしているので、JAAF(国際陸上競技連盟)も実力を認めてくれたのだろう。

 やはり世界は違う。

 日本でトップを獲っても、これだけの雰囲気を味わうことは不可能だ。後に、みなが私のことを「ストロング・クレイジー」と呼んでいることを知ったときは、「なんや、よう知っとるな」と思った。

 1投目は短助走で、79m32。80mは逃したが、1投目としては、まずまずの記録だろう。バックリーも80m台で、順当に記録を残している。

 2投目からは、全助に切り替えた。記録は80m60と出た。まだスピードに乗りきれていない。こうなったら、もう遠慮はいらない。3投目からは例のごとく、私の専売特許であるイチかバチかのバクチ投げだ。

 3投目、ようやく82m50を出してバックリーを逆転した。

 今日の勝負は「84~85m台をどちらが投げるか」に賭かっていると思った。WGPでは平均すると83mを投げるとトップに出るが、ファイナル戦はみな死に物狂いでくるから、まったく油断ができない。

 4投目からは、記録を狙って思いっきり投げに行ったが、やりは失速して80mラインの手前に落ちた。投げようという意識が強くなったので、ラストの振り切りが前にきてしまったのだ。「投げ急ぎ」というやつだ。

 次の試技順が回ってくるまで、クロスからラストの振り切りまでの動きをもう一度確認する。この時点ではまだ、私がトップだ。5投目。

 残された投擲は、あと2回。逆転されるのはわかっていたから、全力疾走からの速いクロスで、ラストまでスピードを落とすことなく、ガンッとブロックしてやりをぶん投げた。

 83m06。「よしッ、来た」と思った。これで2位とは、1mもの差だ。

 しかしバックリーも含め、他の選手も追い付いてくるのは必至だ。だからラストの6投目で、さらに突き放す必要がある。

 そう考えているところ、やはりバックリーが5投目で84m台を出した。逆転された私は、暫定2位に落ちてしまった。

 簡単に勝たせてもらえないのはわかっていたが、バックリーもようやく本気になってきたようだ。

 ラスト、6投目。

 泣いても笑っても、これが最後なのだ。ファウル上等、スタートから高速で突っ走る。

 自分でもスピードが出過ぎているのがわかったが、もう止めることはできない。そのスピードのままフィニッシュまで持って行く。

 バンッと手を離れたやりが、80mラインを越えたところに突き刺さる。投げた後、2歩で止めることができず、ファウル・ラインを越えたところでようやく止まることができた。

 ファウル。スピードがつき過ぎて、フィニッシュが間に合わなかったのだ。ファウルさえしなければ、85mくらいは出ていたと思うが、こればかりは仕方ない。

 優勝を決めたバックリーは、観客の手拍子とともに投げに行ったが、やりは80mライン辺りに落ちた。わざとファウル・ラインを踏んで、記録なしにする。

 観客からの歓声に、バックリーが両手を挙げて応えていた。悔しくない、といえば嘘になる。しかし83mを投げて負けたのだから、自分としても全力を出したと思った。私はなぜか、満足していた。

 総合優勝は、バックリーに決まった。

 私は総合2位。日本人として初めてWGPシリーズに参戦し、世界の強豪相手に総合2位に付けたのだから、ひとまずはこれで満足するしかないだろう。

 精一杯やったという実感はあった。1日24時間練習したといったら大袈裟に聞こえるかもしれないが、実質、それくらいはやっていた。その結果がWGP総合2位、世界記録まであと6cmだった。

やり投げは、私の全て

 故郷に戻り、農業を継いで、年も経た。

 私についてはもう、多くの人が私の存在を忘れているようだ。

 私はそれで良いと思っている。一投に全てを賭けて、それにおおむね勝つことができたのだから。私には自分に堂々と誇れる過程と結果がある。だから人々から忘れられても何とも思わない。

 やり投げを好きだと思ったことは一度もない。

 しかし、やり投げが私の全てだったことは確かだ。

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