息子が「お前の親父、キングなんていわれてるけど補欠なんだろう?」なんていわれることもあるらしい。そういうとき大事なことは一生懸命頑張ることなんだって思う価値観を身につけて欲しい。

キングカズの全盛期のキレキレっぷりがよくわかる動画|三浦知良スーパーゴール&プレー集 Kazuyoshi MIURA - The Real NO.11

城内FC ダメだよ、チームプレーばっかりしてちゃ。 最後は自分で勝負しなくちゃ。

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「自分自身の原点は城内FCにある」
三浦知良は、伯父の納谷義郎が監督を務める城内FC(http://shizuokagoal.com/jonai/)に入った。
高校サッカーでは
「全国で勝つより静岡予選を突破するほうが難しい」
といわれ、
「日本のブラジル」
の異名を持つ静岡県だが、その中でも納谷義郎はトップクラスの指導者である。
一見、ヤクザみたいで言葉づかいもそれっぽいが、1978年のアルゼンチン大会から毎回ワールドカップを現地にいき生で観戦するなど、サッカーに対する情熱と意識は非常に高く
「サッカーとはこうだ」
「それははこうだ」
と明確でブレない。
また
「ブラジルでは個人技で敵を抜いていくんだ」
「ボールをとられるまでドリブルしろ。
1対1で負けるな」
「理想のサッカーは相手11人を全員ドリブルで抜いてゴールすることだ」
と通常の少年サッカーと違い、徹底して個人技を磨くことを教える。
三浦知良は、城内FCには小学1年生からブラジルに渡る直前の中学3年生まで所属した。
小学校1年のときから学校にはリフティングをしながら通い、近所の人たちから
「あの子は、いつか交通事故に遭う」
と噂されたが最後まで無事故で通した。
城内FCの練習は開放的で楽しく、失敗してもとがめられなかったが、パスに逃げたときだけ怒られた。
「ダメだよ、チームプレーばっかりしてちゃ。
最後は自分で勝負しなくちゃ。
俺はね、とにかく勝負している奴が好きなんだよ」
(納谷義郎)

キングファーザー&マザー

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父:納谷宣雄は、サッカー選手として国体に出場した経験を持ち、日本初のサッカー専門のスポーツ用品店を経営していた。
1976年4月6日、三浦知良が9歳のときに覚せい剤取締法違反の疑い逮捕された。
『納谷から覚せい剤を買っていた盛岡市内の元暴力団員の自供から、納谷が韓国で覚せい剤を大量に買い込んで国内の暴力団員などに売りさばいていた事実がわかり、盛岡署員らが内偵を進めていた。
(中略)
納谷は、5年間は何度でも使える数次旅券を所持し、これまでに十数回も韓国へ渡っていることなどから、覚せい剤を買い入れるブローカーをしていたとみられ、同県警、同署では7日から納谷の覚せい剤密売ルートなどを追求する』
(静岡新聞)
皮革製品の安い韓国でボールを製造し、輸入していたため
『サッカーボールの中に覚せい剤を忍ばせ運んだ可能性もある』
ともいわれたが韓国でのボール製造、輸入と逮捕は無関係だった。
納谷宣雄は当時のことを聞かれると
『俺は捕まっても口を割らなかった』
と話す豪快な人だった。
1978年7月8日、再び麻薬取締法違反で逮捕。
1979年2月、懲役1年10月の実刑判決を食らった。
出所後、納谷宣雄はブラジルに移住。
ブラジルサッカーの映像権販売、日本人のブラジルに留学斡旋というサッカー好きらしいビジネスを始めた。
やがて外貨法関連で逮捕され留置場の中で殺し屋とも仲良くなった。
「俺を敵にすれば殺し屋がくるぞ」
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母:三浦由子は夫の2度目の逮捕後、離婚し同じ町内、元の家から数百m離れた場所(静岡県静岡市葵区安東1丁目1-4)に「もんじゃや」をオープン。
知良は三浦性となった。
「変わった親子関係と思う人もいるかもしれないけど、自分のことだから、何が普通なのかよくわからないんだよね。
勉強やれっていわれた記憶もまったくない。
とにかくサッカーをやれる環境だけはずっと与えてくれた」

近所カズ

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三浦知良は、サッカー同様、遊びも1日も休まなかった。
近所の子に
「もんじゃや集合!」
と電話して集合。
3分経っても来ないと
「まだか?」
と催促の電話。
野球では、ピッチャーのときは江川卓、バッターなら篠塚和典など巨人の選手になり切った。
テープで音楽を流して口パクで大好きシャネルズを歌う「マネルズ」を結成し、もんじゃやでコンサート。
ルパンごっこは、おもちゃのワルサーP38に赤いジャケットでルパン、そして次元、五エ門、銭形になり切って、静岡けんみんテレビの全フロアを使い、銭形役が鬼となる鬼ごっこだった。
野球部に入った城内FCの仲間がいた。
三浦知良は外野で球拾いをしている仲間の周りをドリブルでグルグル回り囁いた。
「お前のいる場所はそっちじゃなくてこっちだぞ」
耐え切れず1週間で野球を辞めた仲間はサッカーに戻ったが、現在でも三浦知良にいろいろな場所で連れていかれたとき
「幼馴染で野球部のテッちゃんです」
と紹介されている。
僕にとってカズさんは「キングカズ」である前に「近所カズ」なんです。
カズさんは今でもチームの後輩、友人、その他いろいろな人を連れているところは昔を変わりませんね。
面倒見がよいというかわがままというかさみしがり屋というか・・・
みんなカズさんからの「集合!」の一言で集まっちゃうんですよね」
(テッちゃんこと松永哲佳)

進路希望「ブラジルでプロサッカー選手になる」

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中学3年生のとき、ブラジルに行く以外考えていなかった三浦知良は、進路希望調査票に
「第一希望 ブラジルでプロサッカー選手になる」
と書き、担任の海野実に
「ふざけるな!」
と激怒された。
「当時、日本でプロスポーツといえば野球、ゴルフであり、サッカーのプロなど知らなかった。
勉強嫌いで授業中は居眠りばかり。
帰りの会を抜け出しサッカー練習に出かけるカズに困ったやつだと思っていたが、卒業後、ブラジルにいったときケガだけはしないようにと祈っていた。
私の話の最中に教室の中央でカズが投げ上げたサッカーボールをゴミ箱に捨てた私に向かって叫んだカズの言葉は
『何をするんだ。
サッカーボールは僕の命だ』
私も負けじと胸倉をつかんで廊下に引っ張り出した。
ブラジルから帰国したカズの報道番組へビデオ出演依頼が舞い込んできた。
『生出演するカズさんには内緒ですよ』と。
その折、テレビ局のスタッフに託したカズの中学時代の学級だよりの最後のページに「俺の負けだ」と書き添えた。
中学3年時の進路希望調査票に「ブラジルでサッカー選手になる」と書いてきたカズを職員室で怒鳴りつけ追い返した私の負けです。
テレビ出演後、スタジオからかかってきたカズの電話にビックリ。
『先生、負けだなんていわないでくださいよ』
泣けるセリフでした」
(海野実)

15歳で単身ブラジルに

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1982年、静岡学園高校を8カ月で中退。
15歳で単身ブラジルに乗り込んだ。
誰もがブラジルでプロのサッカー選手になるのは無理だろうと思っていた。
「ブラジルでプロになるなんて100%無理だっていわれた。
でも俺は成功するとかしないとか、まったく考えていなかった。
俺自身にとっても勝負だったから。
考えるよりやらなきゃしょうがないだろって感じだった。
知良がどうなるかより日本のサッカーがブラジルで通用するか、俺の教えたことが本場で通用するか、そっちのほうが大事だった。
ブラジルに対する挑戦だったんだよな」
(納谷義郎)
ブラジルはサッカーの国だった。
ワールドカップ大会中、ブラジル代表の試合がある日は仕事が休みになり、ブラジル代表が点を入れると街中で花火が鳴り、試合後は国旗を持って車に乗って振り回された。
裕福な家で育ってサッカー選手を目指す子供は少なく、サッカーは貧しい子供たちがストリートでやるものだった。
そこで目立てばクラブにスカウトされ、小学生でも交通費やボールやスパイクがもらえた。
サッカーは生活のため、お金を稼ぐ手段だった。
ブラジルではまずCAジュベントスのユースに所属し、2年目にECキンゼ・デ・ノヴェンブロのユースへ移籍。
やはり困難は多かった。
家族や友人から離れて生活し、練習場には誰よりも早く行き、全体練習の後も独りで練習し、誰よりも遅く帰った。
他の選手とのコミュニケーションや監督に指示を理解するためにも学校に通ってポルトガル語を学ばなければならなかった。
選手同士の競争は激しく、困難を乗り越えるために強い意志でひたすら練習を重ねた。
3年目には夢を諦め日本に帰ることを本気で考えていた。
ブラジルには自分よりもはるかに才能がある人間がたくさんいて、それでもプロになれずドロップアウトしていく人間もたくさんいた。
「言葉や食事の違いなんて何ともない。
悩みのすべては試合に出られないことだった」
ある日、公園にいくとサッカーをしている少年たちがいた。
中には裸足の子や片足がない子もいて、ボールも古い汚いものだったが、みんな楽しそうにそれを追っていた。
(自分には両足もスパイクも、きれいなボールもある。
何を贅沢なことをいっているんだ)
(逃げて日本に帰るようなことはしたくない)
三浦知良は思い止まり、挑戦を継続した。
同年8月、キンゼ・デ・ジャウーの一員として日本へ行き、中山雅史や武田修宏らがいた静岡高校選抜と対戦。
中学生だった川口能活もサイン会で初めて三浦知良と出会った。
ブラジルに帰国後、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に日本人として初出場した。

キング・ペレ O Rei do futebol 比類なきサッカーの王様

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ある日、ロッカールームのドアを開けると、そこにシャワーを浴びたばかりの裸のペレがいた。
「カモモトを知ってる?」
ペレは、1940年、15歳で入団して以来、1974年までサントスでプレーし、2度のクラブ世界一。
ブラジル代表としてもワールドカップで3度優勝。
合計5度、世界チャンピオンを経験。
1975年からニューヨーク・コスモスに移籍。
1977年に引退。
22年の現役中、1363試合に出場し1283ゴールを決めた「20世紀最高のサッカー選手」「サッカーの神様」
「ペレ。
この短い言葉の響きは幼いころの僕にとって世界で1番すばらしいもの。
夢そのものを指していたようにさえ思える。
誰から聞いたというわけではなく気がついたときには自分の意識の奥深くに彼の名とプレーが刻み込まれていた・・・
そんな感じなんだ。
特に70年メキシコW杯のビデオをみたときの衝撃は忘れられない
ペレのプレーは一言でいうとすごくシンプル。
難しいことはほとんどしていない。
それなのに相手を抜けるしゴールを決められる。
マネできそうでできないんだ」

18歳でサントスとプロ契約

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1986年2月24日、18歳の三浦知良はサントスFCとプロ契約を結んだ。
するとベッドのシーツは真っ白になり、長距離移動もバスから飛行機に変わり、ステーキの厚みも全然違い、トイレの便座でさえ違った。
「成り上がろう、ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。
日本ではそういう格差が少ないからね」
サントスは、セルジーニョ・シュラッパ(1982年のワールドカップスペイン大会ブラジル代表)、ゼ.セルジオ(柏レイソル監督)、ロドリフォ・ロドリゲス(ウルグアイ代表ゴールキーパー)など、すごいメンバーが集まっていた。
サントス所属のブラジル人選手の半数以上がブラジル代表経験者だった。
メキシコ遠征のとき、試合に後半から出たとき
「ジャポネイス!」
と後ろ(味方)から怒鳴られた。
「これは一生懸命やらないと・・」
気合を入れて最初のプレーで思い切りタックルにいったら1発退場になった。
試合が終わって恐る恐る部屋に戻ると
「カズ、なに食べに行く?」
と笑顔でいわれた。
しかし試合になるとまた
「サントスの先輩はほんとに怖かった。
味方への厳しさが半端じゃない。
コーナーキックを蹴ろうとする僕の足がビクつくほどプレッシャーをかけてくる。
ちょっとヘマをすれば
『へたくそ日本人! 帰れ!』
試合中、しかも味方のコーナーキックにですよ」
やがてポルトガル語ががうまくなるとみんなでふざけあうようになった。
懸命にフィジカルを鍛え、全体練習の後も独り残ってフリーキックやクロスの練習を行う姿に他の選手も刺激を受けた。
サントスのセンターフォワードはセルジーニョ・シュラッパだった
1982年のワールドカップスペイン大会においてブラジル代表は、、トーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコという屈指のミッドフィルダー4人で「黄金のカルテット」または「黄金の4人組」と呼ばれる中盤を形成し、そのサッカーは多くの人を魅了した。
セルジーニョ・シュラッパは、そのチームでもセンターフォワードだった。
高い技術と重戦車のような突破力を併せ持つストライカーだった。
そしてすごく熱くて破天荒で、レッドカード、退場、出場停止、お構いなく暴れた。
自分のマークについたディフェンダーは威嚇し、判定をめぐりラインズマンを暴行、相手ゴールキーパーを踏みつけ、試合後、相手選手を相手チームのロッカールームまで追っていったこともあった。
ある日の試合で、セルジーニョはベンチスタートだった。
ピッチでは若い味方選手が相手チームにかなり削られていた。
セルジーニョは戦闘体勢で何度もベンチを飛び出しそうになった。
後半になってもその若い選手は激しくやられていた。
「俺は38歳でもう引退だから止めないでくれ」
そう監督にいい残し、飛び出した。
2人の相手につかみかかり、引きずり回し、回し蹴りを入れ、3ヶ月出場停止になった。
そしてその復帰戦でゴールを決め、また退場させられた。
また練習はしなかった。
朝のランニングは1人だけ歩いた。
「今日は用事があるから早めに練習を切り上げたい」
と監督に申し出てOKが出ると私服のままグラウンドを2周走ってそのまま帰った。
「最低でもトレーニングウェアに着替えるとかするでしょ。
彼はジーパンのまま走ってたからね」
問題は多かったがみんなに愛され慕われていた。
三浦知良にとって憧れの選手でもあった。
体の使い方などサッカーの技術はもちろん、どんなときでも動じない精神力を学んだ。
決勝戦や大舞台では必ずゴールを決めていた印象があった。
どんな状況、どんな相手でも関係ない。
自分は自分。
俺はセルジーニョ・シュラッパだ。
そんな姿勢が勉強になった。
「すべては自信という裏づけがあるからできるんだよね」

キリンカップ86決勝 パルメイラスvsブレーメン

中野登美雄(日本サッカー協会事務局長)は、毎年、ブラジルのチームを日本に呼ぶためにサンパウロを訪れていた。
そして三浦知良に出会った。
「スピード、瞬発力、判断力、すべてが日本人のレベルとは段違い。
ブラジル人と比べても勝っていた。
カズの雄姿を是非日本のファンにみてもらいたい」
そしてパルメイラスに期限つきで移籍させ日本に呼んだ。
1986年5月11~18日、キリンカップ(日本で4月から6月ごろに開催されているサッカーの国際親善大会)が開催され、ブレーメン(西ドイツ)、アルジェリア代表、パルメイラス(ブラジル)、日本代表の4チームが参加。
三浦知良はパルメイラスの一員として来日し、ゴールこそなかったが、ドリブル突破や精度の高いクロスで味方の得点をアシストした。
4チームの総当たり戦後、上位2チームが決勝戦で当たるシステムで、ブレーメンとパルメイラスが対戦した。
ブレーメンには奥平康彦がいた。
この試合後、帰国が決まっていた奥平康彦はキャプテンを任された。
先制点はパルメイラスだったが、ブレーメンは追いつき延長に持ち込み、オルデネビッツ(後のJリーグ得点王)の2得点などで逆転勝利で優勝した。
19歳の三浦知良は、この決勝戦には出場しなかったが、試合後の夜の食事会で34歳の奥平康彦と話した。
「19歳のカズと奥寺の対決に日本のファンは盛り上がっていたけど僕自身は複雑だった。
というのもカズ自身のパフォーマンスは悪くなかったけど連携が不十分なところがあったから。
カズはこんなもんじゃないと声を大にしていいたかった」
(中野登美雄)
「体つきが子供で印象に残らなかったが、
『日本に帰ろうと思っています』
というから
『残ったほうがいい。
もう少し修行しなさい』
と助言した。
そのほうが成長できると思ったからね」
(奥平康彦)
奥平康彦(横浜FC会長)は、1977年、25歳のとき古川電工サッカー部からドイツのブンデスリーガのケルンに移籍し日本初のプロサッカー選手となった。
日本代表として西ドイツで合宿を行っていたとき、代表20人は5人ずつ4グループに分かれ、ブンデスリーガの練習に参加した。
奥平康彦はケルンの練習に参加し、そのプレーがバイスバイラー監督に気に入られ、帰国前に直接オファーを受けた。
事情を聞いた古川電工は快く移籍を認めた。
古川電工サッカー部は名門だったが、全員が社員選手だった。
それがいきなり世界最高峰のリーグでプロ契約することになり、収入も激増した。
基本給は、手取り10万円台だったものがが10倍になり、試合に勝つと2000マルク(約24万円)の勝利給も出た。
その後、ヘルタ・ベルリンやブレーメンでもプレーし、正確なキックは「東洋のコンピューター」といわれた。
そしてキンリンカップを最後に9年ぶりにドイツから日本の戻った。
日本サッカー協会は、「スペシャルライセンスプレーヤー制度」を導入し、奥平康彦は古川電工と日本初のプロ契約を結んだ。
「サラリーマンサッカーの時代は終わった」
しかし帰国後、感じたのは歯がゆさだった。
まずドイツと日本のレベルの差は大きさを痛感した。
そしてアドバイスしても
「奥寺さんはプロだからいいよね」
という声が返ってきたときは唖然とした。
向上心がないわけではないが、プロと社員選手では懸かっているものが違った。
1987年、日本代表としてソウルオリンピックのアジア最終予選に進出。
最終的に中国との決戦となり、アウェー戦を1対0で勝った後、ホームを0対2で負け、最後の最後でオリンピック出場を逃した。
日本の1968年のメキシコオリンピックの銅メダル以降、5大会連続予選敗退に、古川電工で奥平康彦の上司だった川渕三郎(Jリーグ初代チェアマン)は危機感を抱いた。
「早くプロリーグをつくらないとアジアからも遅れる」
1988年、奥平康彦は引退。
Jリーグがスタートしたのは5年後だった。

設楽りさ子にひと目ぼれ

 (2188013)

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またこの帰国時、JALのキャンペーンガールとして週刊誌のグラビアを飾っていた設楽りさ子をみてひと目ぼれ。
「『こんな女性がいるのか』と僕の胸が震えたのは19歳。
伴侶のあの美しさを超える女性は僕の中で見当たりません」
すぐに知り合いの記者に頼んだ。
「この子の連絡先、調べてきてよ」
記者は所属芸能事務所の電話番号しかわからなかったが、数日後、三浦知良を訪ねた。
「設楽さんの連絡先ですけど・・・」
「もう大丈夫。
さっき一緒にお茶していたから」
三浦知良はファッション雑誌に掲載されている情報から設楽りさ子が通っている大学をつかみ、同じ大学の同級生の女性にコンタクトし設楽りさ子の電話番号を手に入れた。
「会ってくれなければブラジルに帰れない」
ブラジルからも毎週手紙を書き、1990年に日本に本格的に帰国後も交際を続け、1993年に結婚した。
プロポーズの言葉は
「どんな事があっても僕についてきてくれるか?」
だった。
2人の息子ができて、三浦知良は家でも家族を笑わせた。
幼稚園に通っていた長男に
「8+6」
を聞かれ、間違え、妻に長男一緒に怒られた。

ジャイアント・キリング ジーコと対戦

 (2188011)

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ブラジルに帰国した三浦知良はタッチサンパウロというサンパウロ州の20歳以下の大会で、負けていた試合で同点に追いつくPKを決め、初めて「カズコール」を受けた。
翌日、新聞に見出しが躍った。
『Kazu e um heroi japones”(カズは日本のヒーローだ)』
しかしサントスFCで活躍できたのは8ヵ月後だけで、SEマツバラへ移籍した。
そしてSEマツバラではレギュラーとして南部3州リーグ優勝に貢献した。
バスで22時間かけて移動して土のグラウンドで試合し、また24時間かけて帰ったり、2部に落ちかかった試合で後半40分くらいまで勝っていたらスタジアムのライトを消してゲームを終わらせたり、苛酷な環境や生存競争の激しさ、いい悪いは別にして絶対に負けないという勝負根性などプロのサッカー選手であるために何が必要なのかを思い知らされた。
1987年10月、クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍。
このクラブでもレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。
1988年、キンゼ・デ・ジャウーへ再移籍。
格上のSCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人として、リーグ戦初得点を挙げ、3対2で勝った。
このジャイアント・キリングによってブラジル全土に「三浦知良」という名が知れ渡り、ブラジルのサッカー専門誌:プラカーの年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位となり、ジャウー市からは名誉市民賞が贈られた。
1989年2月、コリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した。
またフラメンゴ戦では、ジーコと初対決した。
「僕の人生の中には宝物といえる試合がある。
フラメンゴのジーコと対戦したことは間違いなくその1つだといえる。
これは僕の自慢であり誇りだと言い換えてもよい」
試合はコリチーバのホームスタジアムで行われ、45000人のファンで超満員にだった。
試合前の握手のとき、21歳の三浦知良にジーコは
「成功を祈っている」
と声をかけた。
「初めてカズのことを耳にしたのは80年代後半だった。
プロになりたくてブラジルに来た日本人の少年が1部リーグのキンゼ・デ・ジャウーと契約したというのはちょっとしたニュースだった」
(ジーコ)
ジーコは、セルジーニョ・シュラッパ同様、1982年のワールドカップスペイン大会にブラジル代表として出場し、黄金の4人の1人として中盤を形成した。
シュート、ドリブル、パス、フリーキック、すべてが華麗で強力、何よりクレバーで、その存在は4人の中でも別格だった。
24歳のベベト、21歳のジーニョ、19歳のレオナルドという若いタレントと38歳のジーコを配したフラメンゴは前年、ブラジル全国選手権で優勝していた。
コルチーバは前半は0対2でリードされたが、後半に2対2に追いつき、最後はPK戦で勝った。

23歳でサントスのレギュラー

 (2188032)

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「Kazu Miura」の名前が雑誌や新聞のベストイレブンに掲載されるようになった。
「こんな雑誌に載るなんて夢だよな」
数年前にはそう思っていたことが現実になった。
1989年、テレビ朝日「ビートたけしのスポーツ大将」に出演。
番組内の企画のサッカー対戦で、助っ人としてゴールを決めた。
このときラッシャー板前のマンションに同居させてもらっていた。
「彼が19~20才で、まだ有名じゃなかったときです。
カズさんと一つ屋根の下でたぬきそばとカツ丼を分け合って食べたりしていましたね。 
同居のよさは気遣いが染みつくこと。
率先してお酒をつくるようになるし、冷房の温度は妥協するようになるし、聞かれたくない電話は聞かないふりができるようになるし、人との距離が上手になりますよね。
それは社会でも生かせるスキルです」
(ラッシャー板前)
1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍。
4月29日、パウリスタ選手権においてアウェーのパルメイラス戦はアウェーでサントスは苦戦していた。
ペペ監督になんとか状況を打開してくれとピッチに送り出された三浦知良は、1得点1アシスト、チームは2対1で勝った。
ブラジルの新聞はスポーツ紙、一般紙共に三浦知良の活躍を伝え、そのゴールシーンはプラカーの表紙となった。
「カズの優れた点は、ヴェロシダージ(スピード)、フォルサ(パワー)、デテルミナソン(決定力)だ」
というペペ監督は、現役時代1951年にサントスに入団して以来1969年に引退するまでサントス一筋だった。
現役時代、三浦知良同様、左ウィングで
「ペレは1000ゴール決めたが、俺は500ゴール決めた」
と自慢し
「どうやったらセンタリングうまくできますか?」
と質問されると
「ペペのようにやれ」
と答えた。
サントスはビッグクラブで、サポーターの数が多く、メディアの注目度も高く、試合で選手には大きなプレッシャーがかかったが
「お前がよいプレーをしたらお前の手柄。
お前がよくないプレーをしたら俺の責任。
お前の責任じゃない。
心配するな」
と送り出した。
三浦知良は18歳でサントスとプロ契約し、23歳でレギュラーとなった。
現在までブラジルで活躍し有名になり成功した唯一の日本人サッカー選手であり、その永住権を更新するため最低でも2年に1度はブラジルを訪れている。
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ブラジル留学にいっていた北澤豪は、たまたま足を運んだスタジアムでブラジル人を翻弄する三浦知良をみて、そのプレーに衝撃を受けた。
そして同じ日本人というだけで、相手チームのサポーターから小便をかけられた。
数日後、日本人街のサウナで偶然、三浦知良と会い
「もうすぐ日本に帰るよ」
といわれた。
霜田正浩(Jリーガー、コーチ、日本サッカー協会技術委員)も、高校を卒業後、ブラジルに留学した。
海岸で三浦知良と日本人留学生数人でサッカーをしていたときブラジル人に
「日本人にサッカーなんてできるのか?」
とからかわれトラブルになった。
大きな体をしたブラジル人だったが、三浦和良は1人
「ふざけるなよ」
と立ち向かっていった。
「しょっちゅうそんなことがあったから。
殴り合いとまでいかなくてもいわれたらいい返す。
いつもブラジル人には挑戦的だった。
当時、サッカーの世界では日本人は1番下だったから、扱い、みる目、すべてが下。
よくバカにされることもあった」
 (2188025)

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ある休日、都並敏史は、家族と読売クラブのサッカー場に隣接する遊園地を訪れ、観覧車に乗って楽しんでいた。
するとグラウンドで同じくオフで日本で帰ってきて自主トレをしている三浦知良を見つけ、その激しさに驚いた。
自主トレを終えた頃、集まり出した選手たちに
「ボール回しやりませんか?」
と誘われ
「今ケガできないからやめとく」
とキッパリ断るのをみて再び驚いた。
「本物のプロはここまで注意するのかとガーンと頭から熱湯かけられたような気がした」

日本サッカーのショボさ

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1990年7月、三浦知良は、日本サッカーリーグ(JSL)の読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)に移籍した。
日本のプロサッカー(Jリーグ)の発足、また日本代表のW杯出場を見据えた移籍だった。
デビュー戦は、味方からパスを受けて相手ゴールキーパーと1対1になり、抜こうとしたがひっかけられて右足首を捻挫し、前半15分で負傷退場した。
ブラジルでは背番号固定制ではなく先発選手がポジションごとに1番から11番をつけるシステムで、左ウィングは11番だった。
帰国後も11番を希望したがすでに使用されていたので24番になった。
(翌シーズンからは11番になった)
またブラジルでは左ウイングだったが、帰国後はセンターフォワードとしてゴールを量産するようになった。
「フォワードに必要なのは一瞬のキレと判断力、冷静さといい加減さ。
試合で何本シュートを外してもめげずに次のパスを要求で切るような精神的な強さ、周りに何をいわれようと一切気にしない図太さが絶対に必要になる。
自分の失敗を棚に上げられるいい加減さというのが日本人フォワードに1番足りない部分じゃないかと思っている」
また攻撃だけのフォワードではなく、守備もしっかりこなし、献身的なプレーもみせる。
「サッカーに対する考え方として「ゴールがすべてじゃない」と思っている。
攻撃も守備も、ドリブルもパスもゴールもアシストも等しく価値があるもんなんだ」
パス、トラップ、シュートなどの基本的なプレーは高いレベルにある。
そして何より強力なドリブル、そしてフェイントとスピードで相手ディフェンスを一瞬で置き去りにした。
左右両方で蹴れるスイッチキッカーでその精度は高かった。
177cm、72kgの体は、決して大きいものではなく、しかも硬かった。
身体的な素質はあまり恵まれていないかもしれないが精神的な強さは並外れ、なにがあろうとビクともせずココ一番ではゴールを決めた。
 (2188035)

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しかし日本でサッカーはマイナーだった。
三浦知良といっても、ロス疑惑の容疑者:三浦和義と勘違いされることもあった。
サッカーも常に全力で走り回ってガチャガチャとやりあうような、監督に「あいつをマークしろ」といわれれば全然関係ないところでもついていくような、ある種異様なスタイルだった。
当然、練習法も違い、かなり戸惑うことも多かった。
「日本に戻ってきたとき、日本サッカーには本当に何もなかった。
ある程度予想はしていたけどさすがに少し戸惑った。
ブラジルではドクターやマッサージ師はもちろんホペイロ(用具係)や洗濯係まで選手を支える各ポジションにプロがいた。
読売クラブは当時の日本ではプロフェッショナリズムが1番進んでいたと思うけど、それでもクラブハウスはプレハブの域を出ていなかった。
スパイクの手入れもユニフォームの洗濯も選手が自分でやるのが当然のことだった」
日本代表に選ばれ、北京で行われるアジアカップに向けて合宿に入ったが、小さなホテルに泊まり、練習は芝生がはげて凸凹になった公園のような場所で行われた。
スタッフ数も少なく、練習器具や設備も貧相だった。
ブラジル代表との差、日本代表のショボさに三浦和良は驚いた。
またラモス瑠偉や三浦和良は、日本代表として出場給や勝利給をサッカー協会に要求した。
しかし認められず、
「じゃあ俺たちは北京にいかない」
とゴネた。
2人はその後も環境や待遇の改善を求め、どんどん要求を出していった。
サッカー協会の強化部長だった川淵三郎は対応に手を焼いた。
「日本代表にも本当のプロが入ったんだなという印象を持ったと同時に、ラモスやカズのような選手をまとめていくには日本人監督では無理なんじゃないかとも思った」
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1991年、三浦知良の推薦で読売クラブの監督となったペペは、ブラジルでも有数のホペイロであるベハーゼ氏をブラジルから招聘した。
日本サッカー初のプロのホペイロ(用具係)だった。
彼の最初の仕事は、ロッカールームに1人1人の用具を入れる棚をつくることだった。
1人、徹夜でその作業を行った。
これによって例えば雨に日に履いたスパイクが翌日には同じ状態で戻せるようになるからだ。
「最初は僕が信用されていないことがわかった。
最初の試合はヤマハ戦だった。
試合が終わった後、僕のところにスパイクやユニフォームを置いていったのは19人の選手で8人だけだった。
僕は自分の仕事を認めてもらおうと全力で仕事をした。
スパイクの泥を落とし手入れをして磨いた。
ユニフォームは洗濯しアイロンをかけた」
三浦知良は、みんなが集まったときベハーゼ氏を紹介し、ホペイロがチームでどれだけ大切か、その仕事の重要性を話した。
「チームのためにできることをやる」
ベハーゼ氏はプロとして黙々と働いた。
やがて日本人の弟子もでき、日本にその仕事を根づかせた。
当初8ヶ月の契約だったが結局8年間も日本で仕事をした。
三浦知良はスポーツクラブに入った。
当初はジャグジーに入ったりくつろぐためにいっていたが、半年くらい経つと真剣にトレーニングをするようになった。
以後数年間、週2、3回、チーム練習後にジムに行き、筋力アップを意識してトレーニングを行った。
トレーナーの岩崎朗子(ベンチプレスでアジア選手権1位、世界選手権3位)はジムで三浦知良に出会った。
最初は
「チャラいやつだな」
と思っていたが、やがて一緒にトレーニングをするようになり、ジム以外でもクラブなどで遊ぶようにもなった。
サッカー選手のトレーニングに関わるのは初めてで、練習や試合を見学にいき動きをみたり、サッカーのトレーニング本を読み漁りメニューを組んだ。
「30代のとき『あんたが引退するまで結婚しない』っていったことがありました。
それは『姉御、ちょっと来てくれ』といわれたときにポンッと出かけていける自由な身でいたかったから。
おかげで今も独身です」

オフトJapan

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1992年3月、サッカー日本代表監督に史上初の外国人監督として44歳のオランダ人のハンス・オフトが就任した。
1982年に当時2部だったヤマハ発動機(現:ジュビロ磐田)に臨時コーチとして来日し2カ月で1部昇格および天皇杯初優勝に導いた経歴を持つ。
最初の浜松のキャンプでは
「選手の状態を知りたい」
と22時までロビーに居座り、誰が出入りし、誰と誰が仲がいいかなどをチェック。
22時30分になるとコーチに部屋をみてこいと指示し、誰が寝て誰が起きてるかチェックし、朝は必ず選手たちと握手した。
そしてトレーニングや個々の選手の情報などなんでも気がつけばメモを取った。
ミーティングは準備のために1時間前からミーティングルームに入った。
集中しやすいようにイスを並べ、模造紙に字や図を書くのだが、
「見えるか?」
とスタッフに聞いた。
食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで全員一緒。
食堂の机はコの字に配置され、真ん中に監督とスタッフが入り、あとは自由。
オフト監督からはすべての選手と選手の食事がみえた。
「ちゃんと食事がとれないといいパフォーマンスはできない」
と食べ方や食べる量をチェックし
「私の近くに座る選手は私を信頼している」
と判断した。
三浦知良はいつもしっかり、しかもバランスよく食べていた。
 (2188041)

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それまで日本代表のミーティングはラモス瑠偉を中心に行われていたが、オフト監督はそれにとって代わった。
練習初日、選手を呼ぶときの指笛を吹くオフト監督にラモスは
「俺達はあんたの犬じゃない」
と抗議しつっかかった。
「冗談じゃないよ」
メディアにも公然と不満をぶちまけるラモスを呼び出しオフト監督は
「もう代表に来なくていい」
と言い渡した。
実際に外されることはなかったが、食堂でラモスは監督から1番遠い席に座った。
オフト監督とラモスはサッカー観も対立した。
オフト監督は、選手個々のタスク(役割)を徹底させ、サイド攻撃を重んじたが、ラモスは自由奔放な中央突破を理想とした。
三浦知良も規律を重んじるオフト監督に反発があった。
清雲栄純コーチ(古川電工、日本代表)は、オフト監督の命を受け、毎晩、選手がちゃんと寝ているかチェックした。
あるとき三浦知良だけ起きてマッサージを受けていたので
「もう寝ろ」
と注意すると
「俺の体は俺が1番知っているんだ」
と返された。
三浦知良は練習が終了してもなかなか戻らず、1番最後にシャワーを浴び、マッサージもタップリ行い、アイシングにも時間をかけた。
また高校まではラグビー(花園を経験)で大学からサッカーを始めた清雲栄純に
「清さん、サッカー知らないじゃん」
といったり
「キヨーッ」
と呼び捨てにしたり、頭を小突いたりした。
オフト監督は選手に疑心暗鬼の目でみられながら、それまで自由だった戦術に、
「アイ・コンタクト」
「トライアングル」
「サポート・ディスタンス(サポートの距離)」
「サポート・アングル」
「サポート・タイミング」
「チェンジ・リズム」
「チェンジ・サイド」
「スモール・フィールド」
「アグレッシブ・タックリング」
「リスタート」
などのルールを決めて落とし込んでいった。
チームの最大目標を「ワールドカップアメリカ大会出場」とし、海外遠征、国内に海外クラブを招いての試合、ダイナスティカップ(現:東アジアE-1選手権)、アジアカップなどは、その過程と言い切った。
また大きなリラックスルームとマッサージルームをつくって飲み物やサッカーのビデオなどを置くなど環境面も拡充させていった。
 (2188042)

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7月、日本代表はオランダ遠征を行った。
このとき三浦知良は中山雅史と公園の芝生の上で寝そべりながら
「ワールドカップいこうな」
などと熱く語り合っていた。
しかし周りがゲイのカップルだらけなのに気づくと日本代表のツートップはすぐに無言で帰った。
オフト監督の気さくな性格にやがて選手は打ち解け、
「まずは監督のいうとおりにやってみよう」
という柱谷哲二キャプテンに賛同し日本代表はまとまりつつあった。
しかしラモス瑠偉だけは自分のサッカーを曲げられずオフト監督と内戦状態になっていた。
柱谷哲二はキャプテンとして話をしにいった。
「この頃、オフトはラモスとぶつかって鬱陶しいなって感じていたと思う。
でもダイナスティカップで結果が出ればチームはまとまる。
ここが勝負どころだと思ったんでラモスに
『ここで結果が出なかったら文句をいいましょう。
それまでは監督が要求することをやってください』
っていいました」
(柱谷哲二)
三浦知良も柱谷哲二をフォローした。
「そのとおり。
プロは監督にいわれたことをやらないといけない。
プロってそういうもんだから」
 (2188045)

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8月22~29日、中国の北京でダイナスティカップが開催。
日本はグループリーグ初戦の韓国戦で引き分けたが、続く中国と北朝鮮に勝利しグループ1位。
2位韓国と戦った決勝は、2対2からPK戦で勝利し優勝した。
日本が海外の国際大会で優勝するのは初めてでチームは大きな自信を得た。
「技術、体力はすぐには向上しない。
理由は明らか。
戦術なんだよ。
中国、北朝鮮、韓国を連破できるなんてあり得なかった。
今ある選手の能力をいかにチームとして高めて勝負するか。
これぞプロ監督」
(川渕三郎)
「前回大会は、韓国、中国、北朝鮮に全敗だった。
負けて何もできない状態だったのが2年後に韓国に勝って優勝した。
オフトのいうことを守りつつ自分たちがプラスアルファでやっていけば十分にやれるんだって自信がついた。
結果が出たことでみんなオフトについていくみたいな感じになって一段と結束力が増した感じだった」
(柱谷哲二)
韓国相手に前を向いてプレーできたのは初めて」
(都並敏史)
だがラモスだけは納得していなかった。
大会中、ケガを抱えていたこともあって4試合すべて途中出場だったが、決勝の韓国戦の2得点はラモスがつくったチャンスから生まれたもので「違い」をみせつけた。
しかし中央突破にこだわって、攻撃のチャンスを潰されることもあった。
柱谷哲二は
「外!、ワイド、ワイド!」
と叫んだが、ラモスは聞こえないふりをして中央にボールを運んでいった。
「結果が出てもラモスだけは不満な表情だった。
なんか気に食わないんだろうね。
でも、現実はサイドで福田が活き活きとしていいプレーしている。
それなのにラモスはサイドを使わない。
それに『武田(修宏)はダメだから高木(琢也)に代えてくれ』とか、自分の使い勝手のいい選手を要求していた。
ラモスには、プロとしてのプライドと共に、こういうサッカーをして勝つんだという勝ち方に対してもプライドを持っていた。
この人は自分のサッカー観を曲げない。
でもプロの監督としてオフトは結果を出した。
結果を出した以上、わがままは許されない。
みんなもオフトを信頼し始めていたんで、この空気を壊すわけにはいかないと思い、ラモスにキャプテンとして釘を刺しに行ったんです」
(柱谷哲二)
ダイナスティカップで祝杯をあげる前、柱谷哲二はラモスに最後通告をしようと決めた。
しかし相手はラモス。
かなりいいにくい。
自分の部屋をウロウロ歩き回った末、自分で自分に気合を入れ、ラモスの部屋に向かった。
「ラモスさん、話があります」
「何?、テツ」
「今回、ダイナスティで優勝しチームがまとまりつつあるし戦う集団になってきました。
みんなオフトについていけば結果が出ると信用するようになってきたけどラモスさんだけはそうじゃない。
秋にはアジアカップがあるし優勝しないといけない。
俺らはずっとラモスさんと一緒にやりたいけど今後、代表で集まったとき、オフトのことでウダウダいうようなら自分から代表を辞退してください」
いうだけいって返事を聞かずに部屋を出る柱谷哲二をみてラモスはキョトンとなった。
「テツがいうなら仕方ないか」
オフトのサッカーは嫌いだったが、仲間の声は信じられた。
ダイナスティカップ終了後、ラモスの監督批判が雑誌に掲載され、オフト監督とラモスは1対1で話し合った。
その後、2人の雰囲気は変化した。
「ずっと2人で話をしていて、いきなり仲がいいわけ。
変な感じだけど、まあよかったなってホッとしました」
(柱谷哲二)

足に魂込めました

 (2188046)

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10月29日~11月8日、第10回アジアカップ広島県で開催。
20ヵ国が6グループにわかれ予選に参加し、各グループの1位が本大会に出場するというシステムで、強豪国の韓国は予選で敗退し、日本代表は2大会連続2回目の出場を決めた。
そして本大会は、グループリーグA組(日本、アラブ首長国連邦(UAE)、イラン、北朝鮮)、B組(サウジアラビア、中国、カタール、タイ)にわかれ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、合計4チームが決勝トーナメントに進む。
グループステージ第1戦、日本はUAE戦を0対0で引き分け。
第2戦の北朝鮮は、前半29分に先制された。
後半、24分にPKのチャンスを得たが三浦知良が決められず、後半35分に交代出場した中山雅史が三浦知良のコーナーキックにヘッドで合わせ、1対1で引き分けた・
第3戦のイラン戦。
グループステージを突破するために勝つしかない日本と引き分けでも突破が決まるイランの試合は0対0で前半を終えた。
ハーフタイム、オフト監督は
「残り20分を切ったら前線からプレスをかけ、残り10分になったら後ろ(最終ライン)には3人だけ残して守備陣も攻めに出ろ」
と指示を出した。
後半8分、イランは退場者が出し、日本は数的優位に立ったが得点を奪えなかった。
後半35分、残り10分になり、主将の柱谷哲二は3人だけ残すという監督の指示を破り、2人だけを残して攻めに参加させた。
後半40分、井原正巳のスルーパスを三浦知良が右足でシュートした。
「思い切って、魂込めました、足に」
劇的なゴールにスタンドは総立ち。
歓声が広島ビッグアーチ(現:エディオンスタジアム広島)の背後の山に反響し、学園祭が行なわれていた付近の大学は騒然となった。
決勝トーナメントは準決勝、決勝と2回勝てば優勝。
日本はまず中国と対戦。
開始30秒で先制され、0対1のまま前半は終わった。
後半3分、福田正博が同点ゴール。
後半12分、北澤豪が逆転。
後半15分、ゴールキーパー:松永成立がコンタクトプレーの後に相手選手を蹴ってしまい退場。
ゴールキーパーの前川和也が入り、北澤豪がベンチに下がった。
後半25分、前川和也が何でもないボールを後ろにこぼし同点とされる。
後半39分、ラモス瑠偉 - 堀池巧 - 福田とつないで中山雅史がヘッドで決め、3対2で勝った。
決勝戦はこの大会2連覇中のサウジアラビアと対戦。
しかし序盤から主導権を握り、前半37分、都並敏史からパスを受けた三浦知良がセンタリング。
これを高木琢也が胸トラップからのボレー。
この先制点を守り抜き、アジアカップ2大会連続2回目で初優勝した。
三浦知良はMVP(最優秀選手)に選ばれた。
「最初はハッキリいってアジアカップの、なんてていうのかな、重みみたいなものを感じずにやっていた気がしますね。
やっぱり頭の中ではW杯予選が93年から始まるという意識のほうが強くて、そのための調整というか。
自分たちがどれくらいの位置にいるのかを知るための大会という気持ちでしたね」
読売クラブはJリーグカップで優勝を遂げ、三浦知良は大会MVPにも選出され、またフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手賞)も受賞した。
日本で開催されたアジアカップで優勝したことでサッカー日本代表は俄然注目されるようになった。
翌年のJリーグ開幕に向けての呼び水となり、サッカーが大きなムーブメントになろうとしていた。

Jリーグ

 (2188053)

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1993年、Jリーグが発足した。
参加したクラブは
・鹿島アントラーズ
・東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド千葉)
・三菱浦和フットボールクラブ(現:浦和レッズ)
・読売日本サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)
・日産F.C.横浜マリノス(1999年、全日空佐藤工業サッカークラブと統合。現:横浜F・マリノス)
・全日空佐藤工業サッカークラブ(横浜フリューゲルス)
・清水FCエスパルス(現:清水エスパルス)
・名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
・パナソニックガンバ大阪(現:ガンバ大阪)
・サンフレッチェ広島F.C
の10クラブ(オリジナル10)だった。
本来、開幕は3月だが、この年は4~5月までワールドカップのアジア一次予選が開催され、Jリーグの成功に日本代表の成功は不可欠と考えたJリーグ事務局は5月15日に開幕を遅らせた。
またラモス・ルイ、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内の有力選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)など世界的な選手が海を渡ってきて参戦した。
そのサッカーは豪快で華麗で芸術的で観客を見惚れさせた。
「彼らの華麗なフェイントやパスを真似する人はたくさんいると思う。
でも僕が本当に「すごい」と思うのは、むしろ勝利に徹底的にこだわって戦い抜く姿勢のほうなんだ。
ドリブルしててボールを奪われたときものすごい形相で後ろから追いかけてってボールを奪い返そうとする。
ラモスさんなんかもそうだったけど、ボールを奪い返すためにはファウルも辞さないという覚悟を持っていた。
大切な試合を勝ち抜いていくために必要なのは実は華麗なテクニックではなくてそういう姿勢なんだ。
テクニックを真似るのはもちろん大切だけど今の若い選手たちには彼らのファイティングスピリッツだとか泥臭さのほうをまず学んでほしいね」

カズダンス

5月26日、鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴール。
7月17日、神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは、2得点でJ-EASTの勝利に貢献し、大会MVPに選出された。
7月31日、自身の結婚式の前日のガンバ大阪戦からは6試合連続得点。
12月8日、浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決めた。
三浦知良は、ゴールを決めるとカズダンスというゴールパフォーマンスが行った。
両足で細かいステップを踏みながら両手をぐるぐる回し、最後に左手で股間を押さえて右手で前方または天を指さす。
またガッツポーズや投げキッスなど、フィニッシュはバリエーションがある。
ブラジルのFWカレッカが得点後、コーナーフラッグ付近でサンバを踊ったのを真似たのが始まりだったが、カズダンスはゴール後のパフォーマンスを日本に定着させ、以後各選手、各チームがパフォーマンスを行うようになった。
三浦知良がゴールを決めると選手もサポーターもみんなこぞってカズダンスした。
城彰二も一時期カズダンスをしていたが、そのことを聞いた三浦知良に呼び出され説教され、以降踊れなくなった。
こうしてJリーグ開幕シーズンは合計20得点を挙げ、第1回のMVP、前年に続いてフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(日本年間最優秀選手賞)、そしてアジア年間最優秀選手賞も受賞した。
Jリーグが発足、開幕した1993年はサッカーが日本を席巻した。
新語・流行語大賞の年間大賞には「Jリーグ」、新語部門金賞に「サポーター」が選ばれた。。
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
空前絶後のJリーグブームだった。

神様( ジーコ)が唾を吐いた

 (2188050)

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ラモス、ペレイラ、ビスマルク、三浦知良などスターぞろいのヴェルディは、チャンピオンシップでも鹿島アントラーズ戦を破って年間優勝に輝いた。
第1戦でヴェルディは2対0で勝ったが三浦知良はPKを外していた。
そして第2戦は、0対1で負けていたが、残り10分を切ったところでPKが与えられた。
すると三浦知良が蹴ろうとするボールにアントラーズのジーコは唾を吐いた。
そして退場させられた。
2人は共に腕にキャプテンマークを巻いていた。
1989年に現役選手を引退しブラジルでスポーツ担当大臣を務めていたジーコは、Jリーグが開幕する2年前の1991年に、日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役に復帰した。
初めて住友金属の練習グラウンドが土なのをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くのシャワールームやフィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求していった。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、シューズが散らばったロッカールームにシューズをみると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始めた。
お菓子を食べている選手をみつけると
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
そして5月16日のJリーグ開幕戦、対名古屋グランパス戦では、前半25分に強烈なミドルシュートで先制点を決めると、5分後の前半30分にも芸術的なフリーキックで2点目。
後半18分にもアルシンドのクロスをボレーで合わせJリーグ初のハットトリックを達成した。
そして試合は5対0で快勝した。
鹿島アントラーズはその勢いのまま第1ステージで優勝した。
ジーコがJリーグでプレーしたのは1993年の開幕から1994年の6月までで、23試合に出場し14得点を奪った。
その間、普段の練習から紅白戦、サブ組の試合、すべて全力を尽くして勝つために戦う。
そんな勝利への執着心、勝利へのメンタリティを植えつけた。
現在、鹿島アントラーズは
「常勝軍団」
と呼ばれ、選手も
「鹿島でプレーするということはタイトルを獲ること」
と言い切る。
チームには未だジーコ魂が根づいる。
そんなサッカーの神様らしからぬ行為はある意味、大事件だった。
「その試合はJリーグのチャンピオンを決める最初のファイナルだったが、私は何かがおかしいと感じていた。
2戦ともヴェルディのホームでプレーするということやロッカールームの問題などすべてにおいてヴェルディが保護されていたからだ。
さらにいえばPKを与えたレフリーはヴェルディで働いたことのある人間だった。
とはいえ私の行為は反スポーツマン的だったと後悔している。
私がレフリーに抗議して退場となったのは初めてのことだったし規律上の問題でピッチを去ったこともそれまで1度もなかった。」
(ジーコ)
当時の日本ではまだホーム&アウェイも定着しておらず、第1戦、第2戦とも国立競技場で行われた。
サッカー先進国から来たジーコが異議を唱えるのは当然だった。
「正直、ラッキーだと思ったね。
ジーコは敵にするととても怖いプレーヤー。
40歳を超えて運動量は少なくなっていたけどイザというとき決める力があったから。
そんな中でジーコが退場となりピッチを去ったのだからヴェルディの勝利にグッと傾いたなと。
僕がこのPKを外しても勝敗に影響はない。
だから楽な気持ちで蹴れた」
(三浦知良)

ワールドカップアメリカ大会アジア予選

 (2188059)

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1993年、翌年に行われるワールドカップアメリカ大会に向け、アジア予選が開始された。
1次予選はA~F組にわかれ6ヵ国が通過。
最終予選はその6ヵ国が総当たり戦を行い、上位2ヵ国がワールドカップの出場権を得る。
日本は1次予選F組を7勝1分けで通過。
カタールの首都:ドーハに移動し最終予選に挑んだ。
通常は各国代表は別々のホテルに分けられるが、湾岸戦争
(1990年8月2日、イラク軍がクウェート侵攻。
1991年1月17日、多国籍軍がイラクを空爆。
3月3日、暫定停戦協定。
2006年12月30日、サダム・フセインの絞首刑執行)
の影響で日本、韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアのそれぞれの代表が1つのホテルの同フロアに宿泊し、厳しく警備された。
日本はスタッフが9階、選手が8階。
別棟7階にキッチンと食堂、ミーティングルームを確保した。
オフト監督は食事を大事にしたが、UAEで行われた1次予選のときはホテルの厨房の使用許可が下りず、ドーハでは自分たちのキッチンを用意した。
日本から同行したシェフは、朝、昼、晩、毎食バイキング形式で食事を用意した。
納豆などは無事空港を通ったが、米など持ち込めなかった食材は現地で調達された。
日本は

第1戦、サウジアラビア 0対0
第2戦、イラン 1対2
第3戦、北朝鮮 3対0
第4戦、韓国 1対0

と第5戦を残し1位。
2位 サウジアラビア
3位 韓国
4位 イラク
5位 イラン
6位 北朝鮮
と続いた。

キング誕生

初戦のサウジアラビアで、ボランチのアミンという中心選手がケガをしているという噂があった。
ホテルだったので試合前日、フロントに
「アミンは泊まっているか」
と聞くと、
「来てない」
といわれた。
しかし当日のスターティングメンバーだった。
情報戦において日本は正々堂々としていた。
非公開練習もまったくせずオープンだった。
第2戦のイラン戦で1対2で負けた時点では6位だった。
試合後、オフト監督は選手にメッセージを送った。
「3win(残り3試合全勝)」
そして第3戦の北朝鮮戦では、三浦知良の2ゴール1アシストで日本は3対0で勝った。
翌日、開催地:カタールの英字紙:ガルフ・タイムズは見出しで
「King Kazu」
と書いた。
「94年アメリカW杯のアジア地区最終予選には6ヵ国が参加していたが、湾岸戦争などで政治が暗い影を落とすことが懸念されていた。
大会の雰囲気を明るく華やいだものにするためにもスターを必要としていた。
そこに登場したのが「カズヨシ・ミウラ」という名の選手だった。
特に素晴らしかったのは北朝鮮戦だ。
あと1敗でもすれば本大会への夢が事実上絶たれる状況だったにも関わらず、カズは日本代表に再び希望の灯を灯した。
数千人の日本人サポーターがカズに熱狂する光景は今でもハッキリと目に焼き付いている
試合が終わるや否や僕はカメラマンと共にアルハリスタジアムからガルフタイムズに車で直行。
約30分でオフィスにつくと一気に原稿を書き上げ、最後に『King Kazu』とい大見出しをつけた。
このタイトルはまさにピッタリだったと思う。
だが印刷所に原稿を送る前に最後の作業が残っていた。
当時の中東諸国には検閲制度があった。
僕はエジプト人検閲官による原稿チェックが終わるのをジリジリとした気持ちで待っていた」
(デイヴィッド・ジェイムズ記者)
以後、「キング」は日本のメディアでも使うようになった。
移動バスで三浦知良が座る左最後尾の座席は「キングシート」と呼ばれた。
「僕の中ではキングといえばペレ。
偉大過ぎる大先輩の愛称をいただくのは光栄だけど・・・・
さすがに言い過ぎじゃない?」

40年間の壁を打ち破った韓国戦

 (2188064)

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第4戦の韓国戦でも三浦知良は決勝ゴールを決め、日本は1対0で勝った。
日本はこれまで40年間、韓国に勝てなかった。
それをワールドカップ予選で初めて破るという快挙だった。
宿敵韓国に勝利したことで日本代表にはワールドカップ行きが決まったような雰囲気が生まれた。
本当はあと1つ勝たなければならなかったが・・・
「まだ終わっていない」
ラモスは選手たちにしつこくいった。
実際、第5戦の結果次第で北朝鮮以外の5ヵ国に本大会出場のチャンスが残されていた。
第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、第5戦は、同日同時刻にキックオフとなり3会場に分けられた。
その組み合わせは
日本 - イラク
サウジアラビア - イラン
韓国 - 北朝鮮
だった。
日本は勝てば、他の試合の結果にかかわらずワールドカップ本大会出場が決定。
引き分けても
・サウジアラビア - イラン戦が引き分け
・イラン勝利、
・韓国 - 北朝鮮戦が引き分け、
・北朝鮮勝利
・韓国が1点差以下で勝利
の場合は本大会出場が決定するという、かなり有利な立場だった。
3位の韓国は自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で北朝鮮に勝っても日本とサウジアラビアが勝てば本大会出場ができない状況だった。

ドーハの悲劇 最終予選最終戦ロスタイムで同点にされ本大会出場ならず

 (2188065)

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1993年10月28日、日本 - イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。
両国の対戦は9年半ぶりで、過去の対戦成績は日本の0勝3敗1分け。
この試合から出場停止中だった主力2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。
イラクは最終予選を通して不利な判定を受けていた。
イラクとワールドカップ開催国:アメリカは湾岸戦争で敵国。
イラクがアメリカ大会に出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれていた。
にもかかわらずここまで最終予選を1勝2分け1敗。
イランに勝ち、韓国、サウジアラビアと引き分け、北朝鮮戦も2対0でリードしていたが途中退場者を出て負けた。
しかも得点数は6ヵ国中1位。
間違いなく強かった。
日本の前線には三浦知良、中山雅史、長谷川健太が立った。
イラクは出場停止処分が重なり主力数名を欠いていた。
前半5分、中山雅史のポストプレーから長谷川健太がシュート。
クロスバーに弾かれたボールを三浦知良がヘディングで押し込んだ。
勝利しか本大会出場の望みがないイラクは、ボールを奪うとカウンターを仕掛ける展開。
前半は1対0で終了。
このとき他の2会場は
『サウジアラビア 2対1 イラン』
『韓国 0対0 北朝鮮』
このまま勝敗が進めば日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。
ハーフタイムではオフト監督が
「Shut Up(黙れ)」
と何度も怒鳴らなければならないほどロッカールームに引き上げてきた選手たちは興奮状態で、各々勝手に話し合っていた。
選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況が続き、オフト監督が
「U.S.A. 45min(アメリカまであと45分)」
とホワイトボードに書いて説明しようとしたら後半のブザーが鳴ってしまった。
後半、日本は運動量が落ち、イラクがボール支配率を高め攻勢を強めた。
後半15分、アーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ1対1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねていて、日本は勝たなければ予選敗退となる。
後半24分、ラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角にショートを決め、2対1。
ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並敏史は
「こりゃオフサイドだ。
これ、くれるか」
とつぶやいた。
ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ、微妙な判定ならなら流すと予想していた。
この勝ち越しゴールも中山雅史がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。
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その後、両チームとも疲労が激しく膠着状態が続き日本勝利かと思われた。
後半44分50秒、武田修宏がまだ味方が詰め切れていないイラクゴール前へセンタリング。
このルーズボールをラモスが回収し、最終ライン裏へ浮き球のスルーパスを通そうとした。
イラクはこのパスをカットし、自陣からカウンターアタックを仕掛け、最後はコーナーキックのチャンスを得た。
試合時間は後半45分を超えてロスタイムに突入した。
ロスタイムに入り、いつ主審が試合が終わらすかわからない状況ではコーナーキックはゴール前へ直接センタリングを蹴るのが常識。
しかしキッカーのライト・フセインは、意表を突きショートコーナー。
三浦知がプレスに走りスライディングをかけた。
しかしフセイン・カディムは振り切らりセンタリング。
オムラム・サルマンがヘディングでシュート。
ボールはゴールキーパー:松永成立の頭上を放物線を描いてゴールに吸い込まれた。
2対2。
イラクはすぐにセンターサークルにボールを戻し、最後まで勝利を目指す姿勢をみせた。
日本はキックオフから前線へロングパス。
しかしをボールがタッチラインを割った時点で笛が鳴り試合は終了した。
日本代表選手の多くがその場にヘタリ込み動けなかった。
両手で顔を覆って号泣していたキャプテン:柱谷哲二をハンス・オフト監督と清雲栄純コーチが起こし支えながら歩いた。
他の選手も控え選手やスタッフに声をかけられ夢遊病者のようにヨロヨロと立ち上がり歩いた。
最終的に日本は3位に転落。
1位のサウジアラビアと2位の韓国が本大会出場権を獲得した。
この試合はテレビの生放送されていたが、
「決まった!」
と現地で実況中継していたアナウンサーが叫んだ後、同じく現地にいた解説者も、東京のスタジオでゲスト出演していた釜本邦茂(ガンバ大阪監督)、森孝慈((浦和レッズ監督)、柱谷幸一(浦和レッズ、日本代表キャプテン:柱谷哲二の兄)らも誰も一言も発せず、まるで放送事故のようだった。
「仕方ないですね」
沈黙が30秒近く続いた後、なんとかアナウンサーが続けた。
試合終了後、画面がスタジオに戻っても釜本邦茂も森孝慈も柱谷幸一も何もいうことができない。
柱谷幸一は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。
深夜にもかかわらず番組の視聴率は48.1%を記録。
ワールドカップ出場を直前で逃した日本代表には、帰国後、厳しい批判にさらされることが予想された。
日本の多くのファンは、日本代表を好意的に受け止めていて、成田国際空港に到着した日本代表は多数のファンに温かく迎えられた。
しかし数日後、日本サッカー協会強化委員会は
「修羅場での経験不足」
を理由に翌年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。
三浦知良はアジア1次予選9ゴール、アジア最終予選4ゴールと素晴らしい活躍だった。

イタリア セリエA アジア人初

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1993年12月、ACミラン主催のチャリティーマッチに先発出場しウーゴ・サンチェスの得点をアシスト。
1994年、イタリアのセリエAのジェノアCFCに1年の期限付きで移籍。
アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。
セリアAは世界最高峰のサッカーリーグだった。
欧州、南米を問わず世界中のトップ選手がイタリアに集結していた。
外国人枠が3枠しかないのに、トマス・スクラビー(チェコ)、ジョン・ファントシップ(オランダ)、三浦知良(日本)とわざわざ日本人を獲得したジェノバに疑問の声が起こった。
「(ジェノアのユニフォームの胸部分の広告権をケンウッドが獲得したこともあり)スポンサーを得るために獲得したといわれているがどう思う?」
加入会見で辛辣な質問も浴びせられるなど、現地でこの移籍は商業的なものとみる傾向が強く、またアジア人に対する偏見も相当強かった。
当時のイタリアは、「日本人なんかにサッカーができるわけがない」というのが共通認識で、まるで異星人のような扱いを受けた。
フランコ・スコーリオ監督も外国人、特にアジア人である三浦知良には厳しかった。
「例えばJリーグにいきなりパキスタンとかベトナムの選手が来る感じ。
いやもっと開きがあるかもしれない。
なんで日本人がわざわざイタリアにサッカーしに来るの?って思われてたんだ」
厳しい状況の中だったが、誰よりも練習場に現れ誰よりも遅く去った。
自分の実力を疑うイタリア人に囲まれ、まるで1人ぼっちのようなストレスまみれの毎日を過ごした。

デビュー戦で負傷退場

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9月4日、ACミランとのセリエA開幕戦でセリエAデビューを果たした。
試合前、前年のリーグチャンピオンであるACミランより三浦知良の方がカメラマンが多かった。
しかし前半途中、ボールを競り合ってフランコ・バジーレと激突し、グラウンドに倒れ、担架で運ばれた。
その後、なんとか戻ったが後半は出場することが出来なかった。
「今思うと少し力が入りすぎていたのかもしれない。
センターサークル近くでバレージとハイボールを競り合って顔面を骨折してしまった。
普通の精神状態ならゴールチャンスでもないのにあんな競り方はしなかったかもしれない。
ぶつかった瞬間はハンマーで殴られたような感じで、そのまま地面に落ちた。
治療を受けた後、なんとか復帰したが後半は試合に出場することはできなかった」
結局、試合は0対1でジェノアが負け、三浦知良は、鼻骨骨折と眼窩系神経損傷によって1ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。
「1度治療のためにピッチの外に出てすぐに戻ったんだけど、照明が全部つながってみえるし吐き気がして走っているのが精一杯だった。
それでも前半終了までは何としてもピッチに立っていたかった。
これだけ騒がれたデビュー戦で、日本のファンからもすごい期待と応援をもらっていながら、前半半ばで退場なんて恥ずかしかったしね。
冷静に考えれば交代したほうがよかったのかもしれないけど「出たい」という気持ちを強く持って、残り15分を走り抜いたのは大事なことだったと今でも思えるんだ」
激突したフランコ・バジーレは1977~97年までACミラン、1982~94年までイタリア代表で活躍した名ディフェンダーだった。
日本代表のドーハの悲劇と同様、イタリア代表はブラジル代表にPKで負けてワールドカップアメリカ大会出場はできなかった。
1次予選の早々に半月板を痛めたフランコ・バジーレは、代表キャプテンの誇りと責任感から手術を強行し、なんとかブラジル戦に間に合わせロマーリオやベベトを完全に抑え込んだ。
ハーフタイムで三浦知良の容態を聞き、手術後には電報を送った。

復帰戦でセリアA初、そして唯一の得点

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1994年12月4日、9月4日の開幕戦で負傷退場となって以来、3ヶ月ぶりに三浦知良は復帰した。
それはサンプドリアとのダービー戦だった。
ビッグクラブ同士の対戦を、ブラジルでは「クラシコ」、イタリアでは「ダービー」といい街はお祭り騒ぎとなり、一部のサポーターは殺気立つ。
「我々とサンプの戦いが始まる」
こうして選手もサポーターもリーグ戦の1試合でありながらリーグの順位に関係なく絶対に勝たなくてはならない試合となる。
スタジアムは真ん中からジェノアの赤とサンプの青に分かれた
2週間前に監督がフランコ・スコーリオからジュゼッペ・マルキオーロに代わり、新監督は2戦目で三浦知良を復帰させた。
そしてチームのトップフォワードであるトマス・スクラビーの後ろに配置した。
「スコーリオの考えは多少違っていたようだが、私にとってフィールドに立つ資格を持つ選手は仲間のために走ることを厭わない者に限る。
年間20ゴールを決める能力を持つ選手は往々にして他者のために自らを犠牲にできない。
だけど真の一流選手ってものはそうじゃない。
エゴを封印し、年間10ゴールに留まろうとも、その分をチームのために走ろうとするものだ。
果敢に走ることを知る者は一方で同じように走る者への労りの心があるから必然的にパスの質も他との違いがあるものだ。
そういう心のあるパスを送れるものこそが私のいう「本物のプロ」ということになる。
カズはその点、本物だった」
(ジュゼッペ・マルキオーロ)
試合前半13分、アントニオ・マニコーネが浮かせたボールを長身のトマス・スクラビーがヘディングで落とし、走りこんだ三浦知良がシュートを決めた。
トマス・スクラビーは1990年のワールドカップではハットトリックを含む5ゴール、ジェノアでも59ゴールのクラブ最多記録を持つ選手だった。
ガッチリした大型のフォワードで、周りを目を気にせず、酒もタバコもガンガンする破天荒な男だった。
「お前(三浦知良)はあの難しい状況の中で本当によくやったよ。
開幕のACミラン戦でフランコ・バジーレと激突して頬骨を折ったにもかかわらずフィールドを去ろうとしなかった。
それから監督のアジア人に対する偏見を前に、常に変わらない姿勢でトレーニングを続けていた。
だから『俺はこいつのために何をしてあげられるんだ?』って思ったんだ。
そして迎えたのがサンプドリアとのダービーだった。
ケガから回復して来たお前と2人で前線に立ち、チャンスが来たのは前半の開始すぐだったと思う。
右からのクロスを受けた俺はボールを頭で捉えながら心の中で叫んでいた。
後ろから詰めて来ていたお前の眼をみながらね。
『いけ、カズ!決めてみせろ』って
ボールがネットを揺らした瞬間、1人の日本人が欧州に渡りスター達の前で確かな存在を示した瞬間を、俺は忘れないだろう」
これが三浦知良のセリアA初得点、そして唯一の得点となった。
(トマス・スクラビー)
森下源基(ヴィッセル川崎社長)は三浦知良をセリアAから呼び戻した。
読売新聞社会部記者を経て読売クラブへ入り、1994年からヴィッセル川崎社長となった森下源基は、ブラジルにいた三浦知良を
「君の力で国立競技場を満員にしてくれ。
君ならそれができる」
と口説き、金銭的にも破格の条件を提示し日本に移籍させた経歴を持つ。
今回ももう1年、セリエAにチャレンジしたいという三浦知良を強引に呼び戻した。
「Jリーグができて3年目。
日本にカズが必要だった。
もう1度、ヴェルディのサッカー、日本のサッカーを引っ張っていって欲しかった」
シーズン終了後、三浦知良はジェノア一員として来日し、横浜スタジアムでヴェルディ川崎との親善試合に出場。
この試合を最後にジェノアを離れヴェルディに復帰した。

J復帰

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1995年8月12日、ヴェルディに復帰しベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めた。
9月2日、アントラーズ戦、9月13日、横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど、26試合で23ゴールを挙げた。
同年、震災後の神戸の小学校に行き、激励イベントを開催した。
この小学校に1年生だった香川真司がいた。
スーツを着てサングラスをかけ、シャツの胸元をあけた三浦知良のオーラに感動した。
そして一緒に写真に収まり、抽選ではサイン入りカズバッグを当てた。
「確かあのとき僕は神戸の知人の家に遊びに行っていたんだ。
阪神大震災の被害にあった地域の近くだったので、子供たちを励ましてくれませんかと頼まれて小学校にいくことになった。
そこで後に日本代表の10番を背負うことになる少年がいたというわけだね」
1996年年、1シーズン制となったJリーグで得点王となり、FIFAの世界選抜に選出され、ブラジル代表と対戦した。

ワールドカップフランス大会 日本代表 ワールドカップ初出場 ジョホールバルの歓喜

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1997年、日本代表監督となった加茂周は、チームを三浦知良を中心に考えた。
大袈裟にいうと「カズと心中する」つもりだった。
三浦知良は誰よりも早くグラウンドに出て、ウォーミングアップから必死で行い、誰よりも真剣にボールを追う。
スピードなどはピークではなかったが、その経験と姿勢はチームの大きな力となっていた。
そばでみていた加茂周は
「お前、サッカー好きやな!」
と思っていた。
1997年6月22日、FIFAワールドカップフランス大会アジア1次予選グループ4、第4戦マカオ戦で三浦知良は6得点を挙げた。
(釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録)
最終予選B組第1戦のウズベキスタン戦でも4得点を挙げ、日本代表も6対3で勝利。
しかしその後、のUAE戦(アウェイ)を0対0で引き分け。
韓国戦(ホーム)では、1対2で負けた。
この試合で三浦知良は徹底的にマークされた上に、ゴール前でキーパーに背後から蹴られ尾底骨を骨折した。
カザフスタン戦(アウェー)はロスタイムに追いつかれ1対1の引き分け。
試合後、加茂周監督は更迭された。
この時点で

1位 韓国 勝ち点13
2位 UAE 勝ち点7
3位 日本 勝ち点6

UAEがカザフスタンに勝てば絶望的だったがUAEが負けたため、日本はホームの国立競技場でUAEに勝てば2位浮上という希望が生まれた。
そして前半3分、呂比須が豪快なシュートで先制した。
しかし前半のうちに同点に追いつかれ、試合はドローに終わった。
日本代表の予選自力突破の可能性は消滅。
一部のサポーターは三浦知良に罵声を浴びせた。
「お前なんてやめちまえ」
「腹を切れ」
イスを投げつけられ、応戦する三浦知良の姿が放映された。
日本代表での三浦知良の必要性を疑う声が急増した。
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その後、1位通過が決まっている韓国とソウルで対戦し2対0で勝利。
カザフスタン戦も5対1。
3勝1敗4分でUAEを抜いて2位となった日本は、アジア地区の第3代表決定戦をイラン戦と戦うことになった。
試合前日の練習で、イランのフォワード、ダエイ選手とアジジ選手が病院に直行し車椅子でホテルに姿を現した。
(おそらく心理的な作戦)
11月16日、三浦知良は先発し、中山雅史と2トップを組んだ。
前半40分、中田英寿のパスから中山雅史が先制点を挙げた。
しかし後半1分、アジジに同点弾を決められ、次いでダエイに逆転ゴールを奪われた。
ここで岡田武史監督は2トップを組む三浦知良と中山雅史に交代を命じ、城と呂比須を投入した。
交代理由は、試合前のミーティングでの
「フリーキックは中田(英寿)、もしくは名波(浩)が蹴る」
と決めていたのに三浦知良が、それを無視して蹴って大きく外したためだったが、このとき
「オレ?」
と自分を指差したことが話題となった。
「ゴン(中山雅史)? 俺? どっち?」
というジェスチャーだったが多くの人は
「まさか俺?」
というように解釈した。
試合はその後、代わって入った城が2点目を叩き出して延長戦へ突入。
最後は、中田英寿のパスから野人:岡野雅行が劇的ゴールを決め、日本代表はワールドカップ初出場を決めた。
(ジョホールバルの歓喜)
「カズからヒデへ」
「世代交代」
三浦知良は、日本代表として評価されず、Jリーグでも1997年シーズンの成績は出場試合14(全試合数の半数以下)、得点4。
ヴェルディも初めて2桁まで順位を落とした。

代表落ち

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1998年、1993年の発足時、10クラブだったJリーグは18クラブまで数を伸ばした。
日本代表もFIFAワールドカップフランス大会に向け準備を進めた。
2月のオーストラリア合宿で、中村俊輔は初めて日本代表入りした。
現場は6月の本大会に向けてピリピリしていた。
1番年下なこともあってかなり緊張していた中村俊輔は、すぐに肉離れを起こして別メニューとなった。
そんなとき三浦知良に声をかけられ、スッと肩の力が抜け
「さあやるぞ」
と前向きな気持ちになれた。
「初めて代表に召集されてコンディションもできてないのに張り切りすぎたのかもしれない。
ただそのテクニックは当時からずば抜けていて若くても十分に代表でやれる選手だとみていた。
だからこそリラックスして普段通りの力を発揮できるよう声をかけたんだ」
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スイスでの直前合宿に代表候補25人として選出され、これまで何度も読み心の糧にしていた尊敬するモハメド・アリの自伝を持参し参加し奮闘した。
しかし北澤豪、市川大祐と共に、本大会の出場メンバーには選ばれなかった。
「俺たちがやってきたことは間違いない。
大事なのはこの後だ」
といい、落選翌日には北澤豪と合宿先のスイスからイタリア・ミラノへ移動。
2人でホテルで一泊20万円の部屋を借りて、思い切り発散した。
(ホテル代金は、後日日本サッカー協会に請求した。)
そして金髪に染め上げて帰国し成田国際空港で会見を行った。
「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」
(三浦知良)
また森下源基(ヴィッセル川崎社長)は
「非情なる采配というより非礼なる采配」
とコメントした・。
その後、日本代表は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同組になり、1次リーグ3戦全敗1得点という結果に終わった。
「予選ではカズを選んだことで協会に多くの抗議が来た。
調子が悪かったから。
でもいざW杯行きのメンバーから落とされたら、どうしてカズを外すんだって、その何倍もの抗議が来たんだ。
カズを成田空港まで迎えにいって記者会見を開くことになった。
そのときカズがどんなコメントするか少し心配だった。
協会を非難したり監督を非難することは当然あるだろうし、あってもしょうがないなと思っていた。
でも実際はまったくそのことに触れず言い訳や泣き言も一切いわず、夢をフランスに置いてきたと。
ああいう言葉はどう探したって出てこないよね」
(川淵三郎)
Jリーグではヴェルディ川崎は2年連続2桁順位となり、親会社が事業撤退を表明。
高年俸のベテラン選手達のリストラが敢行され、三浦知良にも年俸ゼロ円が言い渡された。
ワールドカップにいけなかった31歳の三浦知良に対し「限界説」「引退説」が囁かれた。

クロアチア ザグレブ

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クロアチアのクロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。
これは戦力としてよりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きいという見方もあった。
「クロアチアへの移籍を具体的に考え出したのは1998年の秋だった。
いくつかのクラブが興味を持っていてくれたけど、最終的にスイスのチューリッヒとクロアチアのザグレブの2つの絞込み12月に視察に向かった。
ザグレブのホームスタジアムに入った瞬間、『ここだ』と思った。
ちょうどチャンピオンズリーグの試合日でお客さんは満員。
ものすごく寒かったけど会場の雰囲気は素晴らしかった。
クロアチアの人たちは、自国への強烈な誇りと愛情がある。
1991年にユーゴから独立して色々な苦労がクロアチアにはあった。
そういう社会情勢の中、クロアチア代表は国際舞台へのデビュー戦となった1996年の欧州選手権でベスト8に、そして1998年のワールドカップでは3位になった。
この結果が国民に与えた自信は本当に大きかったはずだ。
まだまだ世界的には小さな新しい国だけどみんなで盛り上げていこう、そういう心意気が選手からも町の人々からも感じられた」
たしかに環境面は恵まれていなかった。
ピッチは凸凹でぬかるんでいたしロッカールームも狭かったが、
「未来に向けて頑張ろう」
そんな希望に溢れた国の雰囲気もあって三浦知良は、サッカーを楽しんだ。
「伝説のノゴメト(サッカー)プレイヤーが俺たちの国にやってきて俺のプレーするクラブに入団するって聞いたときは嬉しかった。
でも世界でもあまり知られていなかったクロアチアが選ばれたことは少し不思議だった。
なにしろ金が無いから。
でもミウラが来てくれたことは選手たちにとってだけでなくクロアチアにとって最高だった。
合宿では言葉が出来なくても優秀な選手であることを証明したし、コミュニケーションはとれていた。
君が心強い補強だってことはしっかり伝わった。
あまりこの話はしたくないが、君があまり試合に出してもらえなかったのは監督が悪かったんだよ。
ミウラは間違いなく俺たちのお気に入りだった。」
(プロシネチキ、ザグレブ、レッドスターベオグラード、レアルマドリード、バルセロナで活躍、1990年、1998年、2002年ワールドカップでバトレニ(炎という意味、クロアチア代表の別称)として出場)
このシーズン、ザグレブはクロアチア・リーグで優勝した。
シーズン終了後、新たに就任したオズワルド・アルディレス監督は、三浦知良を戦力外としたため、熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場は叶わなかった。
そして1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。

京都サンガ

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1999年、Jリーグは、J1とJ2の2部制となった。
(2014年にはJ3が創設され3部制になった)
7月、三浦知良は加茂周(元日本代表監督)監督の京都パープルサンガに移籍した。
単身赴任で、1週間だけ寮に入り、その後はマンションに入る予定だったが、居心地が良すぎて居ついてしまった。
そして1試合目のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めた。
「正直、加茂さんが声をかけてくれたからというのが大きかった。
京都にいったとき僕は32歳だった。
5年前に27歳の僕に日本代表のときとは違うやり方だったけど加茂さんは32歳の僕に点をとらせる方法を考えてくれた。
2シーズン目には17ゴール決めてその信頼に応えることができた」
「よ~し、祝勝会にいくぞぉ」
と勝った試合後は、みんながカラオケで盛り上がった。
負けた試合の後も、
「よ~し、残念会にいくぞぉ」
となる。
「気が乗らない」
という選手がいても
「なにいってんだ」
と強引に連れて行かれた。
残念会といってもやっていることは祝勝会と同じでカラオケで騒いで負けた悔しさを発散させる。
「カズさん、なんで負けても遊びに行けるんですか?」
「次の試合がある。
次が始まるから切り替えるんだよ。
後ろを振り返ってもしょうがねえだろ」
試合の結果に関わらずストレスを発散させて、次の日から再び規則正しい生活に戻り練習をして試合に臨む。
プロとして当たり前のことを伝えた。
祝勝会や残念会にの翌日、三浦知良は練習グラウンドで先頭に立ってトレーニングに励んだ。
 (2188088)

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パク・カンジョ(朴康造、滝川二高からパープルサンガ)は、子供の頃から部屋にポスターを貼っていたほど三浦知良のファンだった。
そして試合前のアップから100%の力で行う姿に
「本物のプロはこれだけ手を抜かんのか」
と驚き、真面目な人と思っていたのにメッチャクチャ面白いことに2度驚いた。
食事のとき、三浦知良は試合のビデオを見直しながら
「これはいい」
と自分のプレーを何度も巻き戻してみた。
そしてたまにパク・カンジョを含めて他の選手のプレーも巻き戻してみた。
自分のミスでチームが負けてしまい落ち込んでいると
「そんなの関係ねえよ。
俺なんかこの前オウンゴールしたけどスッカリ忘れちゃったよ」
2軍落ちしたり、肉体的につらくてサッカーを辞めようと思ったときも
「辞めるな。
がんばれるだけがんばれ」
と励まされた。
そして韓国代表に選ばれフリーキックを決めたとき、パク・カンジョは思わずカズダンスを踊ってしまい、後で怒られた。
「寮に入ることになったんだけどカンジョは毎日僕の部屋に歌いながら入ってくるんだよ。
朝、昼、夜と暇さえあれば『カズカズカズカズ、ゴール』って。
練習の後、食事に出かけることもあるんだけど、最初、カンジョの車でいったときガソリンスタンドで
『1000円入れてください』っていうからビックリしてね。
僕はブラジル時代の習慣で必ず満タンにしていたから。
だから満タンにしてあげた。
そらからだよ。
カンジョは必ず『僕の車で行きましょう』っていうんだ。
で、車に乗るといつも燃料メーターはいつもエンプティになっている・・・
カンジョはサッカーに関してハングリーだけどプライベートでもハングリー、一言でいえばドケチだった。
お金を貯めるのが生きがいみたいなところがあって、ずっと慎ましやかな生活をしていた」
パク・チソン(朴智星、明知大からパープルサンガ、2005年からマンチェスターユナイテッド)も、
「自らの原点は京都にあり、その中で最も規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズである」
と語っている。
試合はもちろん練習でも率先してチームの先頭に立ってチームを鼓舞する三浦知の姿にプロとは何かということを学んだ。
また練習中、
「疲れていないか?」
と声をかけられ、練習後
「おいしい韓国料理屋があるからいってみよう」
と誘われ、19歳で単身外国に来たパク・チソンにとって日本サッカーの英雄の気遣いに驚くと同時にうれしかった。
 (2188090)

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2000年、高校を卒業した松井大輔が京都サンガに入団。
ドーハの悲劇のとき青いユニフォームを着た三浦知良をみたのは小学生だった。
初日
「おう、よろしくな」
と声をかけられ
(オオ、カズさんや)
と感動した。
その後、同じ寮で生活した。
毎朝、部屋まで三浦知良起こしに行き、7時から食事。
その後、午前の練習。
午後の練習のために部屋に呼びにいくと必ず
「今日の服どう?」
と聞かれ
「いいんじゃないっスか」
と答えた。
練習後、みんなで銭湯にいき、寮でご飯を食べて寝た。
「カズさんとサッカーをするのは本当に楽しかった。
その楽しさを一言でいうと「一生懸命やるからサッカーは楽しい」ということだと思ってます」
(松井大輔)
波長が合った2人は、いつも一緒に練習し、食事し、オフの日は神戸まで遊びに行き、バカ話で盛り上った。
三浦知良にとって松井大輔は、怖いもの知らずで生意気で、若い頃の自分をみているようだった。
松井大輔のサッカーに対する姿勢は真摯でたくさん質問を受けた。
「君は周りから『ファンタジスタ』と呼ばれて自分でもそう思っているフシがあるけど勘違いしないように。
僕は松井大輔は『さすらいのドリブラー 』だと思っています。
もうしばらくはヤンチャでいてほしい。
持ちすぎるくらいでちょうどいい。
いつかもいったようにドリブルはとられるから文句をいわれるわけで、相手を全部抜けば神様になれる」

トルシエJapan ついにワールドカップ本大会出場ならず 

 (2188091)

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ワールドカップフランス大会(1998年)での惨敗後、日本代表監督にはフィリップ・トルシエが就任した。
当初、トルシエは三浦知良を日本代表に呼ばなかったが、1999年12月の静岡キャンプで初めて参加を求めた。
1年半ぶりの日本代表だった。
「若い選手たちの模範になってもらいたかった。
彼はその役割を見事に果たしてくれた。
チームづくりのはじめの段階で本当にいい仕事をしてくれた」
(トルシエ)
そして2000年6月、ハッサン2世国王杯のジャマイカ戦で、中田英寿からのパスからゴールを決めた。
結果的にこれが代表として最後のゴールとなった。
それ以降、韓国戦にも招集され、サポーターからカズコールも起きたが、トルシエは出場させなかった。
トルシエは2002年の日韓ワールドカップへスタッフとしての帯同を望んだが、三浦知良は選手としての参加を望んだため実現しなかった。
「選手として2002年のワールドカップに出場したのはわかっていた。
だが私はロッカールームの責任者になって欲しかった。
私と選手の間に立って選手たちをまとめアドバイスを与える人間、それも選手の気持ちがよくわかる人間が必要だった。
彼らに尊敬され人望が厚い彼は、最適だと思った」
(トルシエ)
こうして予選では通算27得点のキングが本大会へ出場することは、ついになかった。
2000年5月13日、京都パープルサンガでJリーグ通算100得点を達成。
33歳でシーズン17得点を挙げ得点ランキング3位に入った。
しかしチームはJ2に降格。
2度目のゼロ円提示を受けた。

ヴィッセル神戸

 (2188092)

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2001年、ヴィッセル神戸に移籍し、以後、4年間キャプテンとして最前線に立った。
そして1年目は11得点を挙げた。
2002年、城彰二や播戸竜二が加入したり、ケガもありフル出場が徐々に減り始めた。
2003年、ベンチスタートとなる試合が増え、オゼアス&播戸の2トップのバックアップ的な役割を担うことが多かったが、J1残留を争うことになったシーズン終盤にオゼアスを出場停止となり、久々にスタメン出場した鹿島戦では、相手ゴール前で素早いターンから先制点を決め、ホームでの3ヶ月か月ぶりの勝利に貢献した。
2004年、エムボマ、平瀬智行らが加入しポジション争いは激化。
チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にはスタメンを奪取し、3試合連続ゴール。
2005年、自身は開幕3試合連続ゴールを決めたが、チームは低迷し、エメルソン・レオン監督が辞任。
パベル・ジェハークが新監督に就任すると、メンバーから三浦知良を外し、キャプテンも三浦淳宏にチェンジした。
2005年7月26日、シーズン途中で三浦知良は神戸を退団し、横浜FCに移籍した。

オーストラリア シドニーFC

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2005年11月、横浜FCに移籍し数ヶ月後、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍。
シドニーFCは、元Jリーガーのピエール・リトバルスキーが監督で、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権にオセアニア代表として出場を決めていた。
三浦知良はオーストラリアAリーグで4試合に出場し、首位を走るアデレードとの試合では、0対2でリードされていたが2ゴールを挙げ同点に追いついた。
(試合は最後には負けた)
そしてシドニーFCは初代Aリーグ王者となった。
FIFAクラブ世界選手権では、1回戦と5位決定戦の2試合にフルタイム出場し、シドニーFCは(6クラブ中)5位となった。
FIFAクラブ世界選手権への出場は(同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め)日本人として初だった。
「カズはサッカー選手のお手本。
シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」
(ピエール・リトバルスキー監督)

横浜FC

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2006年2月、横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任。
1998年秋、横浜フリューゲルスと横浜マリノスが合併された。
フリューゲルスサポーターは、チーム存続のために立ち上がり、45万人の署名と6,700万円を集めた。
1999年元旦、チームはそんなサポーターの熱い想いに押されるように天皇杯優勝を遂げた。
その間、存続の望みがなくなった状況の中、サポーターは新会社を設立。
企業に頼らない市民の、市民による、市民のためのチームづくりを目指した。
日本サッカー協会は準会員ながらJFLへの参加を認め、1999年4月25日、新チーム:横浜FCとして最初のキックオフを迎えた。
当初、横浜FCは専用練習場がなく、一般にも開放されている人工芝のグラウンドで練習していた。
また練習後のシャワーは10分100円のコインシャワーだった。
「みんな100円しか使わないけど、俺は200円使っている」
年齢を重ね、若手選手と親子ほどの年齢差になっても朝一番にグラウンドに訪れ、別メニューでなく一緒にこなすだけでなく、ランニングでは常に先頭に立った。
練習開始15分前までスマートフォンをイジッていたが改心する選手もいた。
「他の選手は『カズさんだからできるんだよね』って思ってしまったらおしまい」
(奥平康彦会長)
1日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い、徹底的に体調を管理した。
「何が成功と失敗の分かれ目になるのか。
もちろん運は大事なんだけど、イザその運が向いてきたとき、ターニングポイントになったときだけ頑張ろうと思ってもできないんだよね。
日頃からサッカーに対して謙虚でなければ運さえ向いてこない」
孤高の存在でありながら積極的に食事会、通称「カズ会」を開くなど積極的にコミュニケーションをとる。
その人柄はカズ会で隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている。
テキーラを
「走るためのガソリンのようなもの」
と愛飲し一晩でボトル1本半から2本空けることもあるという。
そしてこのシーズンは39試合に出場し6得点を挙げ、横浜FCはJ1に初昇格した。
横浜FCの試合の平均観客動員数は6,079人だったが、三浦知良の加入後、10,293人に増えた。
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記者に
「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」
と質問をされ
「J2でも横浜FCでもよくそういわれるし書かれているじゃないですか。
でもパンダじゃなきゃ人は来ないですから。
その役割は自負していますよ。
僕は客寄せパンダで十分ですよ。
だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。
パンダだからみに来るんだもの。
熊はパンダになれないんだから」
と答えた。
2007年、全39試合中24試合に出場し3得点。
12月1日の最終戦、浦和レッズ戦では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという試合だった。
横浜FCはすでにJ1最下位でJ2降格が決まっていたが、左サイドで相手ディフェンスを抜き去り、センタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。
9歳の長男に
「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」
と聞いたら
「巻(誠一郎)」
と答えられた。
この長男は15歳の春休みに、父親同様ブラジルでサッカー留学を敢行した。
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2008年2月、サイパンでロス疑惑の三浦和義が逮捕されたニュースが流れると、ロス疑惑事件を知らない若手選手は
「カズさんが逮捕された!」
と勘違いした。
このシーズン、全42試合中30試合に出場。
得点は10月25日、愛媛FC戦の1点だけだったが最年長得点記録を更新した。
2009年、ロアッソ熊本戦のPKで1得点を挙げ最年長得点記録を更新。
2010年、横浜FCのキャプテンに指名された。
キックオフの円陣で発破をかけた。
「内容はどうだっていい。
絶対に勝つんだ。
割り切ったサッカーをしようぜ」
しかし右脚のケガで10試合、合計188分の出場となったが、8月7日のファジアーノ岡山戦でゴールを決め、9月26日のカターレ富山戦では、フリーキックを決め、12月4日の大分トリニータ戦はフル出場し得点を挙げた。
これで最年長得点記録を43歳9カ月8日となった。
横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された。
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映画「ゴッドファーザー」が好きで、趣味はマフィアを研究。
よく行く店ではBGMで「ゴッドファーザーのテーマ」をかけてもらい
後輩に
「この曲がかかってたら必ず俺がいるから」
といった。
ファッションも影響を受け、スーツが好きで都内に服の収納用のマンションを持っている。
バスローブも好きで試合後のロッカーでもバスローブを使う。
朝起きてコーヒーを飲みに行くにもスーツに着替え、帰宅後にまた着替えて寝ることもある。
「海外旅行にはスーツ9着、靴7足を持参し、朝昼晩と1日3回お色直しするのも当たり前」
武田修宏との待ち合わせに全身白(帽子、スーツ、靴)にサングラスでいきうろたえさせた。
しかし横浜FCの空気がそうさせるのか、ジャージで出歩くことも多くなった。
それでもサングラスとマフラーは忘れない。

キングカズ!三浦知良選手がゴーーーーール!「阪神・淡路大震災20年 1.17チャリティーマッチ」

2011年3月29日、東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出。
試合前、カズダンスについて
「やってもいいんじゃないですかね。
いろんな意見があると思うけど、やるのも1つの手だと思う」
といっていた。
そして後半17分から出場。
後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、カズダンスを披露した。
しかしJリーグでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップした。
2011年12月、横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。
翌年1月15日、北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した。

フットサルワールドカップ日本代表

【フットサル日本代表】キングカズ初ゴール!! Japan national futsal team

2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。
10月24日、国立代々木競技場第一体育館で行われたフットサルブラジル代表戦に出場。
10月27日、旭川大雪アリーナでフットサルウクライナ代表と対戦しフットサル初ゴール。
11月、タイで行われたFIFAフットサルワールドカップに日本代表として出場した。
Jリーグでもガイナーレ鳥取戦でゴールを決め最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。
2013年1月15日、横浜FCと2年契約を結び、7月3日、栃木SC戦、開始16秒で初得点。
11月3日、松本山雅FC戦でゴールを決め、最年長得点記録を46歳8ヶ月8日に更新。
2014年、ワールドカップブラジル大会のJFAアンバサダーに任命され、6月16日の日本対コートジボワール戦を観戦し、17日に高円宮妃久子JFA名誉総裁と共にイベントに参加。
Jリーガーとして2014年シーズンは、2試合のみの出場となった。

ギネス記録 J1昇格

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2015年3月9日、J2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場。
4月5日、ジュビロ磐田戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、最年長得点記録を48歳1か月10日に更新。
現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げた。
イタリアでも
「ミウラが日本で奇跡を起こした」
「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」
と報じた。
2015年4月12日、TBSの「サンデーモーニング」で、張本勲が、
「カズファンには悪いけど、もう辞めたほうが良い」
とコメント。
それに対して
「激励と前向きに受け取っています」
と反応。
4月19日、1週間後の「サンデーモーニング」で張本は
「カズにアッパレ!
普通なら文句をつける。
それを先輩からの助言と受け止める。
男らしい。
腹が据わっている」
と絶賛した。
6月29日、水戸ホーリーホック戦で最年長ゴール記録を再び更新した。
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2016年1月11日11時11分、横浜FCが三浦知良の契約更新を発表。
2005年の途中加入以来、13季目も背番号11が託され、史上初の50歳Jリーガーの誕生が内定した。
50歳の誕生日に迎えるJ2開幕戦、松本山雅FC戦は、15000人分のチケットがクラブ初の前売り完売となった。
「1番いいのはカズがゴールを決めて勝つこと」
(奥平康彦会長)
(背番号11に因んで)11月11日11時11分、横浜FCとの契約延長を発表された。
この契約延長は海外でも話題になり、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は
「時代を超越した存在」
と称賛した。
前園真聖は
「還暦(60歳)までやるっていっていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」
とコメントしている。
2016年8月7日、C大阪戦69分、0対2で負けている状態で途中出場し、75分にゴールを決め、最年長得点記録を49歳5カ月12日に更新。
この得点後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利した。
2017年1月11日11時11分、横浜FCのクラブ公式サイトで契約延長が発表された。
シーズン開幕日は誕生日の2月26日で、開幕と同時に50歳となり、初の50代Jリーガーとなった。
「49歳から1つしか年をとっていない。
実際は数字的なもので大した変化はない」
「少しずつ全部が衰えていくのが普通。
でもサッカーは11人の連動。
基礎体力と技術があれば組み合わせ次第で新しい自分がみせられる。
ゴール前の動き次第で点が取れる」
そして2月26日の開幕、松本戦で先発。
3月12日の群馬戦ではゴールを決め、最年長得点記録を50歳14日に更新。
イングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールとなり、イギリスのガーディアン紙をはじめ世界で報じ、後に
「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」
としてギネス世界記録に認定された。
2019年11月24日、愛媛FC戦で途中出場し最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新。
横浜FCは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた。
2020年1月14日、チームと契約を更新し、13年ぶりJ1となった。
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