「海外神社」をご存知だろうか?「海外」がつかない神社であれば、初詣、お祭り七五三、などの年中行事がすぐに浮かんでくるであろうし、人によっては神道政治連盟や国家神道などというちょっと物騒な言葉を思い浮かべるかもしれない。神社とは、日本古来の宗教・習俗である神道の施設というあたりが常識ではないだろうか。

 さて、その神社に「海外」がつくとどうなるであろうか?  海外神社とは、現在の日本国の国境の外にあった、あるいは現在もある神社のことである。

敗戦後に全て廃絶となった「海外神社」をたずねて

 1945年以前、日本国大日本帝国であり、現在の日本国の領土の外に、植民地(台湾、樺太、朝鮮)、委任統治領(南洋群島)、傀儡国家(満洲国)、占領地(中華民国東南アジア諸国)と様々な種類の領土をもっていた。神の子孫である天皇が統べる大日本帝国は神国であり、その広大な帝国領には、あまねく神社が造られていた。

 かつて大日本帝国の勢力圏内に創建された神社は、敗戦後に全て廃絶となった。今わかっている海外神社の総数は約1800社以上とされるが、資料がないため、実際の数は不明である。

 私は2008年より、北はロシアから南はインドネシアまで14の国・地域で、明治時代以降に創建されたおよそ200の神社跡地と神社の撮影を大判カメラと4×5フィルムで行い、昨年末『非文字資料研究叢書2 「神国」の残影 海外神社跡地写真記録 』(国書刊行会)を出版した。 

 かつて神社があった土地の風景と、今でも神社がある風景を比較することで、日本とかつて帝国領であったアジア諸国の歴史と現在について写真で表現することを試みた本である。なお、ハワイや南米にも神社が創建されているが、大日本帝国の勢力圏に入ったことがないため撮影対象としなかった。

 手始めに、近代に創建された、天皇を祀った官幣社や南朝の忠臣などを祭神にした別格官幣社の撮影から始めた。海外神社跡地の撮影で最初に行ったのは台湾である。この時、台中公園で鳥居形に並べてある台中神社の遺構の上で遊ぶ子供たちの写真を捕まえることができた。この、たまたま撮ってしまった一枚はずっと残り続け、後の写真の指針となった。

 当初は、海外神社の中でも社格のある官国幣社(16社)を撮影すれば充分だと考えていた。しかし、少し欲をだして中国の神社跡地を数ヶ所余計に撮影すると、気が変わった。

 官国幣社だけに限定すると満洲国の神社跡地が漏れてしまう、対中戦争の重大さを考えると、満洲だけでなく中国の占領地に創建された神社跡地も撮影せねば、と妄想が暴走し、ついには海外神社跡地をつないで旧大日本帝国の勢力圏を浮かび上がらせるという無謀な目標を立てるに至ったのだ。これ以降、主に中国各地の神社跡地の撮影に注力することになった。

会社勤務で稼いだ金を突っ込んで

 中国の神社跡地は未調査の分野であったので、戦友会の会報などに載っている当時の地図から神社の場所を特定するなど、資料発掘までやるようになった。その成果は、この地図にまとめてある。

 ちなみに撮影費用については、協力関係にあった神奈川大学の資金を利用させてもらったこともあったが、基本的に会社勤務で稼いだ金を突っ込んでの撮影で、大赤字である。本をつくる時間を捻出するために、職を辞め、なんとか本ができ、次の勤め先を探し始めたところで、疫病で世界が一変してしまった。嗚呼。

 ここで、海外神社の創建から終焉まで、駆け足でみてみたい。平壌神社は在野の敬神家が「余は仮令ひ神社狂と綽名を受くるも敢へて辞する所にあらず、誓って神社建設の目的を達するに努力すべし」という覚悟で創建運動を始めた。

 南京神社は、南京事件以前より居留民会会長が神社創建を提唱していたが実現せず、日本軍が南京を占領した後、創建が決まった。また、昭南神社は、シンガポールを占領した25軍を率いた山下奉文の鶴の一声で創建が決まった。

 誰かが声をあげると、その声は雪だるま式にふくれあがり、軍や役所が後ろ盾となり、神社創建に到った。植民地に移住した邦人は特定地区にまとまって住んでおり、そこは広大な大日本帝国領の中に浮かぶ島のようなものであった。島の外は、現地人の世界。こうした植民地に神社を創建するということは、植民地も神国の一部であり、植民地への入植者もまた神国日本の臣民であり続けているということを示す象徴的な行為であった。

 地鎮祭のような祭祀は植民地の邦人にとっても欠かせぬものであったし、紀元節などの祝祭日の祭りなども、せねば落ち着かぬものであったろう。満蒙開拓団の一つ、永安屯開拓団が創建した永安神社は、団本部の近くの山の中腹に建てられた。団の最大の娯楽である秋祭りの時には、開拓団の代表者と共に地元の中国人保長も参列し、玉串を納めた。

 平壌は戦前、東洋のエルサレムと称されるほどキリスト教徒が多い街であった。そうした街で平壌神社への参拝が強制され、参拝を拒否したキリスト教系の学校は閉校に追い込まれた。なお、この時閉校した学校の一つは、朝鮮戦争後、ソウルの京城神社跡地に再建され、今もある。邦人にとっての常識にすぎなかった神道・神社を、現地人にも強制するようになった時、現地人は神社をどう見たであろうか?

 終戦時、平壌神社は8月15日の夜に焼き討ちにあった。昭南神社は軍によって爆破処理され、御神体はマラッカ海峡に沈められた。樺太がソ連軍によって占領された後、樺太護国神社はソ連兵のダンス場になった。

日本人のあるところ必ず神社あり」と言われた程、植民先に神社を造ることは当時の邦人の常識であった。しかしながら、海外神社の実態はほとんどわかっておらず、やっと全体の輪郭が見えてきた程度である。

神社跡地の現況は

 最後に、掲載した神社跡地の現況を手短に説明する。台中神社の遺構が、台中公園の中に保存されており、本殿基壇跡の上には孔子像が安置してある。南京神社は社殿・社務所が現存し、文化財として保存されている。泉神社は密林の中に放置されたままである。

 永安神社跡地には土饅頭が並び、階段だけがぽつねんと残っている。平壌神社跡地には、朝鮮戦争後に再建された牡丹峰劇場が建っている。昭南神社の巨大な遺構は史蹟に指定され、密林の中に残されている。樺太護国神社跡地の本殿基壇跡に写っている鍋などは、ホームレスが住んでいた痕跡である。陸軍南満工廠と共に文官屯神社が創建されたが、その跡地には2基の鳥居がいまだに建っている。

 比島神社跡地には、比日友好センターのビルが建ち、ビル内にかつて神社があったことを記した説明板がある。東山神社跡地は長城東山公園になっており、山頂には神社の石材や鳥居の柱が放置されている。太原神社跡地は何の痕跡もない。後醍醐天皇に仕えた名和長年を祀る名和神社の境内入口に立つ注連柱は、戦前に名和公精神を称揚していた鳥取教育会が建てたものである。

 神社という大日本帝国を象徴する施設の遺構は、戦前の精神の墓標であると言えるだろう。

 疫病下の世界で、国境を越えることが急激に困難になってしまったが、国境を越えての移動が容易でなければ、大日本帝国の神社跡地をここまで網羅することはできなかった。これらの写真が戦前の精神と共に、移動の自由の墓標とならないことを祈っている。

(稲宮 康人)

泉神社(現・ジャングル)アメリカ・自治領北マリアナ諸島連邦サイパン島、1942年7月創立、2015年10月9日撮影